第三百二十七話 カーリンの懇願

「……それで朝になったら、ベッドはもぬけの空で、親子はキャレ……じゃなく、カーリン嬢の持っていた金をすっかり盗んで消えていた、ということか」


 ルーカスはエーリクからの報告を聞いて、天を仰いだ。多少、難渋するだろうとは思っていたが、まさか逃げるとは。


「それにしても……」


 言いかけてルーカスはカーリンを窺った。青ざめた顔は疲れきっていて、今しも倒れそうだ。


「カーリン嬢、ひとまず今日は休んだほうがいい」


 声をかけると、一拍置いて、カーリンはハッと顔を上げた。


「も、申し訳ありません! あ、あの…なにか、申されましたか?」

「相当に疲れているようだから、体を休めるようにと言ったのだ」

「いえ! 大丈夫です。お気遣いさせて、すみません」


 一生懸命に背筋を伸ばして言う姿は、痛ましさしかなかった。ルーカスは一息ついてから、厳しい顔になって命令した。


「いや、駄目だ。今からクランツ男爵と密談があるのでな。すまないが、退席してもらおう」


 はっきりと退出を命じられ、カーリンは恥ずかしそうに、頭を下げて謝った。


「す、すみません。気が回らなくて……」


と言うのは、おそらくルーカスがさっき言った「体を休めろ」というのが、退席を求める婉曲な言い回しだと思ったからだろう。

 ルーカスはカーリンの誤解をあえて解こうとは思わなかった。すぐに女中を呼ぶと、客室に案内させた。


「それにしても……まさか実の母と弟がそんなだとはな」


 ルーカスはカーリンがいなくなってから、嘆息混じりに先程言いかけた言葉を続けた。

 エーリクはカーリンの前であったので、極めて抑えた表現をしていたが、それにしても聞くだに苛立たしい関係性だ。弟ばかりを異様に依怙贔屓えこひいきする母親に、久しぶりに会った姉の話をまともに聞こうともせず、幼児のように暴力を振るう弟。

 ルーカスの予想としては、カーリンの事情を聞けば、母親は渋々ではあっても受け入れるであろうと思っていたのだ。

 いくら可愛がっている息子のことが心配とはいえ、とうとう娘が初潮を迎えたと知れば、母親ならば、そのまま娘に男のフリして、近侍を勤めろなどとは言わないだろう。ましてこちらでは、その息子の病気についても了承した上で、医師による診察もしようと申し出た。ファルミナの片田舎で療養するよりは、より良い治療が受けられるだろう……と、親であれば考えると思ったのだ。

 そう。


「正直、あの弟では無理だろうと…僕は思いました」


 エーリクはカーリンがいないので、はっきりと言った。


「我儘で横暴で、とてもじゃないですけど、近侍の役目を担うのは無理だと思います。だけど、彼を連れて行かないと……カーリンをこのままにもしておけないから、ひとまず連れて行って、ベントソン卿に会ってもらって、判断してもらおうと思っていたんです」


 どこまでも実直なエーリクをねぎらうように、ルーカスはぽんと軽くその肩を叩いた。

 今更ではあるが、少々焦りすぎたきらいがある。キャレがカーリンという女であることに驚いて、焦って、事を急ぎすぎた。


「すまなかったな、エーリク。お前にも色々と面倒をかけた。お前は公爵邸に戻れ。小公爵様に報告を済ませて、少し休むといい」


 エーリクはすぐに立ち上がった。彼もまた、自分がここにいることを望まれないとわかったのだろう。だが、やはりどうしても気にかかることがあった。


「あの、カーリン……嬢については、どうなるのでしょう?」

「そのことも含めて、今から考える」


 ルーカスの返事にエーリクはしばらく言いにくそうに下を向いていたが、やがて思いきった様子で顔を上げた。


「あの! カーリンをそのまま近侍として……」

「駄目だ」


 ルーカスはみなまで言わさず、即答した。

 これまで聞いてきたエーリクの話、その話をしているときの態度、現状を考慮すれば、真面目で堅物の最年長近侍がそう言うであろうことは、容易に想像できた。

 まして好意のある相手であるならば、なおさら力になってやりたいと思うのも無理はない。(もっとも、この鈍感な近侍の少年は、その好意の種類をまったく自覚していないようだが)


