第三百四十一話 ペトラの死

 相変わらず門は傾いて、ひび割れた外壁にはつたが絡まり、庭は荒れ放題。ちょっとした幽霊屋敷の様相すらある。

 オヅマは扉の横にある、一度も磨いたことのなさそうな真鍮しんちゅうのノッカーを叩いた。二度叩き、しばらく待っても現れる人はいない。もう一度、今度は三回叩いてみたが、館はシンと静まりかえっていた。


「……いないのか?」


 オヅマはつぶやいて、そういえば……と考える。

 ティアは普段から針子はりこのエッダの家に出入りしては、何かと仕事をもらっていた。この時間ならば、エッダのところに行っているのかもしれない。


 最初はティアが幼いながら働いていることも、市井しせいに住む子供であれば普通にあることだからと気にもしていなかったが、公爵の娘であるという事実を知ると、その状況に疑問が出てくる。

 いくら公爵邸から追い出されたとはいえ、こうして家を用意され、監視されているならば、わずかであっても公爵家からの援助はあるはずだ。母親はどうあれ、ティアは公爵の娘なのだから、公爵家の体面を考えて、最低限の養育費などは渡されているだろう。公爵本人はともかく、家令のルンビックがそうした配慮をしないはずがない。にもかかわらず、ティアが働きにでなければならないほどに、生活が逼迫ひっぱくしている……?

 矛盾の理由を考えて、オヅマは眉を寄せると、扉向こうにいるはずのペトラの姿を思い浮かべて睨みつけた。

 もう一度、確認のためにノッカーを叩こうと手を伸ばす。その時、目の前の扉がギィィと開いた。暗がりにぼうっと、まるで幽霊のようにティアが立っている。


「ティア?」


 オヅマは思わず問いかけた。「おい、大丈夫か?」


 ティアはまるで魂が抜けたようだった。オヅマが肩を掴むと、ビクリと震えて顔を上げる。その顔は真っ青で、今にも倒れそうだ。


「オヅマ……さん……?」


 不思議そうにオヅマの名を呼びかけてくる。オヅマは「あぁ」と返事してから、軽くティアの肩を叩いた。


「おい。大丈夫か? なんかあの母親にされたのか?」


 ティアはオヅマの言葉を聞いて、しばらくボケッと見つめ返してから、いきなりブルブルと震え始めた。


「ティア?」

「……お、お、お母様が……」

「なにかされたのか!?」


 オヅマが強い口調で問い返すと、ティアはふるふると首を振った。赤みがかった茶色の瞳(今にして思えば、その瞳の色もアドリアンや公爵に通じるものだ)から、涙がポロポロとこぼれ落ちる。


「お、お母様が……目を覚まさないんです。体が……冷たくて」

「…………」


 オヅマはすぐに事態をのみこんだ。ティアの手を掴むと、中に入っていく。暗い廊下を歩きながら、静かに問うた。


「どこだ?」


 ティアは無言でオヅマの前へと歩を進めると、廊下を曲がり階段を上っていく。動揺を見せまいと胸を押さえていたが、もう片方の手はオヅマの手をしっかりと掴んでいた。

 二階には三つの扉が並んでおり、一番奥の唯一白く優美な彫刻が施された扉の前で、ティアは止まった。


「ここか?」


 オヅマが尋ねると、ティアは頷いた。涙を必死に止めようと、きつく唇を引き結んでいる。

 オヅマが扉の把手とってに手をかけて開くとき、ティアはまたギュッとオヅマの手を強く握りしめた。


 キィィと、また扉が耳障りな音をたてて開いた。どうもこの家の扉はすべて、この数年近くいっさい油がさされていないらしい。

 部屋の中は、窓から燦々と太陽の光が射していたが、どこかどんよりと濁った空気だった。酒の匂いが充満していたからかもしれない。

 奥に置かれたベッドの上に、昨日会ったばかりの女 ―― ペトラが仰向けに寝ていた。


 オヅマはそろそろと近づき、ようやくベッドの近くまで来て、眠っているペトラの顔を覗き込んだ。

 瞼は閉じられ、軽く開いた口からよだれが垂れている。

 その姿は飲んだくれて、そのまま眠ってしまったようにしか見えない。

 だが、白くなった顔色と固まった四肢は、それまでにオヅマが見てきた死人を彷彿ほうふつとさせた。

 ラディケ村にいた頃、それこそこうした死人をとむらうときに、子供が死体を清拭せいしきするという風習があって、小遣い欲しさにオヅマは何度も死人と接したことがあったのだ。

