第三百六十八話 グレヴィリウスの仔鹿

「公女を呼べ」


 ガルデンティアに戻ったランヴァルトは、すぐに従僕に命じた。

 半刻(*約三十分)ほどして、謁見室に姿を現したイェドヴェリシアは、相変わらず地味なドレスに身を包み、つやのない灰色の髪をひっつめている。痩せぎすな体に女性としての魅力は薄く、うつむきがちの顔色も悪かった。杖をついて片足を引きずって歩いてくる姿は、もはや老女だ。

 ランヴァルトは肘掛けに頬杖をつきながら、あきれたように言った。


「貧相だな……相変わらず」

「…………」


 イェドヴェリシアは黙ってうつむくだけだった。

 幼い頃から同じような言葉を言われ続けてきた彼女は、反駁はんばくするすべも気力も持たなかった。痛みも傷も、もはや深い諦念ていねん瘡蓋かさぶたに覆われ、ただ享受するしかない。

 陰鬱な雰囲気を肩に乗せた公女を、ランヴァルトは常々無視していたが、今日に限っては少々からかいたくなった。それは親愛の情からではなく、明確な悪意をもって。

 ランヴァルトは従僕から煙管きせるを受け取ると、一口んでから、白い煙と一緒に吐き出した。


「質素なる神女姫みこひめでも、今のそなたよりは華があるであろうよ。まこと双子の姉妹であっても、こうも違えばどこぞで鼠の子と取り違えたのかと聞かれるであろうな」


 イェドヴェリシアは、杖を持つ手をギュッと握りしめた。カタカタと肩が震えている。スカートをつまむ手も。

 ランヴァルトは意地の悪い微笑を浮かべた。

 この公女が、双子の姉と比べられることに、ひどく敏感であることはわかっている。生まれたときから不自由な足をかかえ、皇宮こうぐうにおいてなき者同然に扱われて、細々ほそぼそと惨めに生きてきたのだ。生まれたときから神女姫みこひめたるべくかしずかれて生きてきた姉を羨望し、嫉妬するのは無理ない話だろう。


「……ご、御用があると、伺い、まして、まかり、越し、ました」


 イェドヴェリシアは顔をうつむけたまま、ぼそぼそと陰気な声で言った。


「先の皇太子主催の園遊会で、アドリアン・グレヴィリウス小公爵に会ったとか?」


 その名を聞いた瞬間、ビクリとイェドヴェリシアは顔を上げた。だがランヴァルトの紫紺の瞳と目が合った途端すぐにうつむく。ランヴァルトはフンと鼻を鳴らし、また一口吸って、ふぅーと長い白煙を吐き出した。


「会ったのか、そうでないのか。どちらなのだ、公女」

「あ、あ……会いました。会いましてございます」

「なにがあった?」

「そ、それは……その、シ、シモン公子の、ひ、非礼を詫びに……」

「シモンのことで、そなたが?」


 怪訝に聞き返すランヴァルトに、イェドヴェリシアはビクビクと返事する。


「あ、あ……あの、その、実は小公爵様とは、昨年、知り合い、まして」

「昨年?」

「は、はい。あ、あの……わたくしが昨年の園遊会で……その、慣れずにおりまして、粗相をしたときに助けていただきました。そ、そのお礼も、十分に言えていなかったので、その……そのことも一緒に……」


