第三百四十二話 サルシム行政官

 クリマコルス・サルシムはアールリンデンの行政文官であり、アベニウス母娘おやこの保護監視員であった。彼は公爵家に対して、母娘の現状を知らせる役割を持っていたが、この数年、その報告書はいくつかの文字を書き換えただけで、内容はおおむね同じだった。

 基本的には公爵の元第二夫人・ペトラの不行状を書き連ねたあとに、その娘であるティアに関しては「特に問題なく暮らしている模様」とだけ書き記して終わり。


 ただこの数年間は、ペトラ・アベニウスが不摂生による身体の不調を申し出てきていること、そのせいで医者や薬などの出費が増えたこと等々を記して、、さほど、あくまでもの生活費の増額などを要求した。

 ペトラは医者にかかったこともなく、薬を処方されたこともないのに。

 そうして母娘おやこが知ることなく、加算された医療費の分も、彼のふところを潤した。そうやって彼は、母娘に充てられた公爵家からの生計費を着服ちゃくふくしていたのだ。


 だから今、ペトラの死を伝えられたときにサルシム行政官が抱いた最初の感想は、


『ゲッ! あの女、死にやがったのか。どうすんだよ。このまま報告したら来月分の給付がなくなっちまう。どうすんだ……ツケの支払いが……』


 という、あくまでも自分の取り分が減ることへの心配だった。

 しかし、そんな本音を顔に出すわけにはいかない。あくまでも最初の『ゲッ!』で表情を止めて、サルシム行政官は目の前にいる少年をジロリと見た。


「で……お前は、なんだ? あの娘の友達か何かか?」

「友達? まぁ、そうだな。ティアは友達だ」

「フン! 母親に似て、あの年から男を手玉にとるのが得意なようだな」


 サルシムは小さくつぶやいたつもりであったが、その悪意に満ちた誹謗をオヅマは聞き逃さなかった。眉をひそめると、じっとサルシムを見つめる。


「なんだ?」


 横柄にサルシムが尋ねてくると、オヅマは低く言った。


「あんた……公爵家からティアたちを見ておくように言われたんだよな?」

「なんだ、貴様。礼儀知らずな……まぁ、お前のような者に礼儀を求めるだけ無駄だろうが」


 サルシムが半ば苛立たしげに、半ば侮蔑もあらわに言う。

 オヅマは白けた顔で問いかけた。


「監視役とはいえ、ティアは公爵閣下の娘だろう? 人に礼儀云々うんぬん言う前に、あんたこそ礼儀をわきまえたほうがいいんじゃないのか?」

「なんだと、貴様ッ! 子供だからと大目に見てやっていたら、いい気になりおって……生意気を言うな!!」


 サルシムが手を振り上げると、オヅマはそのまま殴られてやった。ベシリと頬を打つ音は、うまく当たらなかったのか鈍く、大して響かない。オヅマは軽く舌打ちすると、大袈裟によろめいて尻もちをついた。コケるときに、わざと手で近くに置いてあった水差しをひっかける。ガシャン! と水差しの割れる音がして、周囲の視線が一気に集中した。

 サルシムがフンと満足げに鼻を鳴らす。

 オヅマは内心ほくそ笑んでいたが、殴られた頬をさすりながら立ち上がると、ギロリとサルシムを睨みつけた。


「な……なんだ?」


 自分の鉄拳制裁にまったく臆することのないオヅマを、サルシムは気味悪げに見つめる。

 オヅマはサルシムを睨み据えたまま、冷然と言った。


「俺の礼儀作法について文句があるなら、ルンビックの爺様にでも言えよ」


 切り出したその名前は、効果てきめんだった。サルシムの表情が一変する。周囲の役人たちもザワリとうろたえた。


「ルンビック様の知り合いか?」

「あの態度……そこらのガキではないぞ」

「もしかして……」


 コソコソと周囲が囁き合う中、サルシムは助けを求めて目線を泳がせたが、誰も目を合わせようとはしなかった。


「な…! 貴様……いや、お前……いや、き、君は……」


 途端に呼び方を変えるサルシムに、オヅマは呆れかえった。だが、今のこの状況における自分の立場については、よくわかっているようだ。

 オヅマは襟先をピンと弾いてみせた。サルシムはそこに刺繍された紋章に気付き、まじまじと確認してから、かすれた声で確認してきた。


「レーゲンブルト騎士団……? まさか、貴様……いや君は、クランツ男爵の……」

「さすがに行政官がこの紋章を知らないわけがないな。俺の名前を言ったほうがいいか?」

「お、オヅマ……公子」

「へぇ、知ってるのか。役所に籠もりっきりで、俺のことなんざ知らないと思ってたけど、公爵家からお喋りな雀でもやって来てるのか?」

「しっ……失礼しました!」


 サルシムはあわててその場にひざまずくと、平身低頭して謝った。

 以前はどうあれ、今のオヅマはクランツ男爵のれっきとした息子だ。いかにサルシムが行政官であったとしても、貴族の若君に対して文句を言うなど許されない。それどころか手を上げたなどと知られた日には ――― !

 サルシムは一気に蒼ざめ、汗が噴き出した。

 オヅマはそんなサルシムを見て、無表情に問いかける。


「何のことに謝ってるんだ?」

「……申し訳ございません!」


 ひたすら平謝りしてくるサルシムの後頭部を見下ろしながら、オヅマは軽くため息をついた。


「俺は礼儀を尽くす相手を選ぶ主義でね。相手の身分次第で、コロコロ態度を変える人間に対しての礼儀は、生憎あいにく、持ち合わせてないんだよな」

「は、あ…ハイ。それはもう、確かにそう……左様にございます」


 てのひら返しとはよく言ったものだが、サルシムの変わり身の早さに、オヅマはあきれると同時に腹が立った。こういう手合いとは、まともに話すのも惜しい。


「それで? ティアの母親が亡くなったんだけど? まさか放っておくつもりじゃないよな?」

「ハイ! ハイ! それはもう、すぐにでも手配致します」

「手配も必要だけど、ともかくアンタが確認しないといけないだろ? 早く来てくれよ。ティアはもう一人なんだ。これからのことだって不安がってる。あんな小さい娘を一人で、あんなボロい館に放ったらかしにしておく気か?」

「も、もちろんにございます! わざわざ、気にかけていただくとは、誠にオヅマ公子はおやさしい……」

「おべんちゃらはいい。早く来い」


 オヅマはサルシムの挽回につき合ってやる気はなかった。さっき殴られてやったのは、これ以上、四の五の文句を言わさないためだ。

 オヅマは役人達の好奇の視線を無視して、足早に役所の通路を抜けていった。

 ヒソヒソと囁く役人らに紛れて、蒼氷色フロスティブルーの瞳が興味深げにオヅマを観察していた。

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