第三百六十七話 最良の友人(3)

 いよいよ帝都を去る二日前のこと。


 アドリアンは今日が最後になると思い、少し早めに『七色蜥蜴とかげの巣』にやって来た。いつも通り二階で本でも読もうかと階段を上ると、珍しくランヴァルトでない人がいた。


「おや、坊ちゃん。こんにちは。熱心だね」


 気軽な様子で挨拶してきたのは、トーマス・ビョルネだった。

 彼とこの茶寮で偶然再会したとき、双方ともにびっくりして大声を上げ、ゾルターンに叱られたのは記憶に新しい。

 元はオリヴェルとオヅマの数学の家庭教師で、ヴァルナルの結婚式のためにアドリアンがレーゲンブルトに訪れたときに紹介された。まさかこの茶寮で出くわすとは思わなかったので驚いたが、ここを訪れるアカデミーの学者は多いので、トーマスがいても不思議ではなかった。なにしろ彼は十歳でアカデミーに入ったばかりではなく、その中枢とも呼ばれる『賢者の塔』所属の研究員でもあるのだから。


 トーマスはここでの決まりに従って、アドリアンの身分について口外することなく、ただ「坊ちゃん」とだけ呼んだ。アドリアンがアカデミーに来年に入学する予定であることを話すと、受験に出てくる問題の傾向などを教えてくれたりして、ランヴァルトの次に、ここでの話し相手になってくれている。


「今日もに会いに?」

「はい。明後日には僕、帝都から領地に戻るので……トーマスさんはまた、調べ物ですか?」

「うん。僕も近々、帝都から出る予定でね。また、久しぶりにレーゲンブルトに行かないといけなくって」

「レーゲンブルトに?」

「うん、そう。黒角馬くろつのうまの原生種の調査。これでもいろいろと忙しくてねー」


 そう言うわりには、トーマスはどこかウキウキした様子だった。


「なんだか嬉しそうですね、トーマスさん」

「えっ? わかる? やっぱり顔に出ちゃってるかなー? いやー。向こうでさー、愛しい彼が待っててねー」

「……愛しい……彼?」


 アドリアンは首をひねった。愛しいとは? 動物か、なにかの比喩だろうか?

 しかしトーマスは既に心ここにあらずといった様子で、鼻歌なんぞを歌いながら本を探している。アドリアンが詳しく意味を尋ねてよいものかどうか迷っていると、ランヴァルトが現れた。


「おや……久しいな。ロビン」


 その名前にトーマスがすぐに反応した。


「嫌だなぁ、先生。僕はトーマスですよ」

「おや、そうだったかな? これは失礼。そのような格好をしているから、てっきり弟のほうかと」

「まさか。あの品行方正な弟が、こんな格好するわけないですよ」


 言いながらトーマスは、ゆったりとした上衣の袖をつまんでヒラヒラさせる。

 学者でありながらも、やや奇抜なところのあるトーマスは、格好も独特であった。西方民族衣装ドリュ=アーズからヒントを得た独特のデザインの服を、自ら型紙をつくって針子に頼んで作ってもらい、それを好んで着ていた。自ら言う通り、品行方正な人間であれば、そんな服を着て街中を歩いたりはしないだろう。

 ランヴァルトはそんなトーマスのくだけた物言いにも、相変わらず鷹揚だった。


「あぁ……そうか。確かにそうだな。トーマス、君のほうだったな。そういう格好をするのは」

「そうです、そうです。弟は今、レーゲンブルトにいますからね」

「レーゲンブルトに?」

「えぇ。オリヴェルっていう……クランツ男爵の息子の専属医師なんです」

「クランツ男爵? それは確か……」


 思い出したランヴァルトがアドリアンをチラと見てくる。アドリアンはニコリと笑って言った。


「はい、そうです。この前、言っていた近侍の弟です。彼も僕の大事な友人の一人です」


 ランヴァルトは「ほぉ」と感心したように頷いた。


「そうか。まさかここでそのような縁が繋がるとは、しきこともあるものよ。で、トーマス。本は見つかったのか?」

「はい。ちょうど見つかりました。すみません、どうしても下の階の本棚になかったもので。お邪魔しました」


 トーマスは数冊の本をかかえて、そそくさと階段を降りていった。


「フ……トーマスも少しは空気を読むようになったようだな。まったくあやつは頭はキレるが、少々軽はずみであるから……なにか困ったことでも言われてないか? アドリアン」

「いえ……特に」


 少々気になる言葉はあったが、それはトーマスの極めて私的なことである気がしたので、アドリアンは特に言わなかった。そもそも興味もない。

 それよりも今日はこの前、途中になっていたランヴァルトの行った攻城戦について、すべて聞かせてもらわねばならない。いつものようにスヴェンの持って来たミルク入り珈琲を飲みながら、アドリアンはランヴァルトの話に聞き入った。



***



 その日もやはり時はあっという間に過ぎた。

 窓からの光がだんだんと薄れてゆき、暗くなっていく様子に、アドリアンは切ないため息をもらした。


「君は……本当に素晴らしいな」


 不意にランヴァルトが言う。アドリアンは一瞬、何を言われたのかわからず、ポカンと目の前の人を見つめた。ランヴァルトはもう一度言った。


「以前にも言ったが……君は強く、やさしい……本当に素晴らしい子だ」

「そんなことは……」


 アドリアンは思わずいつものように否定しかけたが、自分を真っ直ぐ見つめる紫紺の瞳に言葉が止まった。

 ランヴァルトの眼差しは真摯しんしで、そこに虚言はない。それは瞳が訴えてくるものだけではなく、これまでの約一月ひとつきに及ぶ短いながらも濃密な交流を重ねた中で、アドリアンに芽生えたランヴァルトへの強い信頼感が、そう思わせた。


