第三百十三話 皇宮の噂話(2)

「『貴畜』って言葉、聞いたことある?」

「……キチク?」

「最も貴くて、最も忌むべきケダモノ

「……どういうことです?」


 アドリアンが眉をひそめて尋ねると、アレクサンテリはたのしげに紺青こんじょうの瞳をすうぅっと細めた。


皇宮こうぐうにはね、皇宮でだけ働いて、そのまま柱の染みにでもなっちゃうんじゃないかと思うくらい、ながーく働いている、ヌシみたいな女官やら侍従がいてね。そういう奴らは、皇紀にもらない裏事情を、ご丁寧にもうすーく、うすーく何十年もかけて噂として広めてくれるんだ」

「……なにを仰言おっしゃりたいんです?」

「ランヴァルト大公が先代皇帝であられる、僕の曽祖父・シェルスターゲ皇帝の末息子ということは知ってるよね?」

「それは、もちろん」


 大公ランヴァルトはシェルスターゲ前皇帝の末子で、今の皇帝よりも年下の叔父であることは誰もが知っている事実だ。その母であるマイア妃は女官として勤めていて、皇帝からの信頼も厚かったので、年は離れていても、二人がそういう仲になったことに驚く者はいなかった。


「じゃあ、僕のお祖父じい様であられる当時の皇太子シクステン殿下が、二十四歳の若さで亡くなったことも知ってるよね? 一応、病死ってことになってるけど、こんな話をするんだから、真相はもちろん違う。で、さっき僕は、神女姫みこひめがいつも神殿に籠もって、何をしてるかわからない、と言った。でもってその神殿中枢に行けるのは、皇家こうけの人間だけ。この二つが導く答えが何か……わかるゥ?」


 まるで歌い文句かのように、どこかおどけた調子で、アレクサンテリは問いかけてくる。うっすらとした口元の微笑とは対照的に、紺青の瞳はガラス玉のように無機質で、何を考えているのかわからない。


 アドリアンは凝然として、アレクサンテリを見つめた。膝の上に置いた拳が震える。自分の脳が勝手に推理して、答えを導くことに、うんざりした。

 アレクサンテリの持って回った話を理解できないくらい、馬鹿だったら良かったのに……。

 こんな話はもっと大人になってから聞きたかった。

 しかも今、イェドチェリカに会ったばかりだから余計に生々しくて、それがアドリアンにはひどく腹立たしかった。まるでイェドチェリカもそうだと言わんばかりではないか。絶対にそんなことあり得るはずがないのに。


 アレクサンテリはそんなアドリアンの心を、更にザラザラした言葉で刺激してくる。


「あぁ。別にそれが真実かどうかなんてわからないよ。実際にシェルスターゲ皇帝の子かもしれない。だって、神殿に行けるのは皇太子だけじゃない。


 アドリアンはもう相槌も打てなかった。

 言いようのない気味悪さが背筋を這い上る。

 この国で最も清純とされる神女姫みこひめが、実の父や兄と許されぬ関係であった……なんて。

 そんなおぞましいことは、考えたくもない。


 だがアドリアンにとっては衝撃的な皇家のこのは、一部の上流貴族や長く皇宮に勤めている者であれば、誰もが一度は耳にしたことのある話であった。

 アドリアンにとって不幸だったのは、多感な青少年期にそうした話を聞いてしまったということだ。それはアレクサンテリも同様であったが、彼は良くも悪くも皇宮に暮らす人間であった。


「あぁ、心配しないで。僕はそういうの、まったく興味ないから。兄上も、姉上と仲は良かったけど、まぁ……なかったろうよ。父上は、姉上のことを嫌っておいでだからなぁ。ま、ともかく。姉上は、ないと思うよ。エヴァサリア様に比べたら、だしね。君も、そこはわかるでしょ?」


 アドリアンはひどく気分の悪い状態だったが、アレクサンテリの言葉にホッとした。当代神女姫みこひめの過去の行いがどうであったにしろ、自分にとって大切な人たち ――イェドチェリカ皇女と、前皇太子シェルヴェステル ―― が、そんな目で見られるのは我慢ならない。

