第三百二十九話 ベントソン一家の事情

 ハンネ・ベントソンは、ベントソン家の末娘である。

 若かりし頃から壮年に至っても、女性関係に不自由したことのない父は、生涯に三人の妻を持ち、九人の子供を持った。ハンネは父の三番目の妻が生んだ唯一の子供であったが、母はハンネを生んだ一年後に役者の男と浮気して、あっさり姿をくらましてしまった。

 父譲りの明るいハニーブロンドに、ベントソン家固有ともいえる青い瞳、頬の雀斑そばかすは愛嬌だと、生まれながら伊達男(自称)の父はハンネを可愛がってくれたが、その父も八歳のときに亡くなり、ハンネはほぼ姉と兄たちによって育てられた。

 彼らは幼い妹をただ甘やかすこともなく、かといって母の違うハンネをいじめるようなこともなく、それなりに程よく厳しく育ててくれた。

 そのせいかハンネは末娘にありがちな我儘放題のお嬢様になることもなく、むしろ八人の兄姉らを極めて冷静に観察したうえで、自らの持ち回りに合った行動をするという、次兄カールに言わすと「ちゃっかり娘」に育った。


 そんなハンネにとって、一番上の兄であるルーカスは、もっとも一筋縄ではいかない人物だった。

 父譲りの伊達男気質を多分に受け継いだ軽薄な男にみえて、その実この兄が本心を見せることは、ほぼなかった。いつもどこか腹に一物ありそうな、意味深な微笑を浮かべている兄の、めずらしく屈託ない顔に、ハンネは少々戸惑った。


「なに? 兄さん、妙に嬉しそうなんだけど……」


 兄と同じ青い瞳が訝しげに窺う。

 そんな妹の表情に、ルーカスは苦笑した。


「なんだ。俺が嬉しそうだと問題か?」

「問題じゃないけど、なんかありそうで」

「お前、兄を何だと思ってるんだ?」

「油断ならない金髪キザ野郎よ」

「…………」

「言っておくけど、これは私だけの意見じゃなくて、エイニ姉さんはじめとする女一同の総意よ」

「もういい。用件を言え、用件を」


 ルーカスは妹の背後に控えた他の姉妹たちの影を追い払うように、手をヒラヒラ振りながら言った。この姉妹連合(元妻も含む)を敵に回して勝てるわけがない……。

 ハンネは軽く鼻をならすと、腰に手を当て、座っている兄を厳しく見下ろした。


「あの子のことよ。カーリンちゃん。聞けば昨日も今日も馬に乗って移動してたっていうじゃないの。可哀相に。ただでさえの時期は、お腹が痛くなったり、熱っぽくなったり、色々とつらいのよ。最低でも三日は安静にしておくべきなの!」


 妹からの思わぬ抗議に、ルーカスはきまり悪そうに目線を泳がせた。

 ヴァルナルもさすがに気まずくなって、なるべく気配を消そうとする。

 大の男二人が、実際にでかい図体を縮こまらせる様子を、ハンネは腕を組んであきれたように見つめた。


「まったく。どうして最初に私に聞かないのよ。私じゃなくっても、兄さんだったら、いくらでもそういうことに詳しい女性には事欠かないでしょ」

「……どういう意味だ、それは」

「最近もどこぞの未亡人と、夜の公園でデートしてたらしいじゃない。今の恋人じゃなくったって、相談できる相手はいるでしょ」


 ルーカスは苦虫を噛み潰して、しばらく黙った。下手に否定しても肯定しても、今は妹の毒舌の餌食になるのが目に見えている。

 一方、ヴァルナルは兄と妹の間の、緊張感とも違う微妙な空気にモゾモゾしつつ、おそるおそる口を開いた。


「その……ハンネ嬢。カーリン嬢には近々レーゲンブルトに行ってもらおうと……思って……いるんだが……」


 言っている間にも、ハンネの青い目がジイーッとヴァルナルを凝視する。


「いつ?」


 ハンネはヴァルナルが言い終わるやいなや、鋭く兄に問うた。


「……早ければ早いほど」

「まさか今日とか明日とか言うんじゃないわよね?」

「………無理か?」


 ルーカスが小さい声で尋ねると、ハンネは頭を押さえた。


「あの子の体調考えてる? 寝れば治るような状態じゃないわよ。体もだけど、本当に精神的に参っちゃってるの。それなのにレーゲンブルトまでなんて、そんな長旅……まさかと思うけど、一人で行かせるわけじゃないわよね?」

「まさか。年若い娘一人を行かせるわけないだろう。レーゲンブルト騎士団から一人ついて行って……あぁ、そうだ、カールに行かせよう」


 ルーカスはいつもこういうときに身軽に動ける弟を思い出し、ちょうどよいとばかりに言ったが、ハンネは強硬に反対した。


「まぁ……駄目よ! カール兄さんは、ヤーデとせっかくまとまりそうなんだから」


 妹からの思わぬ報告に、驚いたのはルーカスだけではない。ヴァルナルも唖然となった。


「え? あいつ、ようやく相手できたのか?」

「ヤーデ? ……それは、まさか……」


 それぞれに問いかけられて、ハンネはキョトンとしながらも冷静に答えた。


「えぇ。そうよ。ヤーデ・ニクラ准男爵令嬢。もちろん、クランツ男爵はご存知よね? 奥様の養子先なんだから。知らなかった? あの二人、付き合ってるの」


 まったく予想もしていなかった展開だった。ポカンとしている男二人に、ハンネが語ったところによると。


 前年、弟のアルベルトにも先を越されて腐っていたカールではあったが、ヴァルナルの結婚のために忙しく働きまわっている間、ミーナとの養子縁組交渉で何度となくヤーデ・ニクラと会うことが増えていった。もちろん当初は業務上の付き合いではあったが、婚儀の後にも、何かしら連絡は取り合っていたのだという。


