第三百七十話 皇宮の化かし合い(2)

 イェドチェリカが足を止める。

 振り向くことのない顔は、どんな表情なのかも窺い知ることが出来ない。


「誰知ることもなかった流浪の貴公子が、今や英雄クランツ男爵の息子で、アドリアンの近侍だなんて……ずいぶんと出来過ぎた話じゃあないですか? まるで『神々の配剤した駒のごとし』だ。しかも用意周到にグレヴィリウスに間諜かんちょうを忍ばせておくなんて……。予知でもされましたか? 神女姫みこひめらしく」


 アレクサンテリの皮肉に、イェドチェリカは大きく深呼吸してから振り返った。口元にうっすらと笑みが浮かんでいるが、石像の微笑にも似ていて、心中を計り知ることはできない。


「おかしなことを言うのね、アレク。ヤミはもうあなたにあげたでしょ? あの子にグレヴィリウスに行くように命じたのはあなたではないの」

「それはそうですけど、そうなるように姉上が仕向けたと言えなくもないでしょう? 将来的にグレヴィリウスが必要になるだろうから、情報収集はしておくように……って」

「あら? だって、その通りでしょう? 皇帝ちちおやには嫌われて、皇后ははおやのことは信じていないあなたが、後ろ盾もなく生きていけるほど、皇宮ここはやさしい場所ではないわよ」


 忌憚きたんのない姉の意見に、アレクサンテリはまた肩をすくめた。


「それは認めますけど。でも宰相閣下はわりと中立だと思いますよ。口やかましいおじいさんではあるけど」

「そうね。確かにダーゼ公は清廉せいれんな方よ。でも、あの人は皇帝おとうさまとのつき合いが長すぎて、絆を断ち切ることは難しいでしょう。そういえば彼の娘はあなたのきさき候補だったわね……」


 白髭宰相から、彼の一人娘の美しい公女のことを思い出したらしい。イェドチェリカはふと考え込んだ。


「どうしました?」


 アレクサンテリが尋ねると、イェドチェリカはボンヤリとつぶやく。


「……あんな美しい娘のことを、どうしてのかしら? ……」


 アレクサンテリは、いきなりどこか遠いところへと心を飛ばしている姉を見て、またかと嘆息した。


「なーに言ってるんですか、姉上。ヴィオラのことは前に、ご紹介したでしょう?」


 指摘されて、イェドチェリカはややぼんやりとアレクサンテリを見返してから、ニコリと笑った。


「そうね。……いずれにせよ、ヤミをグレヴィリウスに行かせて正解だったじゃないの。お陰で大公に隠し子がいることもわかったでしょ? あの子は優秀よね。ちゃあんとあなたのために働いていてくれているわ」

「まぁ……そうですけど。でもグレヴィリウス公にバレたらどうなることか……」


 グレヴィリウス家での情報収集活動のためにヤミ・トゥリトゥデスを潜りこませたはいいものの、優秀さがあだになったのか、公爵家においても間諜のような役割を担わされている。

 だがこれは誤算だった。

 公爵直属の間諜組織にいれば、確かに重要な情報を手に入れることもできるが、厳選された情報は、その分、出処もわかりやすい。機密事項というのは、誰もが知るものではないからだ。


「僕としては、ヤミには目立たず長く潜り込んで、しっかり信頼してもらった上で、細々こまごまとした情報を教えてもらいたかったんですよ。そんなに重要な機密とかじゃない……小公爵の苦手な食べ物とか、ちょっと人に言えない癖とか。あんまり有能すぎて目立っちゃ、そのうちバレちゃいますよぅ」


 不満にやや不安を滲ませて、アレクサンテリがこぼす。

 イェドチェリカはフッと笑みを浮かべて断言した。


「公爵のことは心配しなくていいわ。あちらのお家事情に踏み込まない限り、何も言ってきやしないでしょう。どうせあの人は皇帝に骨抜きにされたも同然の隠遁者よ。愛する奥方を亡くして以降は、ただ傍観して余生を潰しているだけ」


 赤く紅をひいた唇から発せられる辛辣な言葉に、アレクサンテリは半ばあきれつつ首を振った。


「まったく怖いなぁ。なにをどこまで知っているんですか?」

「グレヴィリウス公爵と皇帝のことなら、少し調べれば推測できるわ。まぁ、程度に留めておかないと、しつこく追求なんかしたら、ヤーヴェ湖に浮くことになるかもしれないけれど」

「ああ……もう。本当にこの人は」


 ため息をついて見上げた先では、澄み渡った夜空のような瞳が、静かにアレクサンテリを見つめている。これこそがサラ=ティナの真誠の瞳なのであろうか。だが、アレクサンテリは姉の澄ました美しい顔よりも、動揺を秘めて歪む顔が見たかった。


「どうやらアドリアンは最近、大公とよく会っているようですよ」

「あら、それはあまりよろしくないことね」


 そうは言いながらも、イェドチェリカの顔は平然としていて、あまり興味はなさそうだった。姉に会った瞬間、嬉しさのあまり言葉もなくし、あわてて駆け寄ろうとして転んでしまったアドリアンの姿を思い出す。アレクサンテリは少しばかり、純情な幼馴染みが不憫になった。


「そういえば例の流浪の貴公子くん、ペカンパイが大好物だそうですね。ライムのケーキとやらも」

「…………」


 イェドチェリカの顔にかすかな緊張がさざなみだつ。日頃から何を考えているのかわからない姉の、一瞬だけ見せたその微妙な揺らぎを、アレクサンテリは見逃さなかった。ニンマリと笑みがこぼれる。


「優秀なヤミが教えてくれたんですよ。姉上にも報告が来てませんか?」

「アレク」


 イェドチェリカはゆっくりと近寄ると、アレクサンテリの頬をそっと手の甲で撫でた。ヒンヤリした感触に、アレクサンテリの全身が一瞬ゾワリと総毛立つ。

 瞬きもできずにいる弟をじっと見下ろして、イェドチェリカは気怠けだるげに言った。


「過ぎた好奇心は身を滅ぼすと、老人は言うでしょう? 私はね、案外とあなたのこと、買っているのよ。、あなたがお利口さんで良かったと思っているの。だから失望させないで頂戴ね。あなたを選んだ私を」


 そのままアレクサンテリの返事を聞くことなく、イェドチェリカは部屋を出て行く。静かな脅迫に粟立った腕をこすりながら、アレクサンテリは暗がりに潜んでいた男に呼びかけた。


「ゼビ。また、刺客送っておいてくれる? 無駄になるだろうけど」


 部屋の一隅に控える影が小さく「御意」と答える。

 アレクサンテリは立ち上がると、うーんと伸びをしてから歩き出した。


「さて、と。ぜんぜん相手にもされてない、哀れな小公爵様に会いに行こうか。少しばかり釘を刺しておかないと」

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