第三百六十二話 エリュザのブティック(1)

「おや、またお出かけですか?」


 背後から呼びかけられて、その聞き慣れた声にアドリアンは一瞬、ギクリと顔を強張らせた。だがすぐに笑って振り返り、なんでもないように返事する。


「あぁ、ベントソン卿。そう……今日こそはオヅマの服を買おうと思ってね」

「おや? 以前に買いに行かれたのでは?」

「あのときは、あまりいいのがなくて」

「迷われておられるようですな。私がご同行致しましょうか?」

「いや、いい!」


 思わず強く言ってから、アドリアンはあわてて取り繕った。


「いや……あの、卿がいたら任せてしまいそうだから。オヅマの服は、僕がちゃんと選びたいんだ……」

「ふむ……」


 ルーカスはジロリとアドリアンを見てから、クスリと笑った。


「ま、よろしいでしょう。お気を付けて」  


 ヒラヒラと手を振ってルーカスが去って行くと、控えていたサビエルが進み出た。


「すみません。以前に小公爵様がズァーデンに行っているオヅマに腹を立てて、ちょっとした嫌がらせをくわだてている話を父にしてしまいまして……」

「あぁ、そのことなら別にいいんだ。でものことは、黙っていてね」

「もちろんでございます」

「エーリクもね」


 頭を下げるサビエルの隣にいるエーリクにも念押しすると、すぐに「御意」と返ってくる。

 頷いてから、アドリアンは玄関に待たせてある馬車に乗り込んだ。


 大公に会ったことは、あの日一緒にいた三人だけの秘密になっていた。それはランヴァルトからの頼みでもあり、アドリアンが望んだことでもあった。



***



 街での思わぬ邂逅かいこうから、次に会う約束をして別れるとき、ランヴァルトは少し思案したあとに尋ねてきた。


「君はまだ聞いておらぬか? 亡くなった我が妻が、君の伯母であるということを」

「えっ?」


 驚くアドリアンに、ランヴァルトは苦い笑みを浮かべた。


「やはり……教えておらぬか。まぁ、双方ともにあまり楽しい話でもない故、仕方ない。大公妃はすでに亡く、もはや昔のこと。私はそう気にしておらぬが、公爵家においてはいまだに思うところもあるのだろう。いずれ仔細しさいについては、君が公爵位を相続する折にでも聞くであろうが……今は、私と会うことについて、あまり君の家の人間には知られぬようにしたほうがよい」


 アドリアンはすぐに返事できなかった。

 今の今まで、伯母という人がいることすら知らなかったのだ。家系図にも載っていなかった。ましてランヴァルトと自分が親戚関係であったことなど、だれからも聞いたことがない。あるいはこうして会うことも、本当ははばかられることであったのだろうか……?

 困惑して黙りこむアドリアンの肩に、ランヴァルトは静かに手を置いた。


「アドリアン。今日、私達は不思議な縁を持った。私は忍びで街を歩くときは、身分を持たぬ。ゆえに街中まちなかで貴族の知り合いを見つけても、滅多と声をかけることはせぬ」

「え? じゃあ……やはりご迷惑だったのでは」


 アドリアンは謝りかけたが、ランヴァルトは紫紺の目を細めて、ゆるゆると首を振った。鷹揚おうような微笑が、戸惑うアドリアンをやさしく包み込む。


「奇妙に思うだろうが、私は君とは虚心きょしん坦懐たんかいにつき合いたいのだ。君にはその器量が十分にあると思っている」

「あ……」


 アドリアンは不意に胸が熱くなり、感謝の言葉が喉に詰まった。

 グレヴィリウス家の小公爵という身分であれば、皇宮こうぐうにおいても、他の貴族に比べて特別視されるのは珍しいことではない。だがランヴァルトのそれは、小公爵である自分に対してではなく、アドリアン個人への尊重であった。

 ランヴァルトは静かに続けた。


「大公と小公爵の間柄では、否が応でも家同士のつき合いとならざるを得ない。間を介する人間も増えて、こうして会うこともままならなくなるだろう」

「それは……僕も望みません」


 アドリアンはきっぱりと言って、意を決した。


「ご安心ください。元々、誰に言うつもりもありませんでした。お忍びでいらっしゃった方のことを、吹聴して回るような無作法は致しませんから」


 高貴な身の上の人がお忍びで都の街を歩くことはまれにあったが、そうしたことを触れ回ることは行儀が悪いとされる。ゆえに基本的には知らぬフリをするのが礼儀であった。(もっとも、大公を目の前にして、素知らぬフリができる人間などそうはいないが。)