「で、カール兄さんがこの新年に帰ってきてからは、何度も会ってるうちにデートしてるみたいになっちゃって、そういう話になったみたい」


 ルーカスは長い溜息をついて、背もたれに凭れかかりつぶやいた。


「あーあ…手頃に使えるやつがいなくなったなー」


 一方、ヴァルナルも深く息を吐いてから、しみじみとつぶやく。


「縁で繋がる縁か……」


 勝手にしんみりしている男たちに喝を入れるように、ハンネがパンと手を打った。


「ともかく! そういうことだから、カール兄さんは駄目。アルベルト兄さんも、まだ新婚だから駄目。それ以外の人選で、もちろん馬車を用意してよ。まかり間違っても、今回みたいに馬に乗せての移動なんて言語道断。その上で、付添人として私も同行します!」


 当たり前のように宣言されて、ルーカスは顔色を変えた。


「お前が? お前も一緒に行くってことか?」

「当然よ。あんな若いと、騎士だけで行かせる気? 言っておくけど、カーリンちゃんはの手当ての仕方だって、まだよくわかってないの。私がついて行ってあげないと、一人じゃ困っちゃうわよ」


 それについて言われると、男二人はもはや黙り込むしかない。

 ルーカスは渋い顔になって、眉間の皺を揉みながら、妹に尋ねた。


「で、つまるところお前の目的は?」


 話の早い兄の質問に、ハンネはにっこり笑った。


「そりゃあもちろん、クランツ男爵夫人に会いたいからよ! ヤーデから聞いたの。とーってもキレイで、人だって! カール兄さんも……あのアルベルト兄さんでさえも、褒めてたのよ。それに夜会で公爵様が、わざわざクランツ男爵の奥様に贈り物したって、評判になってたでしょ? ご存知? クランツ男爵。貴方の奥様は今、帝都の一部の社交界では、幻の男爵夫人なんて呼ばれておいでよ」

「は、ハハ……」


 さっきまで聞いてるほうが面映ゆいほどに妻自慢をしていたヴァルナルでさえも、このハンネからの噂話には、愛想笑いを浮かべるしかなかった。

 まさか自分の知らない間に、そこまで妻が話題になっているとは思っていなかったのだ。正直なところ、綺麗で心優しい、思慮深い、この上なく美しい妻であるということに異論はないが、いざミーナが帝都に来たとき、そうした好奇の視線に立つのは、あまり喜ばしくない。

 それはルーカスも口には出さなかったが同意見だった。なにせ目立つのは色々な面で困るのだ。

 しかしハンネは男たちの困惑した顔にも平然としたものだった。


「そういうことで、私はカーリンちゃんと一緒にレーゲンブルトに行くから。クランツ男爵の奥方と、お子様たちへのプレゼントを買う時間くらいは下さるわよね?」


 言うだけ言って去ろうとする妹に、ルーカスはあわてて声をかけた。


「おい、ハンネ。言っておくが……」


 しかしハンネは兄譲りのしたたかな笑みを浮かべて振り返る。


「わかってるわよ。カーリンちゃんのことは、内緒なんでしょ」

「…………」


 ルーカスは嘆息して顎をしゃくると、妹に出て行くよう促した。

 詳しい事情についてはもちろん話していないが、妹は相変わらずの観察力で、なんとなしにカーリンの存在が知られてはいけないものだと感じ取っていたらしい。

 まったく、我が妹ながら聡い。―――


 似た感想を持ったらしいヴァルナルが、感心したように言ってくる。


「随分としっかりされるようになったものだな、ハンネ嬢は。いくつになられたんだったかな?」

「二十歳だ。息子サビエルと同じだからな」

「あぁ、そういえばそうだったな。いやぁ、そう考えたら卿の父上も、大したものだな。孫と同じ年の娘を授かるとは」

「……俺の父のことはさておき、卿こそどうなんだ?」

「は?」

「四人目」


 ヴァルナルはしばらく考えて、意味を悟ると、一気に顔を赤くした。


「そっ…れは、まだっ……いや、まだ…というか、考えてはいないというか……」

「やれやれ。行くぞ、純情中年」


 ルーカスは肩をすくめると立ち上がって、ヴァルナルを誘った。


「ようやく不肖の弟がかたづくらしいからな。一応、兄としては祝いをしてやらんといかんだろう。卿も一緒に祝え」

「もちろん!」


 ヴァルナルもすぐに立ち上がり、二人はそれぞれに弟であり、部下でもあるカールをどうからかってやろうかと、ニヤニヤ笑いあった。

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