第三百二十五話 カーリンとキャレ(2)

 それからどうにか二人を椅子に座らせ、経緯いきさつを説明したが、親子はカーリンが話している途中でも、いきなり遮ってはまったく関係のない話 ―― 狸が使用人の畑を荒らした話や、当主不在を狙って執事や従僕たちが酒盛りをした話など ―― をして、まともに聞こうとしなかった。

 特に弟はじっとしていられないのか、頻繁に椅子から立ち上がっては、ウロウロと歩き回ったり、自分の上唇と下唇を交互に引っ張ったり、動物の鳴き真似をしたりと、邪魔するようなことばかりをする。


 それでもカーリンが辛抱強く説得している間、エーリクはともかく黙っていた。

 本当は動き回る弟の首根っこを掴まえて、無理やり椅子に縛り付けておいてやりたいくらいだったが、エーリクが少しでも動くと、カーリンは敏感に反応して、たしなめるようにエーリクを見てくるのだった。おそらくカーリンは何も指摘しないことが、物事が早々に終わることを経験で知っていたのだろう。


「……そういうことだから、やっぱりキャレに公爵家に行ってもらわないといけないの」


 ようやくカーリンが話し終えても、母親の反応はなかった。ポカンと口を開け、ボヤーっとしている。弟はそんな母の腕を引っ張って、わめき立てた。


「ねぇェ、母さぁん。コイツら、俺をここから連れて行こうとしとるのォ? 嫌ァだ、嫌ァだ! 嫌ァだよぅ、俺。母さんから離れるなんて、嫌ァだよぅ!」


 母親は腕を掴んで必死に訴える息子にハッと我に返ると、また「可哀相に」と頭を撫でて抱きしめる。

 エーリクは会ったときから、まったく変わり映えしない親子の様子に、苛立たしげにため息をついた。


「……ベントソン卿から、キャレ公子には医者の診察を受けさせると、約束して頂いております。決して、不自由な生活はさせません」


 しかし弟はそんなエーリクをビシリと指差して怒鳴りつける。


「コイツ嫌ァい! さっきから俺を睨んでくるゥ!」

「キャレ、失礼なことを言わないの」


 カーリンがさすがに厳しくたしなめると、弟はギッと姉を睨みつけ、机に置かれてあった木の皿を投げつけた。

 エーリクは反射的に手を伸ばし、カーリンの顔をかばった。バシリと手に当たった皿の硬さに、もし当たっていたらと思うと、さっきからの態度も含めて、この我儘極まりない弟への苛立ちが沸騰した。


「いい加減にしろ! 姉を一人で公爵家に送っておいて、貴様は今の今まで、母親と一緒にのうのうと暮らしていたんだろうが!! それを詫びるどころか、さっきから……」


 太い声で怒鳴りつけられると、弟は震え上がって、母親にしがみついた。ヒック、ヒックとしゃっくりが止まらない息子の背を、母親は懸命にさすってやりながら、エーリクではなくカーリンに文句を言った。


「カーリン! お前、こんな時間にいきなり来たかと思ったら、何だい! 私たちを脅しに来たのかい!! なんてひどい子だ。病気の弟に怒鳴りつけて……!」

「カーリンは関係ないだろう! 怒ってるのは俺だ!」


 エーリクは吠えるように怒鳴ると、ドスンと拳で机を打った。

 この母親にも腹が立つ。さっきから弟ばかりを庇って、同じ娘であるカーリンのことは、ただの一度も心配する素振そぶりはない。娘が初潮を迎えたことにすら、まるで関心を示さず、いたわる言葉の一つもなかった。

 そのうえ、エーリクと直接言い合うのを恐れて、言い返してこないとわかっているカーリンに非難の矛先を向けるなど、卑怯極まりない。


 母親はエーリクの剣幕に、おどおどと目を泳がせて、必死に視線を逸らした。その卑屈な態度も、エーリクには業腹ごうはらものだったが、隣にいたカーリンの深い溜息に、自らも軽く息をついて怒りをどうにか収めた。

