第三百十七話 ガルデンティアの主(3)

「返答せよ。下男となってやり直すのか、それともガルデンティアを去るか。去るのであれば当然、推薦状はない」


 それは選択肢がないも同然であった。元は大公城の使用人であった者が、推薦状もなく放り出されたとなれば、当然問題があったと見られる。就職できる場所が今以下の環境になることは必至であった。当然給金も。


「下男として……再び誠心誠意おつかえしたく……」


 一人の従僕が涙ながらに頭を下げると、他の二人も追従した。ヴィンツェンツェは「下がれ」としわがれ声で彼らを部屋から出した。


「やれ……どうにも昨今さっこん下僕げぼくは、あるじが誰かを見誤るようにございますな」


 ヴィンツェンツェの言葉に、ランヴァルトはフッと笑った。腕を這う白蛇の冷たい肌が心地よい。目をつむったまま、皮肉げに言った。


「老人が近頃の若造に文句をつけるのは、百年前から変わらぬようだぞ」

「おや、そのような意地悪を申されますかな」


 とぼけたように言ってから、ヴィンツェンツェはまたスススと大公の寝そべるベッドの脇まで足音なく歩く。ランヴァルトから煙管キセルを恭しく受け取ると、隣に置かれた長細い机にある灰落はいおとしに灰を捨て、煙管をそっと専用の木の皿の上に乗せた。

 机の上には他に、帝国ではあまり見かけることのない白い磁器の香炉こうろと、巻かれた布が置いてあった。

 ヴィンツェンツェは慣れた所作で香炉の蓋を取ると、すでに温まった灰の中に黒い丸薬のようなものをうずめた。ゆっくりと匂いが立ち昇ってくるのを確認して蓋をする。それからおもむろに巻かれた布を机に広げた。ズラリと百本近いはりが、長さもまちまちに並んでいた。それらは一見デタラメに布に留められているように見えて、実は使い勝手のいいように整然と並べられたものだった。


「シモン公子を嫡嗣ちゃくしとせぬのであれば、どこぞに代わりとなる御子おこでもおられますのか?」


 ランヴァルトはその質問には答えず、ゆっくりと目を開くと、暗い天蓋てんがいを見上げた。ビルギットに言われたときと同じように、また無表情になる。だが明らかに変わった空気にも、ヴィンツェンツェは動じなかった。鍼を一本、一本取り上げてはすがめて見ながら、愉しげに話す。


「ひとまずシモン公子はき、もし大公閣下のを受け継ぎし御子おこがいらっしゃるのであれば、お会いしたいものにございますな」

「………乃公だいこうが外に女でも作って、子をしているとでも?」


 暗く苛立たしげな声に、ヴィンツェンツェはニタリと口の端を上げた。


「さすればが増えますゆえ。しかし、そのご様子では期待できませぬな」

「…………」

「大公閣下も、あのように未だに乳離れもしておらぬような、魯鈍頓馬ろどんとんまな息子では、頼りなくお思いでありましょう。他に大公閣下のを受け継ぎし御子おこあらば、も多少は己の立場の危うさに気付いて、刻苦勉励こっくべんれいするのではありませぬかな?」

「……りもせぬ子を仮定したところで、今更であろう……」


 投げやりに言うランヴァルトに、ヴィンツェンツェはヒッヒッヒッと肩を揺らし、いやらしい笑い声を響かせた。


「閣下とてまだ、精が尽きたわけでもありませぬでしょう……今からでも」


 鍼を持って振り返ったヴィンツェンツェの顔は、卑猥ひわいな皺で歪んでいた。

 ランヴァルトの眉間の皺が深くなり、嫌悪も露わにヴィンツェンツェを睨みつける。濁った青の瞳と目が合うと、寝台に仕込まれた剣を手に取った。目にも止まらぬ速さで抜かれた剣の切先が、ヴィンツェンツェの鼻先に突きつけられる。


わずらわしい口だな。その首ごと、斬り捨ててやろうか」

「おォ~ゥ、怖や~怖や~」


 ヴィンツェンツェは怖がって震えてみせると、ポトリと鍼を落として首をすぼめた。そのまましゃがみこんで、すっぽりと自分を包むマントの中に入り込む。頭を覆っていたフードがダラリと後ろに垂れた。 

 ランヴァルトは灰色の布の中でゴニョゴニョと動く物体を、忌々しげに見つめた。切先を向けたまま、低く恫喝どうかつする。


「勘違いするなよ、化け物。乃公だいこうがお前を必要としているのではない。お前が乃公だいこうを必要としているのだ。そうであろう?」

「左様」


 ヴィンツェンツェはニョイと布越しに顔を示した。布を一枚隔てたそれですら、またニタリと笑っているのがわかる。ランヴァルトは苛立たしげに、剣を振るってその布を斬り裂いた。


