第八章
第三百七十一話 ケレナと姉(1)
―――― あなたのお父上は、本当に冷たい方です!
―――― 私がこれまであなたを育ててきたというのに……
―――― こんなことなら、いっそ最初から面倒なんて見なければ良かった……!
―――― ひ弱で泣くばっかりの、役立たずのお前を一生懸命世話して……
―――― 無駄だった!
―――― アンタなんか母親にも父親にも捨てられた、いらない子だ!
オリヴェルはベッドの中でカタカタと震えていた。
その夢はもうしばらく見なくなっていたのに、久しぶりに夢魔に呼び起こされたらしい。薄い眠りの中に生々しい残滓が残り、寝間着はぐっしょりと濡れていた。
「……はぁ」
大きく深呼吸して、薄暗い部屋の中を眺め見る。
重苦しい創世神話を描いた天井画が、あの頃と変わらずオリヴェルを押し潰さんばかりに圧迫してくる。オリヴェルはブンブンと頭を振って立ち上がると、バルコニーへと向かった。重たいカーテンを押しのけると、晩秋の柔らかな曙光が目に入ってくる。ようやくそこで夢だと人心地ついた。ふぅと深呼吸して自分に言い聞かせる。
もう昔のこと。今の自分は幸せなのだ、と。
だがそう考えると、今度はなんとなく夢の中で自分を罵ったあの女のことが、少しだけ哀れに思えてきた。
「……あのひとは、幸せになったのかな……?」
誰にともなく、オリヴェルはつぶやいた。
その日はそんな目覚めであったので、やはりどこかオリヴェルの気分は沈みがちだった。
とうとう午後からのルティルム語の授業の前に、オヅマから指摘された。
「オリー、どうしたんだ? 具合悪いのか?」
言われてオリヴェルは自分がボーッとしていたことに気付き、あわてて笑ってごまかそうとしたが、うまくできなかった。当然、オヅマが見逃すはずもない。
「なんだよ。また、マリーがかまってくれないって愚痴か?」
「ち、違うよ! 最近は僕だって、そんなにマリーとばっかり遊んでるわけじゃないさ。絵だって描いてるし」
「おぅ、あれな。パウル爺、喜ぶぞ~。きっとみんな大笑いだ」
オリヴェルはしばらく風景や静物画を描いていたが、ここ最近は神殿で舞っているオヅマたちを描いて以来、久しぶりに人物を描いていた。それがパウル爺で、午後の休息時間になると勝手口の脇のベンチでコックリコックリ舟を漕ぐ姿を描写したものだ。初めにラフ画を見せてもらったときに、すぐにオヅマにはそれがパウル爺だとわかって、あまりにも上手に特徴をとらえた姿に大笑いした。
「で、なんだ? なんか嫌なことでもあったか?」
オヅマに再び尋ねられて、オリヴェルは少し迷いつつ今朝の夢のことを話した。
オヅマは以前にも、オリヴェルから幼いオリヴェルを育ててくれた侍女について聞いたことはあったが、姿を消した
今、その去り際に残していったひどい言葉を聞くなり、オヅマは激昂した。
「なんだ! その女!! なんつー勝手な奴だ。ふざけんなッ!」
「オヅマ……」
オリヴェルは自分のことのように怒るオヅマを見て、少しだけ気持ちが楽になった。
「いいんだ。もう昔のことだし……僕も今日、夢で思い出すまでは忘れてたくらいだから」
「俺は今聞いてムカついてる」
「僕は今、すごく恵まれてるから……だから、ちょっと申し訳ない気がしてたんだと思う。だからあんな夢を見ちゃったんだ、きっと」
「なんだ、それ。意味わからん。なんでオリーが申し訳ないんだよ。悪いのはその女のほうだろ」
怒りが収まらないオヅマに、オリヴェルは穏やかに微笑んだ。
「僕は今、とても幸せだから……あの人が不幸なままなのかなって考えると、少しだけ可哀相な気もするんだよ」
「なに言ってんだ、お前。同情なんかする必要ないだろ。そんなひどいこと言う女」
「僕は大丈夫だよ。オヅマみたいに、叩かれたりしたわけじゃないし。たまにお尻をぶたれたりしたけど」
「叩かなきゃいいって問題じゃないだろ! 俺なんかいいんだよ。別に。クソ親爺に何されようが、クソだと思ってたんだからな。今だって変わらねぇ。あんな親爺、川で溺れて死のうが、殺されようが、一切同情なんかするもんか。お前だって同じだ。そんな女に同情なんかするな! 野垂れ死んでろクソババァって思っとけ!」
「それはさすがに……ちょっと」
オリヴェルはあまりに口汚く罵るオヅマに閉口した。
困ったように口ごもるオリヴェルを見て、オヅマはチッと舌打ちしつつ頭を掻いた。
「……悪い。ちょっと頭に血がのぼった。なんか、すごく腹が立つんだよ。だってお前、その女のこと信じてたんだろ? 母親代わりだったんだろ?」
「…………うん」
「母親みたいに思ってる相手に、そんなこと言われたら……いくらお前がチビで、まだ言葉もよくわかんないとしても、絶対、嫌な気持ちになっただろ。だからいまだに覚えてんだ。言葉よりも、なんか、気持ちがえぐられてさ……」
言いながらオヅマの胸の奥に、重く、暗い
