第三百二十六話 カーリンとキャレ(3)

「すみません、エーリクさん。不快な思いをさせてしまって……」


 そうして自分に詫びてくるカーリンが、エーリクには気の毒でたまらなかった。

 領主である父親の無視、異母兄姉きょうだいからのいじめ、唯一の安らぎであるはずの実の母と弟からの疎外。

 このファルミナの領主館において、最もまともな人間はカーリンだけだ。そうして、まともであるがゆえに彼女は憂き目をみている。……


「俺のことはいい。お前こそ、ここまで無理してきたから疲れているだろう。自分の部屋で寝ておけ」

「……私のベッドは、そこです」


 カーリンは暖炉横にある、藁の積まれた場所を指して苦く笑った。


「すみません。ろくにベッドもなくて。キャレとお母さんが寝るベッドはあるんですけど、あの二人はベッドじゃないと眠れなくて。キャレは寝付きも悪いし、たぶん、今日は夜遅かったので、眠くていつもより不機嫌だったんです。色々と失礼なことを言って、本当に申し訳ありません」


 また謝ってこられて、エーリクは自分の不甲斐なさに奥歯をかみしめた。

 本来謝るべきはカーリンではない。だが、もうカーリンにとって、弟のことで謝るのは当たり前のことで、その理不尽さについて考えることを放棄してしまっているようだった。それは、母と弟を見るカーリンの、寂しさを押し殺した無表情が物語っていた。

 エーリクはため息をついてから、額をおさえた。


「お前、そういうことをするな。今回のことは、お前だけの責任じゃない。あの弟じゃ、お前が代わりに行こうと思うのだって無理もない」

「…………」


 カーリンはうつむいたまま、椅子に腰かける。背を丸く曲げて座った姿は、人生を半分終えた老女のようだった。


「一つ、聞いてもいいか?」

「はい?」

「その……」


 エーリクは迷ったが、思いきって尋ねた。


「なんだって、お前の母親はああまで弟のことを……その、甘やかすんだ? 正直、見たところ病気なんて罹ってるようにみえないし、何だったら、お前のほうが痩せてるくらいだ」

「……高熱を出して、死にそうになるまで……キャレはとても利発な子だったんです」


 カーリンは話しながら、その頃の弟を思い出したのか、少し微笑んだ。


「私はその頃から鈍臭くて、よく叱られてました。だからキャレが手伝ったりしてくれて。あの子も騎士団でこき使われて大変だったのに……」


 少々生意気なところはあっても、その頃のキャレは優しい、頼りがいのある弟だった。だから、母の期待が弟に集中するのも無理ないことだった。


「……母にとって、弟は希望だったんです。いくら庶子とは言っても、この紅玉ルビーの髪は、オルグレン家の血を引く何よりの証です。しかも今の奥方様のお子様はどちらもこの髪を持っていなかった。もちろん、この家を継ぐのはセオドアお兄様です。でも……」


 そこでカーリンは少し声を落とした。囁くようにエーリクに問いかける。


「……エーリクさん、覚えてますか? グレヴィリウス大公爵ベルンハルド老閣下のこと」


 その名前を聞いて、すぐにエーリクはカーリンが言いたいことに思い至った。


 グレヴィリウス公爵ベルンハルド。

 アドリアンの高祖父にあたる人物で、その頃、借金がかさみ、領地を切り売りするまでになっていたグレヴィリウス家を再興させ、帝国宰相にまで登り詰めた、別名『影の皇帝』。その圧倒的な統率力と、冷酷無比とも呼ばれた政治力は、時の皇帝すら彼の前で玉座に着座するのをためらうほどだったという。

 まさしくグレヴィリウスがを冠するまでになった、そのいしずえを築いた人であった。

 しかしそんな偉大な彼の生涯において、いまだに軽蔑もあらわに囁かれるのがその出自だった。


「ベルンハルド公が、元は庶子であったことを母は知って、希望を持ってしまったんです」


 カーリンは皮肉げに頬を歪めた。

 そう。ベルンハルドは元は庶子であった。しかも嫉妬した父公爵の妻たちによって、身重であった母諸共に奴隷商人へと売られたのだ。そのまま、もはやグレヴィリウス家に関わることもなかったはずの彼が、奇跡的に戻ってこれたのは、本来後を継ぐべき兄や従兄弟たちが相次いで流行病で亡くなったからだった。


「母は考えたんです。もし、ベルンハルド公と同じように、はやり病でお兄様たちが相次いで亡くなったら、キャレがオルグレン家の当主になれるかもしれない……って」


 エーリクは首を振った。そんなことが、そう簡単に起きるはずがない。

 ベルンハルドの兄達が亡くなったのは、流行病に加えて、生活も相当に乱れていたせいとされる。それに兄達が亡くなったからといって、ベルンハルドが順風満帆に公爵位を相続できたわけではない。決して表向きには語られない策謀や、陰惨な闘争を経て、彼はその地位を得たのだ。

 カーリンの兄であるあの忌々しいセオドア公子はもちろん、二番目の兄であるラドミール公子も、至って壮健だと聞いている。

 むしろ今となっては、キャレにこそ瑕疵かしがあると見られるだろう。熱病からどうにか生還したものの、話し方を含め著しく対人への接し方に問題がある。


「正直、あの弟を連れて帰るのが正解なのか……俺にもわからなくなってきた」


 エーリクがボソリとこぼすと、カーリンは哀しそうに目を伏せた。


「でも……私が、これ以上、小公爵さまのお側にお仕えすることはできませんから」


 絞り出すように言った声は震えていた。暗くて見えないが、かすかな嗚咽に、カーリンが泣いているのがわかった。

 エーリクはしばらく言葉を探したが、こういうときに気の利いたことが言える人間でないのは、自分が一番よくわかっている。


「もう、お前も寝ろ。ともかく今日は、寝ておけ。明日の朝には説得して、あの弟を何としても連れて行かねばならないんだからな」


 ぶっきらぼうに言うと、エーリクはドア横にどっかと座って、マントをクルリと巻いた。


「エーリクさんが、こっちで寝てください。あまり寝心地は良くないかもしれませんが……私は椅子に座ってでも眠れますから」


 カーリンがあわてて椅子から立ち上がって言ったが、エーリクは「いい」と短く言って目をつむる。それでも気にして突っ立ったままのカーリンに、むっすりとエーリクは言った。


イクセルを外に繋いでるから、何かあったときのためにここで寝てるんだ。いいから、お前はそっちで寝ておけ」


 しかしエーリクも帝都からファルミナまでの強行軍に、案外と疲れていたようだ。すっかり寝入ってしまい、朝になってカーリンに揺り起こされた。


「エーリクさん! エーリクさん! 起きて下さい。お母さんたちが、いないんです!!」

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