第三百十八話 キャレの秘密(1)

「なんで……」


 キャレはシーツについた赤黒い染みに震えた。

 いずれ早晩そうばん来るであろうことは予想していた。そうしたものが女にはあるのだと、母や女中たちを見て知っていたから。念のため、こちらに来てからは、専門の本なども読んだ。だが、実際にその女としてのシルシを目の前にすると、考えねばならないことが多すぎて、たちまち飽和し、呆然となってしまう。

 ぼんやりしている暇はない。さっさと誰にも見つからぬように洗い場に行き、汚れたシーツを洗わねばならないとわかっているのに、体が動かない。


 どうして、よりによって今日なんだろうか。

 皇宮こうぐうで騒ぎを起こしたその日に、どうしてまたこんな困難なことが起こるのか。


 あの後、エーリクに抱きかかえられて皇宮の医務所に着いたが、キャレはなんとか保った意識をふりしぼって、医者の診察は固辞した。普段から騎士の訓練などで、不器用な自分はいつも怪我をしているから……などと言いつくろって、塗り薬だけもらってのがれた。

 下手にシャツを脱がされでもしたら、いくら胴に布をキツく巻いているとはいえ、その時点で不審に思われてしまうだろう。医者ならば、最近丸みを帯びてきたキャレの体つきを見て、勘付いてしまうかもしれない。


「大丈夫か?」


 アドリアンは皇太子殿下との極めて私的な謁見えっけんの後、戻ってくるなりキャレに尋ねてきた。キャレはただうつむいて「大丈夫です」と、小さな声で言うのが精一杯だった。

 本当は蹴られた脇腹も、踏まれた背中もジクジクと痛くてたまらなかったけれど、心配でもされて、公爵邸でも医者に診てもらうようなことになったら元も子もない。


 帰りの馬車で、ダーゼ公女がわざわざ礼を言ってくれた…と、話していたことだけが耳に残った。ズキリと胸が痛んだのは、やっぱりアドリアンもあんなに綺麗な少女であれば、かれても仕方ないと思いつつ、自分の境遇に不憫ふびんさを感じたからだろうか。

 自分も髪を伸ばして結い整え、美しいドレスを着たら、アドリアンは振り向いてくれたんじゃないのか……。

 そんな淡い期待を抱いたのが、あるいはいけなかったのか。


 公爵邸に帰るなり、キャレは自室のベッドに引き籠もった。アドリアンから事情を聞いたサビエルが医者を手配しようとしたが、キャレは必死に固辞した。

「今はとにかく体を休めたいから、一人にさせて欲しい」と。

 珍しくキャレがきっぱり拒否するので、サビエルも諦めて引き下がってくれた。一応、顔などの汚れを拭くために、水の入ったたらいと、手ぬぐいを置いていってくれたのは、心底有り難かった。


 廊下の足音にビクビクしながら、どうにか顔や蹴られたところを拭き終え、もらった塗り薬を塗った。髪の毛の飴も、たらいにその部分をつけて洗い落とした。

 ようやく寝間着に着替えたところで、どっと疲れが押し寄せた。

 サビエルに言ったことは、はからずも本当になってしまったようだ。ひどくだるくて、とにかく眠くてたまらない。

 そのまま言葉通りに、キャレは眠った。おそらくこの疲れは、今日あの乱暴な大公家の若君連中に、暴行を受けたせいだろう…一眠りすれば、このけだるさも解消するだろう……そう、思っていた。


 だが、今にして思えばあれは兆候だったのだ。

 本にも載っていた。

 の前後には、ひどく眠くなったり、体が重くなったりするのだと。


「………洗わなくちゃ」


 つぶやいて再確認する。ともかくこの汚れたシーツを洗濯せねばならない。

 しかし普通は下女が洗ってくれるものを、近侍がえっちらおっちら運んで、水場で洗ってなどいたら、絶対に不審がられるだろう。

 このときばかりは、ここがファルミナの掘っ立て小屋でないことが恨めしかった。あそこであれば、キャレがシーツを運んでいようと、井戸端で洗濯していようと、誰も気に留めなかっただろうに。

