第三百三十話 アドリアンの不信
同日。
帝都、公爵邸内の一室。
小公爵アドリアンの部屋にいるのは、エーリクと、マティアス、部屋の主であるアドリアンの三人だった。
テリィは母親から連絡があり、一緒に出掛けている。この頻繁な外出に、いつもならばマティアスは文句タラタラであったが、今日は比較的すんなりと送り出した。理由は、テリィがいてはできない話をするからだ。
キャレがエーリクと共にファルミナに行ったあと、マティアスはルーカスに呼ばれて、キャレが女であったことを聞かされた。その際に、この件に関してきつく口止めされた。
「特に、同じ近侍のチャリステリオ・テルン。奴には漏らすな。口が軽いうえ、必ず母親に話すだろうからな。テルン子爵は信頼できる人だが、あの母親は最近グルンデン侯爵夫人に近づきつつある。重要な案件について、奴は外せ」
同じ近侍であっても、全員が全員アドリアンに忠誠を誓ってやって来るわけでないことはわかっていた。中には敵対勢力があえて
そもそもキャレも、オルグレン家がハヴェル公子勢力と繋がっていたために、秘密事項については疎外される立場だったのだ。
マティアスの母・ブラジェナもまた、オルグレン家が大人しく近侍を送ってきたことを
「ファルミナの少年には、慎重に接しなさい」
と手紙に書いてきていたが、果たして思いもよらぬ事態に、マティアスはしばらく混乱していた。だが、アドリアンはやや沈んだ様子ながらも、
ルーカスの話では、ファルミナからは新たに…というべきか、入れ替わりで本物のキャレが来ると聞き、また彼には一から教えてやらねばならぬと意気込んでいたのだが……。
一人、
エーリクからファルミナでの
「それで、結局カーリン嬢の願いを聞き入れて、一緒に帰ってきたということか?」
マティアスもハッとなるほど冷たく、アドリアンは問いかけた。エーリクも感じたのだろう。コクリと頷いてから、少し困惑したようにアドリアンを見上げた。
「……おかしいと思わなかったのか?」
「は……おかしい…とは?」
「起きた時には母と弟の姿はなく、カーリン嬢の持っていた金も盗まれていた。そうして彼女は君を起こし、弟には近侍の役目は無理だからと、自分を連れて帰るように頼んできた。……僕には、カーリン嬢が母と弟に金をやって、しばらく身を隠すよう指示したうえで、狂言を演じた……ようにも思える」
「まさか……!」
エーリクは絶句した。あの日の朝の、カーリンの姿を思い出して、ブンブンと首をふる。
「そんな訳ありません! カーリンは母親も弟も、必死で説得しようとしていたんです。今回のことも反省して……。ここに戻ってきたのも、ただひとえに小公爵さまに一言お詫び申し上げたいと……その一心です!」
「無用だ」
エーリクはカーリンに代わって弁明しようとしたが、アドリアンは冷たく拒絶した。その上で、エーリクにも疑いの目を向けた。
「エーリク。君はこの帝都に来てから、キャレ……カーリン嬢と同室だったな。気付かなかったのか?」
「………え?」
「知っていて、黙っているよう頼まれたか?」
「まさか! そんな訳ありません」
エーリクが即座に否定すると、これにはマティアスも同調した。
「それは有り得ません、小公爵さま。エーリクの性格は、小公爵さまも、十分に理解しておいででしょう。キャレが女だとわかっていて、誤魔化すだとか……そんな嘘をつける人間ではありません!」
「あぁ……エーリクは、そうだ」
アドリアンは静かに頷いてから、ボソリとつぶやく。
「……キャレも……そうだと思っていた」
自分と同じ年の、どこか
ルーカスからは、ハヴェル公子一派であるオルグレン家から来るので、一応、注意するようにと言われていた。だが、やってきたのはオルグレン家で疎外されて育った庶子で、どこか自信なさげな様子が、オヅマと出会う前の自分を思い起こさせた。
アドリアンは彼にも自信を持ってほしかった。自分もまたオヅマのように、彼に希望を抱かせる存在になれると思った。だが……
「……キャレは嘘をついていた。一度、嘘をついた人間を信じることは難しい」
重く苦いその言葉に、エーリクとマティアスはうつむいて黙り込んだ。
顔には出さないものの、キャレの嘘によって、もっとも傷ついているのはアドリアンなのだ……。
マティアスとエーリクはそれぞれにアドリアンの心情を思いやり、特にエーリクはアドリアンにカーリンに会ってもらうよう説得するのはあきらめた。
どんな言い訳をしようとも、どれだけ謝ろうとも、アドリアンの心に一度根差した不信は、そう簡単に取り払えるものではない。
「それにしても、これからどうするのだろう? キャレの不在については、今は外出しているとだけ言っているが……何日もとなると、さすがにテリィも不審に思うだろうし」
マティアスは不透明な先行きに困惑していたが、そう時を置かずしてルーカスから連絡を受けた。
「キャレ公子はファルミナにいる実母から、姉の体調が悪いと連絡があり、しばらくファルミナに帰省することになった……とのことです」
夕食時にサビエルから聞かされた近侍たちは、互いに目配せして、事態の成り行きを考えた。
一人、のんびりしていたのはテリィだ。
「へぇ。キャレ、ファルミナに戻ったんだ。お姉さんなんかいたの?」
「……そのようだな」
マティアスは素知らぬ顔で相槌をうち、エーリクも、アドリアンも黙した。
彼らは、この数日の騒動が嘘のように、平生と変わらぬ時間を過ごした。
いつもどこか自信なさげな、伏し目がちの少年『キャレ』は、もういない。『キャレ』の不在に、彼らは少しずつ慣れていった。……
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