「君は気付いていたか? 私があえてゾルターンやエリュザリオンを、君に会わせたことを」

「え?」


 思いもよらぬ質問に、アドリアンはキョトンとなった。聞き返す暇もなく、ランヴァルトは話を続ける。


「あの者らが社会において……特に貴族社会においては、忌避される存在であることは、君もわかるであろう?」

「……はい」


 ゾルターンは平民で、エリュザはあの個性的すぎる風体も、喋り方も、およそ貴族社会において認められる存在ではなかった。

 あれからランヴァルトが語ってくれたが、やはりエリュザは元貴族で、伯爵家の次男であったが、あの趣味 ―― 見てくれのことだけでなく、男女区別なく服を作るということも含めて、父母兄弟姉妹から非難され、最終的には勘当されてしまったのだという。ただの平民であったとしても、男が女の格好をするなど、馬鹿にされ後ろ指さされるであろうに、まして貴族であれば、社交界から抹消されるに十分な瑕疵かしであった。


「だが、君は彼らに対して嫌悪を見せるどころか、十分すぎるほどに礼節をもって接していた。これは誰もに出来ることではない。レーナにも驚いてはいたが、やさしく見守ってくれた。人であれ、動物であれ、君は偏見を持たない。私のことも……知っておったのであろう?」


 アドリアンの顔がハッと固まる。しまったと思ったが、明敏めいびんなランヴァルトに今更ごまかしようもなかった。そもそも既に見抜かれていたのならば、意味もない。


「……皇宮こうぐうに鼠はつきものであろうからな。君が知っていてもおかしくない。むしろ、知っていながら、君の態度が変わらなかったことが、私には不思議だった」


 ランヴァルトはそう言って、ニコリとアドリアンに微笑みかける。

 アドリアンはっとランヴァルトを見つめてしまった。その笑顔は、どこかで見たことがあるような、妙ななつかしさを含んでいた。深みのある声が胸の奥底にじんわりと沁みて、ゆっくりとアドリアンの心がほどけていく。


「……君のような子はそう居はしない。君は本当に誠実で、強く、やさしい心を持っている。偶然ではあったが、私はこうして君と知己ちきとなれたことを、本当に幸運であったと思っている」

「それは……僕にとってもそうです。閣下と……先生と知り合えたことも、こうして親しくお話ができるような仲になれたことも、とても……本当にとても光栄に思います」

「そうか。ではこれで、我々は友になれたと思ってよいかな?」

「友……?」


 アドリアンはその言葉に固まってしまった。あまりに意外で、あまりに嬉しすぎて。


「嫌か?」


 返事をしないアドリアンを、ランヴァルトは不思議そうに見て、問いかけてくる。アドリアンはあわててブンブンと強く首を振った。


「そんなわけないです! 閣下にそんなことを言ってもらえるなんて思ってなくて……あの、すごく、とても、本当に、嬉しいです!」

「そうか。では、これからも長くつき合っていこう」


 ランヴァルトはにこやかに言って、手を差し出してくる。

 アドリアンはすぐさま握手し、胸がいっぱいになった。

 今日、別れて領地に帰れば、あるいはランヴァルトとの縁も終わってしまうかもしれないと、少し心配だったのだが、それも杞憂きゆうとなった。


 だんだんと日が暮れて宵を迎える前に、エーリクが呼びに来た。アドリアンはランヴァルトと一緒に階段を降りながら、ずっと気にかかっていたことを一つ、切り出した。


「あの……イェドヴェリシア公女様に、すまなかったとお伝えください」

「……イェドヴェリシア?」


 ランヴァルトはその名前を聞き返してから、怪訝けげんな様子で尋ねた。


「公女に会ったのか?」

「はい。この前の皇太子殿下主催の新年の園遊会で」

「あの者が何かしたか?」

「いえ、違うんです。むしろ僕が悪かったんです。あの日はいろいろあって……。公女様がせっかく気遣ってくださったのに、僕が冷たいことを言ってしまって……きっとご気分を害されたと思います」

「何を言ったのかは知らぬが……まぁ、君がそうも気にするのであれば、公女に伝えておこう」


 ランヴァルトはニコリと笑って請け負ってから、不意に笑みを消し、固い声で言った。


「アドリアン。君は後悔してはならぬ」

「……え?」

「君は以前、言ったな。近侍に冷たく当たって、後悔していると。だが、君が後悔する必要はないし、してはならぬのだ」


 ランヴァルトの断固とした言葉に、アドリアンは自然と姿勢を正す。


「君も私も……我々のような地位にある者は、後悔することは許されぬ。我らのする決断は、数多あまたの民の命数めいすうを握るもの。後悔して簡単にあがなえるものではないゆえ、どのような選択をしても後悔してはならぬのだ」


 毅然と、ランヴァルトは言った。そこには大公として、帝都の守りのかなめとしての重責を担う者の矜持きょうじがあった。

 それまでアドリアンは漠然と、将来自分が負うべき責務の重さを感じて途方に暮れることがあったが、ランヴァルトに見透かされたかのように感じた。


「……はい。肝に銘じます」


 アドリアンは頷き、もう一度差し出された手を握った。

 手の豆が何度も潰れたであろう固く、強く、大きな手だった。


「……お元気でいてください。必ず、お手紙を書きます」

「あぁ、待っている」


 そう言うランヴァルトの顔には再び温かな笑みが浮かんでいた。紫紺の瞳は、穏やかで優しい。

 アドリアンは心の中で誓った。

 ランヴァルトの『友』として、じることのない人間になろうと。

 この人にとって、自分は最良の友人であろうと。

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