第三百三十二話 カーリンの旅立ち

 その後はゴルスルム通りのベントソン家において、着々と準備が整えられ、いよいよレーゲンブルトにカーリンたち一行が旅立ったのは、ファルミナから戻って十日ほど過ぎた頃のことだった。


 思ったよりも時間がかかったのは、これからの旅程を考えて、カーリンの体調が十分によくなるのを待ったのと、気忙しいベントソン一家の人々が、帝都からそれぞれの自宅に帰る前に、カールの結婚式を強行させたからだった。

 これはニクラ家の方でも、いつまでも行かず後家になっている娘が、本当に結婚するのか気を揉んでいたため、(当人らを除いた)両家の堅い結束によって実現したことだった。おそらく二人だけで進めていたら、三年後になっていただろう……というのが、抗議してきた次兄カールに対するハンネと姉たちの総意だ。


 アドリアンは見送りなどするつもりはなかったが、行き先がレーゲンブルトと聞いて、嫌々ながらも足を運んだ。

 オヅマ達への手紙を同行するマッケネンに託すため…と理由をこじつけたが、実際にはレーゲンブルトに行きたい気持ちが抑えられなかったからだ。



***



 カーリンをレーゲンブルトにると聞いて、当初、アドリアンは反対した。


「どうしてレーゲンブルトなんだ!?」

「考慮の結果です。今はカーリンをセオドア公子に会わせるわけにはいきません。向こうにきっかけを与えてしまいますからね。かといってこのまま帝都に残しておいては、いずれ見つかる危険性もありますし、もし見つかって堂々と兄として会いに来られたら、こちらとしては現状、止めることはできません。物理的にも時間的にも距離を置くことが必要なのです」


 ルーカスの説明はもっともだと理解できたが、それでもアドリアンは納得がいかなかった。


「だからって、どうしてレーゲンブルトなんだ!?」


 不満げに問うたその言葉には、多分に嫉妬に近いような、複雑なものが含まれていた。だが、それも仕方ない。アドリアンにとって、レーゲンブルトは特別な地だった。そこでアドリアンは精神的に生まれ変わり、オヅマやマリー、オリヴェルといった、初めての友を得ることができたのだ。


 今回、カーリンがそこに行くことで、マリーやオリヴェルがカーリン楽しく過ごすのだと思うと、アドリアンは面白くなかった。

 マリーの性格からして、きっとカーリンを快く受け入れ、やさしく世話してやってくれるだろうことは目に見えていた。オリヴェルは新たな友達に少しばかり戸惑うだろうが、なんだかんだで親しくなっていくことだろう。オヅマだって驚くには違いないだろうが、三歩歩いて振り返ったら、もう「カーリン」と当たり前のように呼びかけていそうだ。

 自分のこの気持ちがはなはだ独善的なものだとわかっていても、アドリアンはどうしても腹立たしかった。

 ましてそこに自分がいないとなれば、なおさら。


「一緒に行きたいと、お思いですか?」


 ルーカスがアドリアンの心中を見透かして尋ねてくる。

 すぐさまアドリアンの瞳が、期待にきらめいた。


「行っていいのか?」

「それはもちろん……駄目です」


 あっさりと言うルーカスの顔には、悪戯いたずらっ子のような、少し意地悪な笑みが浮かんでいる。

 一瞬膨れ上がった希望が、一気にひしゃげて、アドリアンはムッと押し黙った。

 コロコロと豊かに揺れるアドリアンの表情に、ルーカスは大声で笑った。


「ハハハハッ! 小公爵様も、ずいぶんと素直になられましたな」

「ふざけないでくれ、ベントソン卿」

「いや、失敬。ようやく年相応になられたと思いましてね」


 しみじみと言うルーカスを、アドリアンは睨みつけた。

 我ながら子供っぽい言動だと思うし、少し恥ずかしくもある。フイと目を逸らすと、軽く息をついてから、いつもの大人びた顔つきになって言った。


「キャレ……カーリン嬢は今まで男として過ごしてきたから、服もないだろう。彼女が困らないように、用意を整えてやってくれ。これまで近侍として働いた……ねぎらいとして」