 ギリ、と唇を噛みしめて、キャレは憂鬱にシーツの赤黒い染みをまた眺める。それから今は何時かと、部屋に一つある柱時計を見た。藍二ツ刻らんのふたつどきを少し過ぎた頃。既に夕食は終わって、明日の連絡が済んでからの自由な時間帯だ。

 この時間であれば、同部屋のエーリクは自主訓練か、イクセル(*エーリク所有の黒角馬)を走らせに出ていて、戻ってくるまでには半刻(約三十分)以上はあるだろう。使用人たちも遅い夕食をとり、夜中の施錠確認とランプの消灯までの間は、各自の部屋で思い思いに過ごすはずだ。


 ―――― 助かった……


 キャレは少しホッとしてベッドから降りると、シーツを取り外した。

 敷布団にも少しだけ染みがついている。だが、さすがに一人で、この分厚く重い布団を運んで、洗濯するのは無理だった。ぬるま湯を持ってきて、こっそり夜中にでも染みを抜いていくしかない。

 なるべく洗濯物に見えないように、シーツを折りたたみ(このときもなるべく染みが見えないように)、そっと把手とってに手を伸ばしかけたときに、いきなり扉が開いた。


「ひっ!」


 キャレは後ろへと尻もちをついて倒れた。


「あ、キャレ。起きたのか?」


 エーリクが扉を開けて、入ってくる。だがそれよりも、その後ろから入ってきたアドリアンに、キャレの顔は固まった。


「起きているのか? それならちょうど良かった。一応、簡単に食べられそうなものを……」


 言いかけてアドリアンはピタリと動きを止め、凝然ぎょうぜんとしてキャレの落としたシーツを見ていた。エーリクの持ったランプの灯りに照らされて、ちょうど染みになった部分がめくれあがって見えている。


「血じゃないか! しかもこんな……やっぱりひどくやられたんだな? 一体、どこを怪我したんだ?」


 エーリクがあわててランプを床に置いて、キャレの体に触れる。思わずキャレは「キャッ!」と甲高い悲鳴を上げてしまった。すぐに口を両手で塞ぎ、自分を凝視するアドリアンとエーリクを見上げる。

 二人からの強い視線に、キャレはたまらず、フイと目をそらして背を向けた。どうにか言い訳をしないと……と、必死で考えを巡らせながら、落ちたシーツに手を伸ばす。

 すると背後からアドリアンが尋ねてきた。


「キャレ、それは?」


 キャレの背中に向けて指をさすアドリアンの顔は、ひどく困惑しているようだった。

 キャレは戸惑いつつ指をさされた背中の方に目を向ける。グイと寝間着の長いワンピースを引っ張って、青ざめた。

 お尻のあたりにホトリとついた真っ赤な血。

 今更ながらに思った。

 シーツについているんだから、寝間着についていて当たり前だ。どうしてこんな当然のことを見落としていたのだろう……。


「あ……あ……」


 キャレは許しを乞うように手を組み合わせ、ボロボロと涙をこぼした。

 キャレの食事を運んできていたサビエルは、主人と近侍らの奇妙な雰囲気に気付くと、アドリアンの背後から覗き込んだ。彼はすぐに事態を把握はあくした。素早く、キャレとアドリアンの間に割って入る。


「いけません、小公爵様。すぐにここから出て下さい」

「サビエル、どういうことだ?」

「とにかく出てください。エーリク公子も、とりあえずこの部屋から出てください」


 サビエルがここまで切羽詰まった顔で、断固として言うことなどない。

 アドリアンはチラとキャレに鋭い視線を向けたあと、部屋から出て行った。エーリクもひどく戸惑った顔のまま出て行く。


 残されたキャレは、しゃくり上げながら泣き崩れた。

 もう終わりだ。これでもう終わり。

 すべて終わりだ……。

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