第三百七十三話 ケレナと姉(3)

 ケレナはすぐさま推薦状と一緒に自分の身上書を書き送った。

 もしこれで自分が家庭教師となれば、直接領主に物言える機会は確実にある。

 会ったら絶対に文句を言ってやって、慰謝料も請求してやろう! それくらいの気持ちではいたが、一方で現実的に考えたときに、自分が領主の息子の家庭教師になれる可能性は低いだろうと思っていた。帝国において、貴族の跡継ぎとなる息子の家庭教師に、女をつけることなど考えられなかったからだ。

 ケレナにとっては、はなはだ分の悪い賭けだった。これで雇われなければ、もうこのことについて考えるのはやめようとも思っていた。

 姉に再会したばかりの頃には同情していたケレナも、何度も会ううちに、だんだんと姉の相手をするのに疲れてきていたからだ。姉の話は度々飛躍し、なんのことを話しているのか判然としないこともあった。


 だがケレナの予想を覆して、ヴァルナルはケレナをオリヴェルと新たな息子となったオヅマの家庭教師に任じてくれた。

 初めての顔合わせでヴァルナルに会ったとき、ケレナはいよいよ長らく溜め込んできた文句を言ってやろうと意気込んでいたが、いざ目の前にした男爵の立派な姿に圧倒され、何も言えなかった。オリヴェルのことも、姉からは我儘きわまりない、癇癪かんしゃく持ちの泣き虫の男の子だと聞かされていたのだが……


「クランツ男爵も、オリヴェル様も、姉から聞かされていたのと違っていて、とても穏やかできちんとした印象だった。私は混乱したわ。姉と、自分が実際に会って話す彼らの姿があまりにも違っていたから。私は詳しい事情を知りたくて、それからは注意深く、この館での二人のことを観察したり、人づての評判を聞いたりしたわ」


 そうして事情を探っていくうちに、多くの使用人がメリナに対して反感を持っていたことを知ると、ケレナはもはや姉の言葉をそのまま受け入れることはできなくなった。


「おそらく……きっと、姉は病のせいで極端な考え方にとらわれてしまうようになったのだろうと……残念ながらそう考えるしかなかった。いつだったか、あなたも話してくれたでしょう? 若君の世話をしていた女が、畏れ多くも領主様の寝室に忍び込んで、情けを受けようとしたって。あれを聞いたときには、もう私、恥ずかしくて恥ずかしくて……」

「いや……その……」


 ネストリは自分の軽率な発言にあわてたが、今更撤回もできない。

 ケレナはかなしげに首を振って言った。


「いいの。あなただけじゃない。ほかの使用人もそれとなく聞いてみたら、みんな教えてくれたわ。姉がこの館でとても傲慢ごうまんに振る舞っていたことも」


 ケレナとしては姉に裏切られた気分であったが、あの当時の姉の心境を考えると、それはそれで仕方なく思えた。


「姉さんは……自分勝手な思いであったかもしれないけど、男爵のことを好いていたの。それだけは本当なの。おかしくなる前、ずっと昔から姉さんと文通していて、このレーゲンブルトでの出来事を書いてきていたわ。領主様がとても素敵な人だって、あの頃は誉めていたし、母親に捨てられた哀れなオリヴェルのことも可愛いと言っていたんだから。あの気持ちがすべて、男爵夫人になりたいがためのものだったなんて……それは、違うはず」


 姉に過ちがあったのだとわかっても、それでもケレナには一つだけ納得できないことがあった。

 それはミーナのことだ。

 ミーナが確かに皆の言う通り、よくできた人間であることはわかっていた。

 彼女は平民の出だというのに、簡単なルティルム語の読み書きもでき、礼儀作法については専門のジーモン教授すら舌を巻くほどに完璧だった。立ち居振る舞いも、教養も、淑女として十分で、なにより眩しいほどの美しさがあった。

 それまでケレナの中では姉は美人の部類であったが、彼女を前にすれば霞んでみえた。領主の目に留まるのも無理はない。

 けれど結婚するとなれば、話は別だ。


 ケレナは何度となくミーナにヴァルナルとの結婚について尋ねた。

 心の中では、以前は厨房下女でしかなかったような卑賤の女が、領主様の奥方 ―― つまりは男爵夫人になるなど、あり得ないという思いがあったからだ。

 自分の出自について誇示するつもりは毛頭ないが、ケレナの母方の祖父は准男爵で、父は富裕な商人の出だった。一方、ミーナなどは異民族の血を引き、あまつさえ小作人風情の未亡人。貴族の正妻になるなど、不釣り合い極まりない。

