第三百七十二話 ケレナと姉(2)
ケレナは眠れずにいた。
勉強室の前でオリヴェルの話を聞いて以来、ずっと心は重いまま。ベッドに横になって目をつむり、ひとときの眠りが訪れても浅く、夜中に何度も目を覚ます。
その日は久しぶりにぐっすり眠れるかと期待したが、やはり目が覚めた。隣に眠る男の体温に安らぎを感じながらも、深いため息がもれる。
男を起こさないように起き上がると、ベッド脇に置かれた椅子に無造作にかけられた夜着を羽織った。カーテンの間から漏れてくる月明かりを頼りに燭台の蝋燭に火を付けると、水差しを手に取る。陶器のコップに水を注いで、ゴクリと一口飲んでから、ふぅーっと長く吐息をついた。
「……どうした?」
蝋燭の明かりで目を覚ましたのか、男 ―― ネストリが声をかけてきた。
「あら、ごめんなさい。起こしてしまったわね」
「いや……もうすぐ起きる時間だから勝手に目が覚めただけだ。君は珍しいな。いつもはぐっすり寝てるのに」
言いながらネストリの口元が少しにやける。
ケレナはクスッと笑って、再びコップに水を注ぐと、ネストリに持って行った。
「そうね。今日はよく眠れると思ったのよ。そのつもりだったのだけど……自分の心に嘘はつけないわね」
ネストリはコップを受け取って、ケレナの暗い表情に眉を寄せた。
「なにかあったのか?」
ケレナは力なくベッドに腰を下ろした。蝋燭の明かりに照らされた横顔は、憂いが濃い影を落としている。
「どうしたんだ? なにか言われたのか? 君にひどいことを言ってきた奴がいたのか?」
ネストリは激しくその架空の誰かを攻撃するかのように言い立てたが、ケレナは力なく首を振った。
「違うの。姉のことよ」
「姉? 帝都にいる?」
ネストリは聞き返しながら、まだ会ったことのないケレナの姉についての情報を思い出していた。
ケレナの姉は病気で、既に二人の両親は他界しているため、今は帝都近郊に住む伯母夫婦の家に住まわせてもらっている。そのためケレナは定期的に伯母夫婦に姉の世話代も含めた仕送りをしていた。だが伯母夫婦も老齢で、年々働くのも難しくなってきており、彼らには子供もいないので、ゆくゆくはケレナが彼らの面倒をみねばならないのだという。
ネストリはヴァルナルらが結婚したあとに、実はケレナに求婚していた。すぐにも了承してもらえると思った彼女からの返事は「できない」。ネストリは納得できず、渋る彼女に何度も問うて、ようやく得た答えが姉のことだった。
「私は姉のことも、伯母夫婦のことも世話する義務があるんです。もし私と結婚すれば、あなたにも迷惑をかけてしまうことになる」
そう言われて、ネストリは情けないことだが尻込みしてしまった。
執事の給料はそこそこある。ケレナと二人で暮らす分には、彼女が教師の職を辞して家庭に入っても十分だった。いずれ子供ができたとしても、そこは自分の子供だ。張り合いにもなる。
だが、会ったこともないケレナの伯母夫婦と姉とやらにまで、自分の汗水たらして働いた金を仕送りせねばならないとなると、それは別の話であった。いっそケレナが教師の職を続けて、彼らをこのまま養うのであればいいが、彼女は結婚したら教師を辞めたいと思っているらしい。
最近ではそうでもないが、昔ながらの考えからすれば、結婚した女が働くのは夫に甲斐性なしと見られて、世間体が悪い。他人からの評価を気にするネストリも、本来ならば彼女の意見に賛同しただろう。
だが、自分も含めた大人五人を養えるほど、ネストリの給金は高くなかった。ケレナと結婚することで、彼らのために自分の生活水準を下げねばならないのは納得がいかなかった。
そこで彼らの結婚話については暗礁に乗り上げ、どっちつかずのまま関係を続けていたのだが、またその姉の話が出てきて、ネストリは一気に不機嫌になった。
「また催促か」
吐き捨てるように言ってしまうのは、彼らからケレナに対して度々、金を無心する手紙が送られてくるのを知っていたからだ。
ケレナは「違うの」と言うと、ネストリの手にあったコップを取って、ベッドサイドのテーブルにコトリと置いた。
「私、まだあなたに話していないことがあるの」
「なに……?」
「私の姉の名前、言ってなかったでしょう。姉の名前は……メリナ。メリナ・バルトン」