 カーリンはようやく大人しくなった弟に、やさしく声をかけた。


「キャレ、公爵家はここよりもずっと立派で、ベッドも広くて、パンだって柔らかくておいしいのがいっぱい食べられるよ。服も、きれいな服を小公爵さまから頂いたから……」


 カーリンの話を、鋭い声で遮ったのは母のゾーラだった。


「冗談じゃない! その小公爵様とやらが、どんなに冷たくて恐ろしい人か! ちょっとでも気に入らないと、すぐに鞭をもってきてつんだろう! そうして逆らったら、身ぐるみいで追い出すそうじゃないか!! そんな恐ろしい場所に行けだなんて……甘い餌で私らを騙そうたって、そうはいかないよッ!!」


 一体、どこでそんな噂をきいたのか、根も葉もない母の反論に、カーリンはあわてて首を振った。


「小公爵さまが冷たいなんて、とんでもない。とても優しい……本当に、優しい方よ」


 少しだけカーリンの言葉に苦さが混じったのは仕方ない。

 昨晩から、帝都を経つ朝になっても、とうとうアドリアンが姿を見せることはなかった。カーリンは謝罪はもちろん、別れの挨拶も、これまでの感謝も、一言もアドリアンに伝えることは許されなかったのだ。

 相当にアドリアンが怒っているということを確信し、カーリンは暗然たる気持ちをかかえてここに戻ってくるしかなかった。もう二度と会えないのだと思うと、今更ながらに泣きそうだった。

 そんなカーリンの苦しみを、双子の弟であるキャレは、なんとなく感じ取ったのかもしれなかった。だが、さっき母親が言ったことを鵜呑みにしていた彼は、姉のちょっとした言葉と言葉のを、覆い隠せなかった嘘がにじみ出たのだと誤解した。


「嘘だ! カーリン、嘘つくな!! お前、今ちょっと言いにくそうにしてたじゃないか。やっぱり小公爵は意地悪なんだあッ」


 エーリクはとうとうアドリアンのことまでも誹謗するこの母子おやこに対し、もはや怒り以外の感情はなかった。彼らもまた、このファルミナの領主館においてしいたげられているのかは知らないが、それでも彼らの態度は許されるものではない。

 ギロリと睨みつけると、弟はすぐにエーリクの怒気を感じたのかして、また母親にしがみついた。

 カーリンはこれ以上、アドリアンの話をしても親子に信用してもらえそうもないとわかると、すぐに話を変えた。


「さっきエーリクさんが言ってたでしょ? 公爵邸に行って、お医者様にも診てもらったら、キャレの病気もきっと良くなるから」


 だが母親はカーリンの申し出に対し、フンと鼻息を荒くしてまくし立てた。


「生憎と、こっちでも十分にしっかりとよく診て下さるがいらっしゃるんだ。私らみたいな貧しい人間にも、分け隔てなく診て下さる方々さ。キャレもあの方たちから薬をもらうようになって、随分と太って、熱を出すことも少なくなって……」


 だが母親は急に話を止めると、あわてた様子で否定した。


「でも、まだまだキャレを一人になんてさせられないよ。先生たちからの薬はここにいないと貰えないし、それに、この子は私がいないと駄目なんだ! とてもとても一人で公爵邸なんかに行って、気難しい小公爵の相手なんぞさせられないよ!」

「…………」


 カーリンは深くため息をついた。

 おそらく母親は弟が健康になってきたことを知られれば、ますますカーリンたちがキャレを公爵邸に送り込む口実にすると考えたのだろう。


「……今日のところは、もう夜も遅いから寝ましょう」


 カーリンが疲れ切った様子で言うと、母親はすぐさま立ち上がった。


「そうだね。明日にしよう。明日、明日! 今日はもう遅い! 明日、ゆっくりと話を聞くよ。それでいいだろう? さ、キャレ。母さんと一緒に寝よう」


 親子二人はそそくさと食堂兼居間から立ち去った。

 カーリンは彼らの後ろ姿をぼうっと見送った。うつろな目の下には、濃い影がわだかまっている。

 エーリクがその姿を見ていると、視線に気付いたのか、ハッとした様子で頭を下げた。

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