信じていた……信じ切っていた人間に裏切られることは、どんな痛みよりも鋭く、深く、重く……いつまでも、消えない。
オリヴェルは顔をうつむけ言い淀むオヅマに、またニコリと微笑んだ。
「ありがとう、オヅマ。怒ってくれて」
「……そうだぞ。お前がしっかり怒らないから、俺が代わりに怒ってやってんだ」
「ハハ。そうだね」
オリヴェルは笑って認めてから、また少し寂しげな表情になった。
「僕は、自分が悪いんだって思ってたんだ。小さい頃の僕は今よりももっと体が弱かったから、面倒をみるのも大変だったろうし、僕の我儘もずっと我慢してきたんだと思う。何があったのかはよくわからないけれど、あんなに一生懸命、僕の世話をしてくれたのに、彼女の望むようにならなかったのなら、僕が悪かったんだろう……って」
いまだにオリヴェルの中に、自分を傷つけて去った女への恨みはなかった。確かに小さなオリヴェルにとって、女の態度の急変や、唐突な別れは衝撃ではあったが、彼女を単純に非難することはできなかった。あの頃の自分にとって、彼女は唯一の味方だったから。
一方、オヅマにはそのオリヴェルの優しさが歯痒かった。
「馬鹿! そんなわけないだろ! お前が悪いことなんか、一つもねぇよ」
「うん。でも、いいんだ。だって、もうあの人はいなくなっちゃったんだし……きっと僕のことなんて忘れて、のんびり暮らしてるだろうから」
「ふん。罰が当たって、道ばたで這いつくばって暮らしてるかもな」
「そんなふうになってたら嫌だよ、僕。僕と同じくらい幸せになっててくれたら、そのほうがいいよ」
「あー……まったく、このお人好しが! 俺にはしょっちゅうマリーと二人して憎たらしいこと言いやがるくせして……」
「…………」
少しだけ開いた扉から漏れるオリヴェルの笑い声を、ケレナは固い表情で聞いていた。
「ミドヴォア先生? どうしたんですか?」
不意に背後から声をかけられて、ケレナは思わずビクッと振り返る。
そこにはマリーと、最近になってレーゲンブルトにやって来た二人の少女 ―― サラ=クリスティアとカーリンら三人が立って、不思議そうにケレナを見ていた。
「あの……大丈夫ですか?」
カーリンが気遣わしげに問うてくる。
一歩近寄られて、ケレナはあわてて一歩
「あれ? 先生、来てたの?」
「あ……ええ」
ケレナは取り繕うように笑ってから、どこか落ち着かない様子で言った。
「あ、ごめんなさい。授業に必要な本を忘れてたわ。ちょっと取りに行ってくるわね」
返事する間もなく、ケレナはあわてたようにその場から走り去っていく。
「……なんだ?」
オヅマはケレナの態度に首をひねった。
「どうしたのかしら? 先生。なんだか、つらそうだったけど」
マリーも同じように小首を傾げる。
「なんだ? 具合悪かったのか、先生」
「私たちの授業のときは、特にそんなふうには見えませんでした」
と、言ったのはティアだった。
レーゲンブルトにやって来てから、ティアとカーリンはマリーと一緒に、ルティルム語の授業を受けている。マリーも一応、男爵令嬢となった以上は、必要最低限の素養として主たる外国言語の習得が求められた。当人はその独特の発音に四苦八苦で「舌が曲がってしまいそう」だとぼやいていたが。
「今日はルティルム語の歌も歌ってたし。ぜんぜん、ご機嫌だったわよね?」
マリーが二人に言うと、カーリンもティアも頷く。
「あの……私にはここで先生が何か、その……立ち聞きしていたような気がするんですけど」
カーリンがおずおずと言うと、オヅマは眉を寄せた。
「立ち聞き? 先生が?」
「あっ、いえ。そう見えただけで。あの……本がないことに気付いて、立ち止まってただけかも」
「ちょっとぉ、お兄ちゃん。まさか先生の悪口言ってたんじゃないでしょうね?」
マリーに睨まれ、オヅマはすぐさま言い返した。
「違うよ。まぁ、悪口を言ってたのは言ってたけど……先生のことじゃないぜ」
「あ……だったら、もしかしたら勘違いされたのかも」
ティアに言われて、オヅマはうーんと思案したが、いつの間にかオヅマの隣に来ていたオリヴェルが頷いた。
「そうかもしれないね。先生が戻ってみえたら、謝るよ」
「そうしてね、オリー。ミドヴォア先生って、とっても面白いけどとっても繊細なの。この前もネストリさんとちょっと喧嘩したって、泣き出しちゃうし」
「あのオッサンとミドヴォア先生ってのがなぁ……元々合ってないような気がするんだよな」
「だから、そういうこと言わないの! お兄ちゃん!!」
その後にケレナが戻ってきて授業が始まったものの、結局途中で「気分が悪い」と、いつもより早くに終了してしまった。オヅマとオリヴェルはケレナの言葉をそのまま受け取った。
この些細な違和感の理由を彼らが知るのは、まだまだ先の話だ。……
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