第三百三十九話 ティアと母親(3)

「ティア、大丈夫か?」


 オヅマが問いかけると、ティアは振り返るなり、すぐに頭を下げた。


「すみません……ご迷惑をかけました」


 丁寧だが、その声音はどこか空虚に聞こえた。ゆっくりと上げた顔は、ぼんやりとしていて、諦めが濃い。


「ティア……?」


 オヅマはもう一度、呼びかけた。

 ティアはハッと我に返って、また頭を下げて謝ってくる。


「すみません。いきなり、お母様がおかしなことを言って……」

「謝らなくていい。お前が悪いんじゃないだろ。それよりあのおば……お前のお母さんに、ちゃんと話したほうがいいだろ? なんか勘違いしてるみたいだ」


 ティアは首をプルプルと振ると、いなくなった母親の影に怯えるかのように、小さな声で言った。


「ともかく今日は帰ってください。お母様にはあとで、私からちゃんと話しておきますから」

「そんなことしたら、お前また……」


 オヅマはすぐに想像できた。妙な勘違いをしている母親に、ティアが真実を告げれば、今よりも一層機嫌が悪くなるだろう。そうなれば、絶対またティアに暴力を振るうに違いない。

 だがティアはオヅマにそれ以上は言わせなかった。赤く腫れた頬もそのままに、オヅマを真っ直ぐ見上げる瞳は、強固にオヅマからの干渉を拒否していた。


「大丈夫です」


 かたくななティアに、オヅマは何と言えばいいのかわからなかった。迷うオヅマの肩をレオシュが軽く叩く。


「今日のところは帰ろうぜ。あ、お代はいつも通りに頼みますよ」


 レオシュが酒屋の配達員らしく、極めて淡々として言うと、ティアは小さく頷いた。

 オヅマはまだティアに聞きたいことはあったものの、レオシュに突つかれて仕方なく歩き出す。門を出る前に振り返った。


「ティア。なんかあったら、ホボポ雑貨店のラオって親爺のところに行け。ジェイもいるから」

「…………」


 だがティアは哀しそうに、少し笑っただけで、返事をしなかった。


 オヅマは門を出て、しばらく歩いたところでレオシュから、あの家のこと ―― あの頓狂で横柄極まりない女について聞かされた。


 曰く。

 あの女は昔は公爵邸で暮らしていたのだという。だがある日、いきなり追い出され、さっきの家に移り住むことになったらしい。

 女はこの仕打ちが不服であったのだろう。レオシュが酒屋で配達の仕事を任される頃には、すっかり酒浸りの生活になっていた。


「あの子、ほとんど毎日、八つ当たりされてんだ。さっきみたいに殴られたり、俺が前に見たのは、ずーっとブツブツブツブツ、泣きながら文句言ってるのにつき合わされててさ。あれはあれで、しんどいよ。俺もうんざりした。いい加減にしろって、客じゃなかったら、はっ倒したくなったよ」


 オヅマ自身、酒乱の父親を持っていたので、ティアの状況は容易に想像できた。

 酒に狂った人間は、極めて厄介な化け物だ。酒を飲んでいない状態でも、酔ったようにくだを巻く。


「レオシュ」


 オヅマが呼びかけると、レオシュはすぐに頷いた。


「わかってるって。俺も時々、見に来てたんだ。あの子、我慢強いからさ。ずーっと言われっぱなしの、やられっぱなしだから」


 何を頼まれるのかはわかっていたらしい。オヅマはニッと笑った。


「さすが。ズロッコの悪ガキ共を従わせるだけあるよ、お前」


 この面倒見の良さがあるからこそ、オヅマに負けてもレオシュは悪童達からの尊敬を失わないでいられるのだろう。


「頼むな」


 オヅマは言いながら、ティアとその母親が、一体グレヴィリウスとどういう関係にあるのかが気になった。



 ―――― 迎えに来てくれたのね!?



 その言葉が指し示すように、公爵邸から追い出されたというのは本当なのだろう。しかもオヅマが公爵家に関わりのある騎士だとわかっても、尊大な態度のままであったのだから、公爵家において、相当な身分であったのだと思われる。


 こういうときに話ができそうなルンビックや、ルーカスは遙か帝都で、ここにはいない。前に意味ありげなことを言っていたラオも、今はにわかに人気となったあの布を今度は本格的に仕入れるために、サーサーラーアンに会いに行っていた。エラルドジェイもどうせ飲み屋か女の家にでも行っているのかして不在であったし、エッダに訊くことも考えたが、勝手にティアの身辺を探るようで、なんだか悪いような気もする。

 いっそティアが助けを求めでもしてくれれば……と、オヅマは嘆息した。

 あの家から出たいと言ってくれれば、あのまま母親がわめき立てようと連れ出してやったが、ティアの態度は終始オヅマから母親をかばっているかのようだった。

 だが、そんなティアの気持ちもオヅマには何となくわかった。

 どんなに暴力を振るわれても、それが親であるという一点だけで、子供は必死に親の愛を乞う。

 自分はコスタスにそんな感情を抱かなかったが、もしミーナがあの母親のようであったとしたら、それでもティアのように必死に守ろうとしただろう。母親と自分たちの棲む世界を。


 オヅマは消化不良の気分を抱えて公爵邸に戻ってきたが、都合よくと言うべきか、まるでこの状況を見たかのようなタイミングで、ブラジェナからの手紙が届いていた。


『略儀 オヅマ・クランツへ 言い忘れていたことがあります。』


 あの礼儀作法の権化のようなブラジェナが、時候の挨拶もすっ飛ばして書いてきた内容に、オヅマは最初、ブラジェナがオヅマの近辺に間諜かんちょうでも忍ばしていたのだろうかと思った。それくらいブラジェナは、ちょうどオヅマが知りたいと思っていたことを、書き送ってきてくれたのだ。



『略儀 オヅマ・クランツへ


 大変重要なことで、言い忘れていたことがあります。

 公爵閣下がリーディエ様亡き後に、一時的に第二夫人としていた女性のことです。

 彼女の名前はペトラ・アベニウス。この女には気をつけてください。幼い小公爵様を亡き者にしようとしたのです。……』

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