第三百十六話 ガルデンティアの主(2)

 パッと親子が同時に間抜けな顔を上げる。自分たちの意見が通ったことで、喜びの笑みが浮かんでいたが、ランヴァルトのつけた条件にすぐ顔を曇らせた。


「但し、シモン。貴様の代わりに、近侍から誰か一人、リヴァ=デルゼの修行を受けるという者がおれば……だ」


 シモンは背後に並んでいた近侍たちを振り返った。目のあった一人はすぐに目をそらし、次の者はあわてて俯いて目を合わさないようにした。

 唯一、シモンの目線をそらさず受け止めたのは、シューホーヤの混血児、ファル=ヴァ=ルフだけだった。目が合うと、彼はだいだい色の瞳を細めて、ゆっくりと前に進み出た。シモンの斜め後ろにひざまずき、恭しくランヴァルトに申し述べた。


「大公閣下のおぼしとあらば、わたくしめが喜んでシモン公子様に成り代わり、リヴァ=デルゼ様より指導を賜りたく存じます」


 ランヴァルトはまさか近侍から出てくると思っていなかったので、多少驚いたが、目の前に進み出たファルを見ると、ニヤリと笑った。


「お前……そうか。また身代わりになるというわけか」


 ファルは、一昨年前のアドリアンとの喧嘩で、シモンがガルデンティアの北塔に閉じこめられたときに、その替え玉として連れてこられた乞食の少年だった。本来であれば、用済みになったと同時に殺されてもおかしくなかったのだが、大公の気まぐれで救われた後に、シューホーヤの血を引くことがわかり、騎士見習いとなった。

 そうして今、ファルは驚きのあまり口を開いたまま固まっていた。まさか自分のような者のことを、この城のあるじたる大公が知っているとは思っていなかったのだ。ハッとして我に返ると、その場に額を打ちつける勢いで平伏した。


「こ、この帝国の、しゅ、守護者たる大公閣下に、この…私などを……覚えていただけて、大変……大変、うれしく思います!」


 ファルはしどろもどろになりながらも、ともかく大公への尊崇を懸命に示した。

 その様子を直接のあるじであるシモンは白けた様子で見ていたが、ランヴァルトは笑みを浮かべたまま立ち上がって、ファルの前まで来ると、愉しげに見下ろしながら尋ねた。


「お前の名前は?」

「ファル=ヴァ=ルフ・アンブロシュと申します」

「あぁ…アンブロシュ卿の息子となったのだったな。よかろう。では、せいぜい励め」

「はっ!」


 ランヴァルトは軽くファルの頭を撫でてやると、くるりときびすを返した。先程までのファルへの態度とは打って変わって、冷然と妻と息子の二人を見やる。


「いつまでその間抜け面を、乃公だいこうの前に並べておく気だ? 用向きは済んだであろう。とっとと失せろ」


 シモンはあわてて頭を下げると、逃げるように足早に去っていった。

 一方、母であるビルギットはまだ名残惜しそうにして、何度も振り返っては秋波しゅうはを送っていたが、ランヴァルトは彼女に一瞥もくれなかった。

 実のところ、ビルギットは夫の怒りを買うことはわかっていた。たとえ夫婦であっても、この城の主であるランヴァルトの自室に勝手に立ち入るなど、無作法であり、許されることではない。それでもこの数ヶ月の間、口きくことのない夫に声をかけてもらいたいばかりに、少々無理を言って、押し入ったのだ。

 彼女からすると、息子のことはていのいい口実で、本心ではただひたすらにランヴァルトに会いたかったというだけだった。娘時代から変わらず、たとえ夫の容姿が若い頃から変貌したとしても、彼女の心は一途にランヴァルトを想っていた。だが、夫は彼女の恋情を徹底的に拒否した。


「失礼致します……」


 彼女が小さな声で辞去を告げたときも、まるで耳に入っていないかのように、ランヴァルトは無視した。ビルギットはその冷淡な横顔を、それでも目に焼き付けるように閉じる扉の隙間から必死に見つめていた。



 ようやく己の部屋からがいなくなると、ランヴァルトはベッドに腰掛けた。すぐにヴィンツェンツェが用意しておいた煙管キセルを渡す。受け取りながら、壁際に居並ぶ三人の従僕に言った。


「下男としてやり直すか、出て行くか……どちらだ?」


 従僕たちは最初、自分たちに言われたのかどうかがわからず、澄ました顔で立ったままであったが、その後に誰も返事する者がないので、互いに不安げに目を見合わせた。


「大公閣下のお言葉を聞き逃すとは、一介の召使いにあるまじき態度……」


 ヴィンツェンツェがボソボソとした声ながら、下からジロリと睨めつけるように彼らを見ると、従僕らは途端にあわてて跪いた。


「も、申し訳ございません! 私共に言われたと気付きませんでした」

「お許し下さい!」

「申し訳ございません!」


 従僕らは口々に謝ったが、ランヴァルトは彼らを見ようともしない。ベッドに上がると、頭側の飾り棚に立て掛けてあるクッションにもたれ、長い脚を投げ出すように座った。

 ベッドの下の隅でとぐろを巻いて寝ていた白蛇が、スルスルとランヴァルトの足を伝い這ってくる。太腿のあたりで鎌首をもたげ、チロチロと赤く割れた舌を踊らせた。ランヴァルトはその小さな頭を、指先で撫でてやりながら、ゆっくりと煙管を吸った。


「揃いも揃って、のうのうと……よくも乃公だいこうの部屋に、あのような愚物どもの侵入を許したな。貴様らは騎士がおらねば、あるじの部屋を守ることすらできぬのか……」


 独り言のようにつぶやきながらも、ランヴァルトの口調にはありありとした嫌悪があった。

 従僕らはひれ伏しながら、震える声で訴えた。


「わ、わ、わたくしどもも御方様おかたさまをお止めしました! どうか謁見室にてお待ちあるようにと。しかし、この大公家の女主人たる者に逆らうのかと……公子様もご一緒になって責められたので、仕方なく……」


 言いながら、その従僕はだんだんと、それが自分たちの言い訳でしかないことに気付いたのだろう。声が小さくなっていった。

 ランヴァルトはふぅーっと長く煙を吐いてから、ひどく気怠げに言った。


「それで乃公だいこうに、あの鈍物どんぶつどもの処理を押し付けたわけか。フ……従僕ごときに使役されるとは、馬鹿にされたものよ」


 従僕たちは、自分たちの行動が浅はかであったことを、今更ながらに思い知った。この明敏にして苛烈な主人の前では、虎の威を借る狐もまた、その爪牙そうがによって処されるのだ。

 ブルブルと震えて押し黙る従僕らの前に、ヴィンツェンツェがスススと音もなく近寄って声をかけた。

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