「ヒャアァッ!」


 老人のかさついた、素っ頓狂な高い声が響いた。

 両目を斬られたヴィンツェンツェは「やれ、痛や~、痛や~」と、フザケた様子でつぶやきながら、絨毯の上に落ちた鍼に手を伸ばす。しかし、すんででランヴァルトがその鍼を取り上げると、そのままブスリとヴィンツェンツェの右手の甲に突き刺した。


「おぉ、これはこれは……拾っていただけるとは、祝着しゅうちゃくの極み」


 ヴィンツェンツェは大して痛がる様子も見せず、手の甲からてのひらまで貫かれたその鍼を、血に濡れた左手で、グネグネと動かしながら抜いていく。

 ランヴァルトはもちろん、何ら悪びれることもなく、冷たく吐き捨てた。


「どこまでも白々しい者よな、ヴィンツェ。道化ヴァルガーであった頃のほうが、まだ可愛げがあったぞ」

「ホッホホ! では、では、可愛い道化に戻りましょうかな?」

「黙れ。……今日はもうよい。下がれ」


 ヴィンツェンツェはボタボタと目から血を流しながら、鍼を元の場所に戻すと、深々とランヴァルトに辞儀した。


「では、今宵は香のみ焚いておきますゆえ。ごゆるりと……」


 そのまま扉へ向かって、スススと足音もなく進んでゆく。しかし把手とってに手をかけたところで「そういえば……」と、なにかを思い出したように振り返った。


「あの娘がおりましたな。ターディの歌をみし娘……。ついぞ見つかりませなんだが、もしはらんだ子を無事に産めておれば、本日お会いになられたグレヴィリウス家の小僧や皇太子とも、そう変わらぬ年の頃でありましょう。生きておれば、閣下のよろしきとなりましたものを」


 ランヴァルトは無言で剣を投げた。

 ドスリ、とヴィンツェンツェの耳をかすめて、扉に刺さる。


「精気が有り余っておるのはそちであろう、ヴィンツェ。とっとと小屋に戻って、お前好みのしかばねでも抱いて寝ろ」

「ホッホホ! では、では、そう致しますかな……」


 ヴィンツェンツェは、また下卑げびた笑みを浮かべると、軽く辞儀をして、部屋から出て行った。

 パタリと扉が閉まる。

 どこまでも人を食った、自らをじることのない老人に、ランヴァルトは苦く舌打ちした。


「……不死者しにぞこないめ。いっそあの皺首、斬ってやればよかったか……」


 苛々しながら無意識に薬指の爪をかじりかけて、不意に思い出の中の少女が止める。



 ―――― 駄目ですよ、ラン。この前だって、血が出ちゃったでしょう……



 ランヴァルトは苦々しく拳を握りしめてから、ゆっくりと息を吐いた。

 ベッド脇の丸テーブルに置かれたデキャンタを、苛立たしげに手に取る。勢いに任せて赤い液体をあおり飲み、ゴホゴホとせた。


 よろめくようにベッドに腰を降ろすと、枕の上でとぐろを巻いていた蛇がするすると寄ってきた。チロチロと気遣わしげにランヴァルトの指先を舐める。

 咳き込んで乱れた息を整えると、ランヴァルトはまた白蛇の頭を軽く撫でた。

 一瞬だけ緩んだ顔も、バタリと倒れて暗い天蓋を見つめているうちに、また苦いものに変わっていく。



 ―――― を受け継ぎし御子……

 ―――― を受け継ぎし御子……



 老人の低いかすれた声が、嫌味に反芻する。

 何度も言われてきたその言葉は、もはやランヴァルトに何らの感慨も与えなかった。

 ただ、感情が冷え、凝り固まっていくだけだ。



 ―――― シモンは大公殿下のただ一人の子でございますよ……

 ―――― もし孕んだ子を無事に産めておれば……



「……うるさい」


 力なくつぶやく。

 何もかもが鬱陶しく、重かった。


「子など……らぬ……」


 言ったのかどうかわからぬほどに、小さく囁く。

 やがて甘い匂いが強く感じられるようになっていくと、体がフワリと浮かんだかのような感覚になり、とろとろとした眠気が訪れた。耳元を蛇が這っていくかすかな音が聞こえる。


「レーナ……」


 腕に沿って移動していく蛇の、ヒンヤリとした体をそっと撫でて、ランヴァルトは目を瞑った。

 忌々しい老人の言葉に反応して、懐かしい思い出が去来する。

 そんな自らの惰弱だじゃくが、ランヴァルトにはうとましかった。

 夢寐むびにも忘れぬその面影の名を呼ぶことすら、いとわしかった。……

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