第三百三十八話 ティアと母親(2)

 オヅマの声を聞いて、ティアは反射的に顔を上げたが、目が合うなり、すぐにうつむいた。


「ティア、大丈夫か?」


 オヅマが声をかけて手を差し伸べても、ティアはギュッと両手を握り合わせて立たなかった。目を合わさないよう顔を伏せたまま、肩を震わせている。


 一方でレオシュに気付いた ―― というよりも、レオシュの持っているワイン瓶に気付いた女は、険しかった表情を一変させて近寄ってきた。


「あらぁ、遅かったじゃないの。あんまり遅いから、娘に買いに行ってもらおうかと思っていたところよ」


 レオシュは顔をしかめながらも、客相手に商品を渡さないわけにもいかない。仕方なさげに持っていたかごを女に差し出した。


「どうも、ご苦労さま」


 酒臭いゲップをしながら、女はニヘラと笑って籠を受け取る。

 その女の手首をオヅマは掴んだ。

 女はギョッとしてオヅマを見てから、そこにいるのが、籠を持ってきた少年と同じ年頃の子供だとわかると、すぐに傲慢な顔つきに戻った。


「な……なにするのよ! 無礼者! 手をお離し!!」

「あんた……ティアの母親か?」


 問うたのは、女が『娘』と言っていたからだ。だが目の前で酒臭い息を吐く女の、落ち窪んで濁った青の瞳にも、乱れた茶色の髪にも、ティアと似たところはあまり窺えなかった。

 おそらく長く飲酒しているせいだろう。くすんだ黄褐色の、病人めいたつやのない肌をしていた。どこか体を悪くしているのかもしれない。


「なにを言って……クリスティア! こいつはお前の知り合いなの?!」


 女はオヅマの質問を無視して、ティアに苛立たしげに問い詰める。


「クリスティア?」


 オヅマが聞き返すと、それまで地面に座り込んでいたティアがいきなり立ち上がった。母親の手首を掴んでいるオヅマの腕にすがりつき、泣きそうな顔で頼み込んでくる。


「お願いです、離してください。お母様は体が弱いんです。そんなに強く掴まれたら、骨が折れてしまうんです。お願いします」


 か細いながらも切実なティアの声に押し切られて、オヅマは掴んでいた手を離した。

 途端に女はひったくるように籠を背後に隠し、ギロリとティアを睨みつけた。


「なんと情けないこと! こんな下賤げせんの者を相手に懇願するなんて。これだからお前は駄目なのよ。下々しもじもの者と交わっている間に、すっかり心までも卑しく育ったものね!」

「そんなこと……失礼です。この人は……下賤の者なんかじゃ」

「お黙り!」


 パシリと乾いた音が響く。女がティアの頬をぶっていた。

 おそらくこうした行為は、頻繁にあるのだろう。それくらい自然に、レオシュもオヅマも止める間もないほど、素早かった。


「おい! やめろ!」


 オヅマは叫んだが、ティアがまた止めるようにオヅマの腕を掴む。ギリッとオヅマが歯噛みすると、隣にいたレオシュが一歩、進み出て女に言った。


「娘さんの言う通りですよ。コイツは俺みたいなのとは違います。れっきとした公爵家の騎士ですから……一応」


 最後に小さく一応、と付け加えたのは、オヅマが見習い騎士であるということを慮ったレオシュなりの良心であったが、女はまったく気にも留めていなかった。


「公爵家ですって?」


 大声で問い返すと、濁った目を大きく見開いて、オヅマへとズイと歩み寄る。


「お前……貴方あなたはグレヴィリウスの騎士なの!?」


 オヅマは返答に窮した。

 オヅマの所属は、正確にはグレヴィリウス公爵家直属の騎士団ではなく、レーゲンブルト騎士団で、しかも見習い騎士という身分だ。だがこの面倒な説明を女がおとなしく聞く様子はない。籠をボトリとその場に落とすと、急にオヅマの両肩を掴んできた。