 ふぅ、と軽く息をついてから、ランヴァルトは煙管をくわえた。口中で煙を味わいながら、下段で頭を下げる卑屈な公女を見下ろす。片頬が皮肉げに歪んだ。


「昨年の、か。まさかそんな前に、そなたがグレヴィリウスの小公爵と知遇を得ていたとはな。意外なこともあるものよ」


 一方、イェドヴェリシアはいきなりアドリアンの名前を出され、気になってたまらなかった。

 ギリと奥歯を噛みしめると、思い切って尋ねる。


「あ、あ、あの……グレヴィリウス小公爵様のことで……なにか?」


 ランヴァルトは目を細め、めずらしく自分に質問してきた公女をまじまじと見つめた。


「なんだ。小公爵のこととなった途端に、おのが身のことも忘れて、不遜に振る舞うことだな」

「そ、そのようなことは……!」


 イェドヴェリシアは杖を寝かせると、すぐさまその場に膝をついて、許しを乞うた。


「お、お、お許しください。私は、私は……ただ、閣下がどのような意図で、小公爵様のことを仰言おっしゃったのかを、知りたかったのでございます」

「ほぅ。貴様に乃公だいこうが意図を問う資格があるとは……いつからそのように大胆になったのだ、公女」

「…………お許しください。お許しください。お許しください……」


 イェドヴェリシアは床に頭をこすりつけるようにして謝り続ける。

 ランヴァルトはその姿を鬱陶しげに眺めた。最後に一口吸ってから、煙管を従僕に渡すと、立ち上がって短いきざはしをゆっくりと降りた。


「謝っておったわ」


 イェドヴェリシアの前で止まると、吐き捨てるようにつぶやく。

 ハッとイェドヴェリシアは顔を上げた。

 その表情にかすかな喜びが見て取れて、ランヴァルトは一瞬苛立ったが、すぐに消し去った。薄笑いを浮かべて、慰めるかのようにアドリアンの言葉を伝える。


「公女様に失礼なことを申してすまなかった、と。伝えてほしいとな。まこと、質よな。あの小公爵は」


 イェドヴェリシアはランヴァルトの言葉の裏に不穏なものを感じ、ぞわりと身震いした。だが、自分を捕らえるように見つめてくる紫紺の瞳から目を逸らすことができない。

 ランヴァルトはその場にしゃがみ込み、小さな声で尋ねてきた。


「腐っても、そなたも皇家こうけの人間だな。自らにとって利する人間とみれば、知己となって力を得ようと思ったか?」

「そ、そんなことは……ッ」


 イェドヴェリシアが否定しようとすると、スッとランヴァルトの固い手がイェドヴェリシアの口を塞いだ。


「気にすることはない、公女。皇宮においても、ここでも、卑屈に生きるしかないお前だ。そのくせ自尊心だけは、あの神女姫の姉よりも高いときている。まったく不憫で哀れで、醜悪な女よな」

「……うぅ……う」


 イェドヴェリシアはわずかに首を振って、青鈍あおにび色の瞳に涙を潤ませた。ランヴァルトはそんな娘を見て、軽蔑を滲ませながら微笑んだ。


「よい。わかっておる。わかっておるさ、公女。お前の本当の望みがなんであるかは。これでも幼き頃からお前を見てきた養父ちちであるのだからな」


 やさしい言葉と裏腹に、その声は冷たく、口を塞ぐ手の力は増していく。

 イェドヴェリシアの恐怖は増し、同時に得も言えぬ恍惚が胸の奥でざわめいた……。

 ランヴァルトは酷薄たる声音で、イェドヴェリシアを追い詰めてゆく。


「……シモンの無礼の謝罪? 昨年の礼? 違うであろう、公女。お前は選んだのだ。己の不遇を一気に覆せる存在として、あの若く聡明で美しい小公爵を。そうでなくて、どうして気弱で引っ込み思案のお前が、グレヴィリウス小公爵などという眩しき存在に声をかけようか」

「…………」


 イェドヴェリシアの瞳から涙がこぼれた。

 ランヴァルトは自分の手の甲にかかった涙のしずくを無造作に払うと、泣き濡れる娘を静かに抱きしめた。


「泣くな。貴様ごときが泣いても、みすぼらしいだけだ」


 耳元でやさしく囁かれた冷たい言葉に、イェドヴェリシアはヒックと喉を詰まらせた。それでも涙がさめざめとこぼれていく。

 ランヴァルトはまるで赤子をあやすかのように、イェドヴェリシアの背を軽くポンポンと叩きながら言った。


「公女、お前は馬鹿ではないようだな。あの小公爵であれば、くみし易しと思ったのであろう。それは間違っておらぬ。アドリアンはお前のことを、ただの哀れでみじめな女だと思っているだろうよ」


 イェドヴェリシアは必死になって、涙にかすれる声で訴えた。


「わ、私はただ、お礼をしたかっただけ……そのような大それたことは……」

「公女」


 ランヴァルトは低く呼ぶと、イェドヴェリシアの両頬を固い手で包みながら、無表情に見据えた。


「公女……私に建前はいらぬ。お前の本心のみを言え」

「あ……」


 イェドヴェリシアは一瞬、息が止まった。

 間近に迫った男の峻厳な顔を、ただ見つめる。

 紫紺の瞳は猛禽もうきんが餌の鼠を狙うがごとく、一分の隙もない。

 呼吸するのも苦しくなるほどであるのに、イェドヴェリシアはどうあっても目を逸らすことなどできなかった。


 不意に ―― ランヴァルトがニコリと微笑む。その瞬間、イェドヴェリシアの内部に、陶然とした衝撃がはしった。

 ランヴァルトは微笑みを浮かべながら、イェドヴェリシアを捕らえ、容赦なく痴態を暴く。そう。自分自身にさえも嘘をついて塗り固めた『哀れな』『捨てられた皇女』も、この男の前では為す術なく身ぐるみ剥がされるのだ。

 そのことに怯えながらも、イェドヴェリシアの頬は喜悦に歪んでいた。


「その……通り、です」


 イェドヴェリシアは掠れた声で認めた。そっと自らの頬を包む、ランヴァルトの腕を掴む。


「あの方であれば、私を不幸からお救いくださるかと……望みを、託したかった……」


 ランヴァルトはそっとイェドヴェリシアの頬を撫でると、ゆっくりと立ち上がった。

 パチリとイェドヴェリシアの髪留めを取り去る。

 パサついた灰色の髪が、もっさりと動いて垂れ落ちた。

 人前で結い上げた髪を下ろすなど、女にとっては恥でしかない。まして元皇女の身分であれば、到底許されない仕打ちであったが、そんな情けない姿にされても、イェドヴェリシアはぼんやりランヴァルトを見るだけだった。


「もう少し身なりを取り繕うことだな、公女。……これも必要なかろう」


 そう言って、ランヴァルトは髪留めを放り投げ、イェドヴェリシアの横に転がっていた杖を蹴った。


「惨めに見せるには格好の小道具であろうが、卑屈も過ぎれば傲慢に映るぞ」

「は……はい」

「もし、お前があの小公爵の婚約者にでもなれば……」


 ランヴァルトは扉へ向かって歩きながら、楽しげに言った。


「……ここでの暮らしも、少しはお前にとってきものになるであろう。皇宮で『シア?』などと嘲笑されることもなくなる。……大事にせねばな。グレヴィリウスの鹿を」

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