 ルーカスは目を細めた。

 さっきまでカーリンがレーゲンブルトに行くことに、ほとんど嫉妬といってもいいほど渋っていたというのに、一方でこうして身の回りの品にまで配慮する。本当にこの少年は、公爵エリアス公爵夫人リーディエ、二人の子供だと再確認する。


「かしこまりました」


 ルーカスは深々と頭を下げた。下げながら、再び忠誠を新たにする。将来、グレヴィリウス公爵家を継ぐ、小さなあるじに。――――



***



 だが、実際に見送りとなれば、やはりアドリアンはカーリンに対して厳しかった。カーリンの背後に停まっている焦茶色の質素な馬車を恨めしく見つめる。それに乗ればレーゲンブルトに行けて、オヅマ達にも会えるのだと思うと、むくむくと苛立ちが湧いてくる。……


 一方、カーリンはまさか会えると思っていなかったアドリアンの姿に涙を浮かべそうになった。しかし自分を見るその目は、女とバレたあの日と同じように冷たい。

 カーリンは必死に唇を噛み締めてこらえた。


 アドリアンは本当であれば、カーリンに話しかける気など毛頭なかった。だが、いざ目の前にすると、どうしても釘を差しておきたくなった。


「一つだけ、言っておく。オヅマの妹であるマリーと、弟のオリヴェルは、僕にとって、とても大事な友達だ。彼らを……傷つけるようなことをしたら、決して許さないからな」


 アドリアンの鳶色とびいろの瞳は、厳しく、カーリンを睨みつけていた。


「……は…い……」


 カーリンはかろうじて返事したが、みるみるうちに、止めようもなく涙があふれた。あわてて頭を下げると、すぐに馬車に乗り込む。


「気をつけてな」


 エーリクがあわてたように声をかけたのにも、気付かなかった。


 ルーカスは念には念を入れていた。姉たちが帝都から自宅へと帰るのに合わせて、ハンネとカーリンをレーゲンブルトに向かわせたのだ。

 その日にベントソン家からは、数台の馬車が連なって出て行ったが、新年の上参訪詣クリュ・トルムレスタンからの帰還となれば、おかしく思われることもない。実際に、帝都での新年行事を存分に楽しんだ人々が、今後に予想される混雑を避けて、早めの帰路につくのは珍しいことではなかった。


「旅行には、いい季節ね」


 カーリンの前に座ったハンネが、窓に流れてゆく景色を見ながら、いきいきとした表情で言った。


「……はい」


 カーリンはかろうじて返事したが、泣き腫らした顔は、憂鬱に凝り固まっていた。

 アドリアンの冷たい面差しが忘れられない。あからさまな嫌悪と苛立ちが、細かくカーリンを切り刻む。

 だが、カーリンが泣いてしまうのは、そんな冷徹な態度よりも、アドリアンの優しさを思い出すときだった。


 慣れない騎士団での稽古で、いつもカーリンを気にかけてくれていた……。

 家庭教師からの宿題に四苦八苦するカーリンに、丁寧に教えてくれた……。

 口下手なカーリンの話を急かすこともなく、ゆっくりと聞いてくれていた……。

 いつも……いつも自分を助けてくれていた、頼もしい小公爵さま。


「…………」


 また涙がこぼれそうになって、カーリンは顔を上げると、窓向こうの空を見つめた。

 夏の暑さがやわらぎ始め、そろそろ秋の風が空高く吹き渡るようになった、すがしい晴天の朝だ。しかしカーリンには、その高く澄んだ空すらも恨めしかった。


 アドリアンが好きだった。

 でも、もう二度と、優しかったあの瞳を見ることはないのだろう……。

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