第三百六十六話 最良の友人(2)

「レーナ。……勝手に来たのか?」


 ずるずると絨毯の上を這ってくる白い蛇に、ランヴァルトが困ったように言いながら、だらりと肘掛けの向こうに腕を下ろす。勝手知ったるように、白蛇はランヴァルトの腕を這い上ると、首の後ろから肩のあたりで止まり、耳下から真っ黒な瞳でアドリアンを見ていた。


 アドリアンは呆気にとられて、声も出なかった。激しくまたたきして、何度も目の前の光景を確認する。

 ランヴァルトは慣れた様子で、その白い蛇の頭を軽く撫でてから、アドリアンに笑いかけた。


「すまぬな。いつも屋敷に置いていくのだが、今日は気がついたら、服に紛れこんでいてな。下でゾルターンに預けたのだが、抜け出してきたようだ」

「あ……いえ」


 アドリアンは驚いてはいたものの、蛇を愛しげに撫でるランヴァルトの姿を見ると、フッと心が和んだ。


「先生にとてもなついていますね。噛んだりしないのですか?」

「噛まれていたら、今ここで君と話をしていることもなかろうよ。こやつの持つ毒はなかなかに強力らしいからな」

「毒蛇なのですか?」

「あぁ、一応な。だから迂闊うかつに手は出さぬがよかろう。私には慣れてはいるが、こやつが他人になつくことは滅多とない」

「そうなんですね……」


 アドリアンは言われた通り、手を出すことは控えたものの、興味深くその蛇を見遣みやった。

 窓からの光に反射して、つややかな黒い瞳が虹色に煌めく。


「君は……嫌悪せぬのだな」

「え?」

「多くはこやつを見た途端に腰を抜かすか、耳が潰れるような悲鳴を上げるか……卒倒した者もいたな」

「それは、仕方ないかもしれません。まして毒蛇であるのならば、普通は驚かれるのでは?」


 いや、実際にはアドリアンも驚いていた。ただ、驚き方が見た目にわかりやすく派手ではないだけで。このときばかりは、幼い頃からの厳しい修養 ―― みだりに人前で動揺を見せてはならないという教えが役に立ったようだ。

 ランヴァルトはチロチロと割れた舌を出す蛇を、愛しげに見つめながら言った。


「フ……では君もわずかな例外というわけだ」

「僕のほかにも、例外の方はいらっしゃるのですか?」

「そうだな。男はそういう者も少なくない。だが、誰も触れることはできぬ。私以外でこやつに触ることができたのは、一人だけだ」

「……?」

「あぁ。もはやおらぬ。前に話したであろう? 君が今飲んでいる、その珈琲にミルクを入れることを考えた娘だ」


 その答えに、アドリアンはまた驚いた。思わず聞き返す。


「娘? 女の子が蛇を?」

「あぁ。元々はその娘が、こやつを助けたのだ。うまく脱皮できずにおってな……一晩、ぬるま湯につけて、面倒をみておった。それでなつかれたようだ。レーナという名も、その娘がつけたのだ。蛇を操るなど不吉だと申す者もいたが……あれは一種の能力ともいえような。生き物の声なき声を聞くような……そんな不思議なところがあった」


 話しながら、ランヴァルトの声が徐々に暗く沈む。

 いつもであれば、アドリアンはそれ以上訊くことは控えただろう。だが、さっきのランヴァルトの言葉が思い出された。


  ―――― 誰かに胸の内を知ってもらうことが、慰めとなる……


 それはランヴァルト自身もそうなのではないのか……?

 アドリアンは思いきって尋ねてみた。


「あの……その女の子は……もしかして、亡くなられたのですか?」


 ランヴァルトはしばし蛇の喉元を撫でていたが、フッと笑みを浮かべるとゆっくりと首を振った。


「ある日……急に姿を消した。それこそ君ではないが、私もその娘に非情なことを言ったのだ。そればかりが理由ではないが……。いずれにしろ情けないことだな。もういなくなって、十年以上が過ぎるというのに、いまだ……忘れ得ぬ……」


 寂しげに目を伏せるランヴァルトに、アドリアンは励ますように言った。


「じゃあ、もしかしたら生きているのかも……しれない、ですよね?」


 少しでも希望を持ってもらいたかったのだが、ランヴァルトは自嘲気味なため息をもらして、ソファに背をもたせかけた。


「生きて……か。あのような状況で生きて、幸せであってくれるのかどうか……。むしろ、死んで苦難から逃れていてくれた方が、まだしも私の気持ちも穏やかでいられるというものだ」

「あ……」


 アドリアンは自分の短絡的な考えをじた。ランヴァルトがそんなに大事に思っている娘であったのならば、この十年近くの間、何もしなかったはずがない。きっと手を尽くして探しても見つからなかったからこそ、そんな諦観ていかんを抱くようになったのだろう。

 言葉を詰まらせたアドリアンに、ランヴァルトは微笑んだ。


「君が気にすることではない。私を慰めようとしてくれたのであろう? その心だけで十分だ」


 アドリアンは自分の未熟さがうらめしかった。自分は所詮は子供で、ランヴァルトのように経験に根ざした助言や励ましなどできるはずもない。

 今のアドリアンにできることは、この話題から離れ、ランヴァルトの気を紛らせるために、ほかの話をすることくらいだった。

 この茶寮で新たに出会った人のことや、最近読んだ本のこと、来年に控えたアカデミーの入学試験の勉強法について訊いたりして、またあっという間に時間は過ぎた。


 その後も何度か、アドリアンは茶寮『七色蜥蜴とかげの巣』を訪れ、ランヴァルトと交流を持った。会うほどに親密さは増してゆき、そのうちに茶寮以外でも、ランヴァルトの案内で、主に庶民らが集う居酒屋に連れて行ってもらうこともあった。そこではランヴァルトはアドリアンを息子だと偽って、隣の酔客相手に自慢し、アドリアンは恥ずかしさと嬉しさで顔を真っ赤にしていた。


 このアドリアンの頻繁な外出については、普段から無口なエーリクと、サビエルの機転によって徹底的に公爵邸内の人々 ―― 特にルーカスや家令のルンビック子爵には伏せられた。

 折しも彼らのほうでは、いよいよ間近に迫った帝都出立の準備のほかに、にわかに亡くなった公爵の元第二夫人とその娘の生活費横領に関する捕り物に忙しく、公爵邸内においては穏健に暮らしているアドリアンを気にしている余裕もなかった。


 マティアスやテリィも当初は怪訝けげんな顔をしていたが、皇太子殿下に特別に招かれているのだと嘘をついた。皇宮においては検閲けんえつが厳しく、従者なども変更すると、入念な身体検査が行われる。その煩雑はんざつさをなくすために、度々行くようなときは、同じ従者を連れて行くことが多かった。

 真面目なマティアスを騙すのは心苦しかったが、大公殿下に会っていると知れば、公爵家の体面を重んじる彼のことだ。早々にルンビックに報告するのは間違いない。それだけは避けたかった。

 


 そうこうするうちに帝都の秋も深まり、いよいよ領地に帰参する貴族も増え、アドリアンがアールリンデンに戻る日も近付いてきた。……

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