 一方、エーリクは一切の妥協の余地もないルーカスの返答に、力なく項垂れた。

 わかっていたことだった。そんなことは許されない。なにより彼らの主人であるアドリアンが決して赦さないだろう。一昨日のアドリアンの態度からも、それは明らかだった。

 キャレがカーリンというであることがわかって以降、アドリアンがカーリンと目を合わせたのは、糾弾したときくらいで、その後は見向きもしなかった。

 はっきりとした拒絶と、苛立ち、嫌悪。ここまで信頼を失って、近侍でいることなど許されるわけがない。

 それでも訊いてしまったのは、カーリンがそれこそ必死に、床に頭をこすりつけるようにして、エーリクに頼み込んできたからだった。



***



 キャレと母親が失踪したとわかったとき、エーリクはすぐに探そうとした。朝方に出たのであれば、イクセルを走らせれば、どこかで見つけ出すことも可能かと思ったからだ。

 だがカーリンは出ようとするエーリクを止めた。


「お願いです! 弟のことは、諦めてください!」

「そんな訳にはいかないのは、わかってるだろう?」

「無理なんです! キャレには無理です。私も久々にこっちに戻って来て、わかりました。あの子には、小公爵さまの近侍なんてお役目、できっこありません!」


 エーリクもそれには同意できた。だが、ルーカスから連れてこいと言われている以上、ひとまずは何としても連れて帰らねばならない。その上でキャレの性状を見て、判断してもらうしかない。そう思っていたのに、当人が逃亡したとなっては……。


「……俺も正直、お前の弟に適性はないと思う。でも、決めるのは俺たちじゃない。それはわかっているだろう?」

「わかってます……でも、お願いです! どうか、お願いします! 私を連れて、戻ってくれませんか?」

「そんなこと……」


 できるわけがない、と……エーリクには言えなかった。

 本来、連れて帰らねばならないキャレをこのまま逃し、カーリンを連れて帰れば、事態は解決しないまま、エーリクは叱責を受けるだろう。だがこのままここにカーリンを残せば、母親と弟をなくした彼女が、今まで以上に孤立するのは目に見えている。

 オルグレン家のほうでは、弟のキャレはまだ公爵邸にいると思われているから、母親だけが失踪したことになるだろうが、そのことも含めてカーリンが責められ、ひどい扱いを受けるに違いない。

 エーリクが悩んでいる間も、カーリンは必死に、それこそエーリクの腕に縋りついて、頼み込んでくる。


「お願いします! どうか、お願いします!! せめて、ちゃんと謝りたいんです。騙すつもりはなかったんです。お願いです! 小公爵さまに……」


 エーリクは唇をかみしめた。カーリンの気持ちはわかるが、そう簡単に決めていいことではない。それに問題はほかにもある。


「この館の人間が、逃げた母親と弟を見つけたらどうする? あの二人が捕まったら、今回、俺たちがここに来たことも話すだろう。すべてが明るみになれば、小公爵様のお立場を危うくするんだぞ」


 だがエーリクの問いに、カーリンは皮肉げな笑みを浮かべ、ゆるゆると首を振った。


「この館の人達が私達親子を探すなんてこと、有り得ません。ずっと厄介者と言われてきたんですから。面倒な仕事を押しつける相手がいなくなって、多少は困るかもしれませんけど、きっといなくなって、せいせいしたと思うはずです」

「しかし……」


 なおも渋るエーリクに、カーリンは言い重ねる。


「母とキャレも、見つかれば、公爵邸に連れて行かれると怖れていましたから、必死で身を隠そうとするでしょう。キャレは自分の身を守るためなら、きっと……なんとしてでも、逃げます。あの子はそういうことだけは、知恵が回るんです。病気になっても、そこだけは変わらなかった……」


 いなくなった弟の姿を虚空に見つめながら、カーリンのあきらめきった声が苦く響く。 


 エーリクは迷った。自分がどういう行動をとるべきなのか、カーリンにどう言ってやるべきなのか。

 考えるなかで、思い浮かんだのはカーリンの兄であるセオドア公子のことだった。このままカーリンをここに残していって、彼がすんなりと見逃すだろうか? 弟と妹が入れ替わったことに気付いたように、再び入れ替わって元に戻ったことに気付くのは有り得る話だ。そうなった場合、カーリンはまたあの狡猾な兄によって利用されるかもしれない……。

 考え込むエーリクのかたわらで、カーリンはしばらくボンヤリとしていたが、ハッと我に返ったようだ。あわててその場に跪くと、頭を下げて、必死にエーリクに懇願してくる。


「お願いです! 一度だけでもいいから……小公爵さまに、もう一度だけ会わせてください!……お願いします。どうか……」


 その涙声の混じった訴えを、心優しきエーリクに無視できるわけがなかった。最終的にエーリクはカーリンの希望を受け入れた。……



***



「カーリンは小公爵さまに一言だけでも、謝罪したいと言っています」


 エーリクが低い声に懇願を滲ませると、ルーカスは渋い顔で腕を組んだ。


「それは……小公爵様がお決めになることだ。報告したときにでも、申し上げるといい。お会いになると言うのならば、こちらに来てもらう必要はあるが……いずれにしろ、カーリン嬢が今のまま公爵邸に戻ることは有り得ない」


 きっぱりと言われて、エーリクはただただ黙って頭を下げると、肩を落としたまま出て行った。

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