「迎えに来てくれたのね!? やっと、迎えに来てくれた!」


 女はガサガサの声で叫ぶと、けたたましい笑い声を響かせた。あまりに急変した女の態度に、オヅマは困惑した。


「は? 迎え?」


 問いかけるが、女はもう既にオヅマも眼中にない。虚空を見つめる瞳が爛々らんらんと輝いて、かすかな狂気を帯びた。


「ようやくお許し頂けたのね。待っていたわ。ずっと……待っていたのよ。今日は馬車は来ていないの? あぁ、いきなりなんてことはないわね。ちゃんと戻る準備を整えないといけないもの……ドレスだって、靴だって、もう随分と時代遅れのものばかりで……」


 オヅマは勝手に話を進める女に呆気にとられた。

 ティアがあわてて母親に走り寄り、ドレスのスカートを掴んで、必死に訂正しようとする。


「お母様、違います。この人は……公爵家の人だけど、違うんです」

「うるさいッ!」


 女はスカートにまとわりつくティアを鬱陶しそうに払うと、ぺたりと尻もちをついた自分の娘を冷たく睨みつけた。


「お前なんかがいたら、公爵家に戻れないじゃないの! だいたい、お前が女だから棄てられたのよ! お前が男の子だったら、公爵様は私を選んだわ! そうよ……きっとそうよ!私が悪いんじゃない!! お前が女だとわかっていたら、私だってしなかったのに!!」


 積もり積もった怨念をぶつけるように、女は早口にティアを責め立てる。


「私のせいじゃない! 全部、ぜーんぶ、お前のせいだッ!!」


 まるで獣のように吠えたてて、女がまたティアに掴みかかろうとするのを、オヅマはあわてて止めた。


「やめろ!」


 鋭く言って、ティアを背後に隠す。レオシュは女を羽交い締めにした。

 馬鹿にしていた下町の少年から、思わぬはずかしめを受けたと思ったのか、女は身悶えしながら激昂する。


「お離し! お前ごときが、私に触れていいと思ってるの!?」


 レオシュは女からの蔑みの言葉に、痛痒つうようも感じていなかった。自分は下賤で、女は貴族。女の言う通りだと思っている。

 だが、前々からずっと女に対して不満を持っていたレオシュは、身分の差を承知しながらも、女の言葉に従う気はなかった。

 この場において、レオシュを従わせることができるのはオヅマと……


「お願い。お母様を離して」


 ティアの懇願に、レオシュは顔をしかめる。チラリとオヅマを見て、頷くのを確認すると、そっと女の腕を離した。

 女はレオシュに毒づきながら逃れたものの、元よりおぼつかない足取りに、よろけて自分が置いたワインの入った籠につまづき、無様に倒れた。


「お母様!」


 ティアが駆け寄ったが、女は気付いていないようだった。しばらく突っ伏したまま動かない。

 まさか気を失ったのかと、オヅマとレオシュは一歩近付く。

 すると女がゆっくりと起き上がった。

 さっきまでの怒りはどこに消えたのか、放心したように座り込んだまま、目の前に転がっている黒いワイン瓶を見ている。土で汚れた顔を拭いもしない。

 やがて手を伸ばしてワイン瓶を掴むと、ゆっくり起き上がった。


「私は……悪くないわ。私は悪くないのに……私は…あの女に唆されて……嫌だった……私は……嫌だったのに……」


 ブツブツとつぶやきながら、女は転がっていたほかのワイン瓶も拾い上げて、大事に胸に抱え込む。


「お母様、大丈夫ですか?」


 駆け寄って心配するティアの声も、もう女の耳には届いていないようだった。


「私は悪くない……私は悪くない……私は、悪くない……」


 まるで自らに暗示をかけるかのように、何度も繰り返しながら、女は蹌踉そうろうとした足取りで、館へと入っていく。


「お母様……」


 ティアは心細げに呼びかけたが、女が振り返ることはなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る