 だから牽制したのだ。

 ヴァルナルがグレヴィリウス公爵の亡くなった夫人に『格別な想い』を持っていたことなど言ったりもして。それは姉から度々聞いていたことでもあったから。


 だがそんなケレナの意地悪な性分を神様は見ていたのだろうか。

 ミーナがあのぺたんこ頭の行政官に襲われたと知ったときには、ケレナは心底驚いた。

 何気なくミーナが朝、ほこらに礼拝に行くことをギョルムに話したせいで、危険な目に遭わせてしまった。これが領主のヴァルナルに知られれば、きっと叱責され家庭教師の職も失うかもしれぬと、ケレナは気が気でなかった。

 だから早々にミーナに謝罪したのだ。謝罪を受け入れて、領主にも黙ってくれたミーナに感謝もした。

 ただ、同時に、ホッとしていた。

 ギョルムに襲われたという醜聞によって、ヴァルナルがミーナをめとることなど有り得ぬと思ったから。

 だが結局、ミーナはヴァルナルと結婚。しかも彼女は愛妾ではなく、正式なる妻と認められた。


「もちろん祝福しているわ、私。オリヴェル様にも、彼女はやさしい母親でいてくれるのだから、彼らが幸せであることに、文句を言える資格なんてないのよ。でも、どうしても……姉が哀れで、惨めで、可哀相でたまらない……」


 ケレナは結婚式で花嫁衣装に身を包んだミーナを見たときに、心底から美しいと思った。その神々しいまでの美しさに、一瞬、姉のことも忘れるくらいだった。

 けれど祭りが終わってしばらくすると、脳裏に甦るその姿と、伯母夫婦の家の小さな部屋で縮こまっている姉の姿を比べて、ひどく心がざわめいた。


 同じ世話人として、姉だってオリヴェルに愛情を持って面倒をみていたはずだ。なんであれば幼かった分、ミーナよりもずっと大変な思いをして、それこそ母親代わりに育ててやったのに……どうして姉は選ばれず、ミーナは選ばれたのか。


「私は、結局、ミーナさんが美しいから……なんだかだと言って、男はそういうことなんだろうと思っていたの。領主様だけじゃなく、オリヴェル様も……どうせ母親になるのなら、美しい女のほうがいいと思ったんだろうと……でも」


 この間、オヅマとオリヴェルが姉の話をしているのを聞いて、ケレナは衝撃を受けた。まさか姉が、オリヴェルにそんなひどいことを言っていたなどと思わなかったからだ。


「あのときのオリヴェル様はまだ五歳だったのに、いくら自分の長年の片思いが叶わなかったからといって、幼い子供にひどいことを言って、しかも謝りもせずに出て行ったなんて……もう私は情けなくて、悲しくて……だからずっと悩んでいるの。今からでも正直に領主様に打ち明けて、姉のことを正式に私から謝ったほうがいいのかどうか……」

「馬鹿なことを!」


 ケレナの迷いを断ち切るように、ネストリは叫んだ。


「そんなことを今頃になって言ったところで、領主様だって困惑されるだけだ! ミーナ……様だって気まずくて、これまで通りになど接することはできなくなるだろう」

「……でも」


 迷いを浮かべるケレナの肩を掴み、ネストリは厳しく言った。


「いいか。今更謝ったところで、もう済んだことだ。何も変わらないどころか、皆が嫌な気分になるだけなんだよ」

「…………」

「君は謝ってすっきりするかもしれないが、領主様もミーナも、いい気分になることはない。若君だって、昔の嫌な気持ちを思い出すだけだ。本当に申し訳なく思うのならば、メリナのことは君の胸に秘めておきなさい。下手をすれば、君はここから追い出されるかもしれないぞ。そうなってもいいのか?」


 強い口調のネストリに、ケレナは困惑した。


「そんな……領主様やミーナがそんなこと」

「随分とのんきだな、君は。いいか? 君がメリナの話を出して、何か言えば、それは謝罪どころか、脅迫にだってなる可能性があるんだぜ」

「脅迫?!」


 驚いて息を呑むケレナを、ネストリはより追い詰めるように言い立てる。


「そうだ。姉の心神しんしん耗弱こうじゃくの原因をつくったのは、領主様だと責め立てているのと同じだよ」

「そんな……」


 ケレナは愕然とした。自分としては誠意を表すつもりであるのに、そんなふうに曲解されるなんて。


「ともかく、このことは絶対に言うんじゃない。厄介事は御免だ」


 ネストリはイライラしたように言うと、ベッドから出てせわしなく着替え始めた。

 ケレナは悄然と、ネストリの部屋から出て行った。

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