その名前を聞いて、ネストリはしばし固まった。一拍置いて「あっ」と声を上げる。
「メリナ・バルトンだって?」
思わず大声で聞き返してから、響いた自分の声に驚いて、ネストリはすぐに声をひそめた。
「それは、オリヴェル様の世話係だった……」
ケレナはコクリと頷いた。
ネストリはにわかに信じられなかった。
「で、でも……君の名前はミドヴォア」
「ミドヴォアは亡くなった夫の姓よ。そのまま使ってただけ」
ケレナにあっさりと答えられて、ネストリはそのことについて納得しつつも、まだ信じられなかった。
メリナ・バルトンは、元男爵夫人であったエディットの侍女としてレーゲンブルトにやって来た女だ。
彼女らがやって来た当初は、まだネストリは公爵邸で働いていたが、その元男爵夫人が男と一緒に出奔するという、世にも破廉恥な行動を取った後に、執事候補としてレーゲンブルトに来ることになり、そのときに紹介された。
本来であれば、お互いに帝都からこんな辺境に来たことについて、いくらでも意気投合できそうなものであったが、ネストリは正直この女が苦手だった。というより嫌っていた。
確かに貴族夫人の侍女をするだけあって、そこそこの美しさはあったが、そうした女にありがちなように、メリナもまた高慢ちきであった。新米のネストリなど目もくれず、まともに相手するのも無駄だと言わんばかりの態度だった。
メリナは基本的にはオリヴェルを甘やかした。
だが彼女は情緒の波が激しく、衝動的に叱りつけることもあったし、子供相手に愚痴をひたすら言い続けることもあった。
こうした世話係の精神的な不安定さは、当然世話されたオリヴェルにも伝播し、彼は病気がちという身体的不自由さもあって、
彼女は最終的に男爵夫人の座を狙っていた。それは言わずとも、領主・ヴァルナルに対する彼女の態度をみれば一目瞭然だった。ヴァルナルの前でだけは、わかりやすく化粧なども濃く、オリヴェルが自分になついていることをこれみよがしに見せていたから。
だがあまりにヴァルナルが鈍感で、まったく彼女を相手にしなかったために、とうとうしびれを切らしたのだろう。
ある日、愚かにも領主の寝室に忍び込んで、関係を持とうとしたらしい。当然、ヴァルナルが彼女を受け入れることはなく、厳しく叱責して戻らせた。
この話を聞いたときに、ネストリは大笑いした。
ネストリだけでなく、領主館の使用人のほとんどは、彼女の行動の
次の日になって、ヴァルナルは彼女を解雇すべく呼び出したのだが、そのときには既に彼女は館から姿を消していた。
さすがに自分でも自分のした行為が恥ずかしかったのだろう。
ネストリが知っているメリナのことはここまでだったが、ケレナはメリナのその後のことも含め、彼女の身上について語った。
「私と違って、姉はどこに行っても評判の美人だった。いきいきしていて、自信があって、気配りもできて。最初は女中だったのに、伯爵家の奥様に気に入られて、とうとう男爵夫人の侍女にまで抜擢されたのよ。意気揚々と旅立ったのに……」
レーゲンブルトからまるで夜逃げするように出て行ったメリナは、その頃ちょうど家庭教師の仕事が途切れて、しばしの休暇を楽しんでいたケレナの元にやって来た。
久しぶりに会う姉の、あまりに変わり果てた姿にケレナは驚いた。
「姉は……すっかり気が滅入ってしまっていて……髪も白髪が多くなっていて、まるで疲れきった老婆みたいになってた。私は姉から事情を聞いて……そのときには、姉はクランツ男爵に騙されたと言っていて、私もそれを信じたの……」
それからメリナは何度も自殺未遂を繰り返し、どんどんと気鬱がひどくなっていった。
そうした
施設はひどく不衛生で、ろくに掃除もされておらず、中にはベッドに
「私は、そのときちょうど間借りしていた伯母夫婦に頼み込んで、そこで姉に療養してもらうことにしたの。それからレーゲンブルトに行って、姉のことで文句を言ってやりたかったけど、ちょうど子爵家のお嬢様たちの家庭教師の仕事も入って……それからは姉への仕送りのためにただひたすら働いて……そうしたら、まるで神様が私を憐れんでくださったみたいに、本当に偶然、ここでの仕事を紹介してもらえたの」
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