 ランヴァルトはニコリと笑って、軽くアドリアンの肩を叩いた。


「やはり君は聡明だな、アドリアン」



***



 それから数日経った落穂おちほの月五日が、再びランヴァルトと約束した日だった。

 一度、例の茶寮ラデュ=シィーク『七色蜥蜴トカゲの巣』で落ち合ってから、ランヴァルトの案内で向かった先は、殺風景な倉庫が建ち並ぶ裏通りの人気ひとけない道だった。


「ここ……ですか?」


 思わずアドリアンが尋ねたのも無理はなかった。おそらく普通に歩いていたら、確実に通り過ぎたろう。表の高級店の倉庫が建ち並ぶその裏通りの店には看板すらなく、外観においても、周囲と同じような白の漆喰で塗り固められた倉庫の一つにしか見えなかった。


「まぁ、入ればわかるであろう」


 ランヴァルトは意味深に笑って、黒い扉を開く。

 入ってみると、外観の印象とは違い、中は広々としていた。

 くすんだ薔薇色の下地に、縞模様に小花を散らしたの壁紙と、年代物のマホガニーの調度品で統一された空間は、今風な感覚と古風なものとの取り合わせが妙にしっくりと似合って、瀟洒しょうしゃな印象だった。高い吹き抜けの窓から射す光が、明るく店内を照らしている。正直、テリィに連れて行ってもらった高級店に比べると、高価そうなシャンデリアやら、某有名画家の絵画などはなかったが、よっぽど落ち着ける雰囲気だった。

 だがそんな店の内装よりも、驚くべきことが待っていた。


「あーらー! もういらっしゃってたのね」


 ハスキーな声が響いて、カツンカツンと階段を誰かが降りてくる。

 アドリアンは聞こえてきた声と、現れた人がすぐに結びつかず、一気に混乱した。そこにいるのはどう見ても女性の格好をした『男』だったからだ。


 くすんだ金縁の丸眼鏡。後ろで引っ詰めて丸めた柑子こうじ色の髪。うっすらと白粉おしろいいた顔、唇には紅。体型にピタリと合わせた上着の色は店の内装と同じ、くすんだ淡い薔薇色で、下半身には薄青色のスカートがひらりと揺れる。

 それらを着ているのが華奢な男であれば、あるいは騙されたかもしれないが、どう考えても男にしかみえない厚い胸板といい、がっしりと頼りがいのありそうな腕といい、そのまま甲冑をまとえば騎士でも通用しそうだ……。


 困惑するアドリアンをよそに、ランヴァルトはその人物と気安げに話し始める。


「内装が少し変わったな。だが、相変わらず良い趣味だ」

「あーりがとうございます。職人に伝えておきますわ。これのために不眠不休で働いて……なーんてことはさておいて。今日はまた、ずーいぶんと可愛いお連れ様といらっしゃったこと。まさか、最近になってご子息が増えましたの?」

「そうであってくれれば嬉しいが、残念ながら違ってな。さて、アドリアン。紹介しよう。はエリュザリオン・カテル。このブティックのあるじだ」

「ま! やだわー、閣下。そんないかめしい名前で呼ぶものではございませんことよ。エリューとでも、エリュザとでも、お呼びくださいましな。小さなかわいーいお坊ちゃま」


 ウインクしながら親しげに呼びかけてくるエリュザに、アドリアンはどう返事すればいいのかわからなかった。

 言葉遣いは女性のそれに近く、だが見た目といい、その声といい、どこからどう見ても男なのだ。

 これまでアドリアンはこんな人間に会ったことがなかった。ただただ呆然としていると、エリュザが肩をすくめる。


「ま! 閣下。ワタクシのことを、事前にお話しされておりませんの? すーっかり驚いておいでのようですわよ」

「もちろん話していない」


 ランヴァルトはしれっと言ってから、アドリアンの肩を叩いた。


「さ、アドリアン。そろそろ挨拶をしようか」

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