 それでも一応、オヅマは寝ている女の口元に手をやり、手首の脈を確かめた。そっと手を下ろすと、軽く息をついて言った。


「死んでる……な」


 ティアは「う……」とうめくような声を発すると、ぺたんとその場に座り込んだ。

 とうとう耐えることができなくなって、涙があふれてくる。


 オヅマは何も言えず、再びベッドの上に横たわるペトラを見つめた。

 まさか昨日の今日で亡くなるなんて思わない。

 だが初対面の印象においても、ペトラの顔色は悪かった。ただでさえ身体が不調であったのに、昨夜はまた、しこたま飲んだのだろう。

 追放処分を解除されると勘違いして祝杯でもあげたか、あるいは自らの境遇を一層恨んでか……。いつもより酒量も多くなって、とうとう体が耐えきれなくなってしまったのかもしれない。


 だが、もはやペトラの死について考えている場合ではなかった。

 考えるべきは、ティアのことだ。

 監視しているのならば、本来、すぐにでもこのことは報告されるはずだが、オヅマの見るところ、この家内にいるのはティアとペトラだけで、使用人の姿はなかった。監視といっても、実際にはこの二人は放置されていたようだ。とはいえ、公爵邸となんら接点がないわけでもないだろう。


「ティア……お前の母さんが死んだことを伝えなきゃいけない人とか、いるか?」


 オヅマが尋ねると、ティアは目に涙を溜めたまま、しゃくり上げそうになるのを必死にこらえながら言った。


「サル…さんに……」

「サルさん?」

「サル…シムさんっていう人が、いつもお金を持ってきてくれていたんです。お役人さんだって聞いてます」

「役人か……」


 目立たぬように公爵家からの追放者を監視するには、格好の人選だ。

 公爵家にとって、ペトラの存在は『恥』だから、関係性を大っぴらにすることなく、管理下に置いておきたかったのだろう。


「じゃあ、そいつを呼んできたらいいんだな」


 オヅマが言うと、ティアはおびえた顔になる。


「で、でも、勝手に来るなって…怒られるから……来るまで待ってないと……」

「来るまで…って、今日来るのか?」


 ティアは首をぷるぷる振ると、小さくつぶやいた。「いつも十五日頃に……」


「そんなに待ってたら……」


 死体が腐っちまう、と言いかけてオヅマは止めた。

 いくら虐待されていたとはいえ、ティアは母親に対してオヅマがコスタスに抱いていたような憎悪は持っていない。むしろ、その死に衝撃を受け、悲しんでいる。酒に溺れて娘を虐待するような母親であっても、愛情はあったのだろう。

 オヅマはティアの小さな両肩に手を置くと、少しだけ身を屈めて安心させるように笑った。


「ティア、今回は緊急事態だ。わかるだろ? 心配すんな、俺が行ってくるから。お前が怒られるようなことはさせない」


 ティアはしゃっくりを呑み込み、じっとオヅマを見上げる。

 アドリアンを彷彿とさせる鳶色とびいろの瞳が潤み始めると、またぶわっと涙があふれた。


「…ごめんなさい……」


 かすれた声が、必要もなく詫びる。

 オヅマはギリッと奥歯を噛みしめた。

 目の前のティアの表情は、出会ったばかりのアドリアンと同じだった。自分が悪いのだと卑下して、抗うことを諦めてしまった寂しい顔。

 どうしてこの兄妹は、会ったこともないはずなのに、こうも似ているのか。

 その理由に思い至ったとき、オヅマは心底から公爵に腹が立った。

 そもそも公爵が、自分の子供に対して少しでも気にかけてくれていれば、二人がこんな情けない顔をすることはないはずなのだ。


「ティア」


 オヅマは少しだけティアの肩を強く掴んだ。


「いいか? 俺は迷惑とか思ってない。助けたいと思ってるだけだ。だから謝るな」


 ティアはまたまじまじとオヅマを見つめてから、コクリと頷いた。蒼ざめていた顔に、少しだけ赤みが戻った。

 オヅマはペトラの遺体にシーツを被せると、気の抜けたようになっているティアを、とりあえずソファに座らせた。


「待ってろ。すぐに連れてくるから」


 ニコリと笑って言うと、不安そうに見上げてくるティアの頭をヨシヨシと撫でてやった。年齢もそう変わらないせいか、どうにもマリーと同じように扱ってしまう。

 ティアがはにかみつつも、少しだけ嬉しそうに笑うのを見てから、オヅマは足早に館を出て行った。

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