第三百六十九話 皇宮の化かし合い(1)

「明日、アドリアンがアールリンデンに戻るようです」


 アレクサンテリが告げても、イェドチェリカの表情が変わることはなかった。

 聞いているのか聞いていないのか、窓の外を飛んで行く水鳥の群れを眺めている。そんな姉をまじまじとアレクサンテリが見つめていると、その物言いたげな視線にイェドチェリカはぷっと吹いた。


「なにをそんなにしげしげと私を見ているの? なぁに? 何か言わなければいけなかったかしら? もう実織みおりの月に入ったのだから、帰って当然でしょう」

「そりゃそうなんですけど……ちょっと意外でした」

「なにが?」

「あと数回は呼ぶのかと思っていたんですよ。兄上が生きておられた頃には、しょっちゅう遊んでいたじゃあありませんか」

「あれは兄様にいさまが呼んでいたのよ。だから私も一緒にいただけ」

「じゃあ、アドリアンには興味もないんですね」

「興味?」


 イェドチェリカは聞き返して、クスクス笑い出した。


「私が彼に興味をもって、どうするの? ただの神女姫みこひめでしかない私に、彼をどうこうすることなど出来るはずもない」

「でも、アドリアンは姉上のことを好いてますよ」

「えぇ、そうね」

「否定しないんですね」

「知っているもの。当然でしょう。父親にうとまれて、広い公爵邸でたったひとりぼっちの可哀相な小公爵様ですもの。憐れに思って優しくしていたら、なついたのよ。誰にでもそうよ。私だけじゃなく兄様にだって、なついていたし」

「……僕には一向になつかないんですけど」


 ぷんとむくれた顔になるアレクサンテリの額を、イェドチェリカはツンと指でつついた。


「それはあなたの底意地が悪いのを、アドリアンが感じ取っているのでしょうね。あの子、さといから」

「聡い? 本当に聡かったら、姉上のような魔女を好きになると思えないんですけどね」

「まぁ、ひどい。神女姫をつかまえて、魔女だなんて」

「神女姫も魔女も紙一重ですよ。いや、表裏一体かな?」

「まったく、あなたはそういう口さがないところが嫌われるのよ。おしゃべりな人間は、男も女も嫌われてよ」

「どうせ僕なんて嫌われてますし、黙っていい子にしていても、ロクなことにならないのは身に沁みてわかりましたからね。言いたいことは言うことにしたんです。幸い、それが許される立場になれたので。姉上のお陰です」


 しゃあしゃあと言ってくる弟をジロリと見て、イェドチェリカは林檎酒の入った銀のゴブレットを手にした。ゴブレットに施された優美な桜草の浮き彫りをそっと撫でながら、不満げに言う。


「私に恩義を感じるなら、月に一度、刺客しかくを送るのをやめてもらいたいものね」

「ハハハ。やだなぁ。ちょっとした冗談みたいなものですよ」

「あら、冗談なの? 随分と面白みのない冗談ね。場末の三文芝居以下だわ」

「厳しいなぁ。僕だって子供なんですよ。アドリアンと同じ十二になったばかり」


 イェドチェリカは肩をすくめ、林檎酒を一口飲んだ。素っ気ない姉の態度に、アレクサンテリはふいに視線を落とすと、深刻そうな表情でつぶやいた。


「…………時々、訳もなく怖くなるんです。あのまま……もし、あのまま皇帝陛下ちちうえの言うことに従っていたらどうなっていたんだろう……って。今も……今度は姉上に利用されているだけなんじゃないかって……」

「…………」

「だ・か・ら……」


 アレクサンテリは顔を上げると、じっとイェドチェリカを見つめた。いや、もうほとんど睨みつけていた。だが弟の強い視線をまともに見返しながら、イェドチェリカの表情はいでいた。なんらの痛痒つうようも感じていないかのように。

 急にアレクサンテリはニコッと破顔した。


の姉上を、ときどき無性に殺したくなったって、仕方ないじゃあ、ありませんかぁ~」


 わざとらしく甘ったれた口調で言ってくる弟に、イェドチェリカは心底あきれたため息をもらした。


「とんだ勘違いね、アレク。私だってすべてを知っているわけではないわ。私の口を封じたところで、何も変わりはしないわよ」

「それは僕の秘密を知る者がまだいるということですか? 誰かに教えたんですか?」

「さぁ……どうかしらね?」


 イェドチェリカはうっすらと微笑み、林檎酒をまた一口含んだ。

 アレクサンテリがムゥと口をとがらせる。


「そういう態度だから、いつまでたっても僕の心が落ち着かないんだ」

「将来皇帝になろうという人間がなにを言っているの。宮中にはもわんさといるのよ。私程度で泣き言を言わないでちょうだい。せっかくというのに」

「せっかく助けた可愛い弟に、平穏な人生を送らせてあげようという気持ちはないんですかぁ?」

「あら、残念ね。だったらお父様にでも言って、廃太子にしてもらいなさい。ただの子供になったあなたに従う者がどれだけいるのかは知らないけれど。まぁ……もっとも」


 イェドチェリカは言いかけて止めると、クスリと笑って立ち上がった。


「皇后陛下(*アレクサンテリの実母)がそんなこと許さないわね。それこそ玉座にあなたを座らせて、金の鎖で繋いでおしまいになるわ」

「あの人が本気でしそうなことを仰言おっしゃらないでくださいよ」


 アレクサンテリはぶるるると体を震わせて、冷めてしまったローズティーをがぶ飲みした。

 イェドチェリカは澄まし顔で林檎酒を飲み干すと、静かにテーブルにゴブレットを置いて背を向ける。衣擦きぬずれの音をさせて、ゆっくりと扉へ向かっていく姉に、アレクサンテリは言った。


「オヅマでしたっけ? 大公の隠し子は」

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