 しかし胸をなでおろしたのも束の間、アレクサンテリは今度はアドリアン自身に関係する人について話し出す。


「ちなみについでに言うと、シクステン皇太子僕のおじいさまを斬ったのは、君の祖父のマルツェル公だよ。二人は親友だったというのにね。マルツェル公はエヴァサリア様の熱心な信奉者だったらしくて、シェルスターゲ皇帝大おじいさまそそのかされて、バッサリ誅殺ちゅうさつしたってさ。本当かどうかは知らないけど、その後に君のお祖父じいさん、なぜかサフェナの東北部をもらえたね。そう、そう。かのレーゲンブルト騎士団の本拠地。特に勲功くんこうもないのに」


 アドリアンは静かに深呼吸しながら、目を閉じた。とりあえずアレクサンテリの口が閉じるのを待つしかない。今は下手なことは何一つ言うべきではないのだ。「やめて下さい」と言えば、アレクサンテリはますます面白がって、皇宮のをあれやこれやと話し出すに違いない。


 実際、アレクサンテリは、普段こんなことを大っぴらに話せる相手もいないことから、まぁまぁ得意になっていた。同世代でこの話が理解できる上、重要性を十分に認識して、ちゃんと秘匿ひとくしてくれるであろう人間は少ない。というより、アドリアンくらいしか思い当たらなかったから、ここぞとばかりに口が止まらなかった。


「でもそのせいで、現皇帝ちちうえから、グレヴィリウスは目をつけられちゃったんだよなぁ。何と言っても、自分の父親を殺されたわけだから。お陰で現皇帝ちちうえの立場も一時は危うかったしね。今じゃすっかり政治中枢キエルバウザから遠のいちゃって。君の高祖父のベルンハルド公は『影の皇帝』とも呼ばれる大宰相だったのにねー。まぁ、またベルンハルド公みたいに、権力を持たれたら面倒っていうのもあるんだろうけど。そういえば皇宮では豺狼さいろうを冠して呼ばれる人間が二人いたな。一人はベルンハルド豺相サイショウ公。もう一人は豺狼の子……」


 舟はようやく桟橋さんばしについた。おそらく水夫はアレクサンテリの合図でつけるように指示されていたのだろう。

 舟から降りたアレクサンテリが、最後にとどめとばかりに刺してくる。


「だから、そういうことだよ。ランヴァルト大公が皇宮において、『貴畜キチク』って呼ばれる理由ワケは」


 アドリアンはようやくそこで、アレクサンテリがこんな話をしてきた理由がわかった。先程、アドリアンが大公のことを尊敬するような素振そぶりを見せたから、彼は早々にアドリアンから大公に対する尊崇そんすうを取り払いたかったのだ。


『貴畜』。『豺狼の子』。

 そんなふうに陰口を叩かれて、この皇宮の中で生きていたのだろうか、あの大公殿下は。自分にはどうしようもない、父母の無責任の罪咎つみとがを一身に受けて……。


 ギュッと拳を固く握りしめて、アドリアンは湖の方を見つめた。水面に浮かぶ睡蓮の花を見ながら、静かに告げる。


「……長く話しすぎましたね、殿下。いくら夏とはいえ、水の中にずっといては体も冷えます。のためにも、今後は舟でのお話は控えられたほうがよろしいでしょう」


 言うだけ言ってきびすを返すと、アドリアンはその場を去った。アレクサンテリが目配せすると、一人の従僕がアドリアンを促して園遊会の場へと案内する。


 アレクサンテリはフゥ、と息をついてから、クシャクシャと両手で頭を掻いた。

 水辺にしゃがみこむと、スーッと睡蓮の花が三つ寄ってくる。アレクサンテリは小石をつまむと、ポイと、それぞれの睡蓮の花の真ん中に投げ込んだ。花弁に隠されて見えないが、その睡蓮の真ん中には、なぜか穴が空いていた。


「もう、情けないったらないよ。こういうのって、隠密にやってこそじゃん? なにバレちゃってんの? 貴族の坊や相手にさぁ」


 言いながら、ポイポイとアレクサンテリは花の中に小石を放り込む。ゴボゴボと花の周囲に泡がいくつも浮かんだ。


「でも嬉しいことだよねー。あのグレヴィリウスの小公爵様に心配してもらえてさ。いいね。僕なんて、あんなに教えてあげたのに、まったく有難がってる節もないし。あーあ、これが兄上との人徳の差ってやつー?」


 ゴボボッ、と大量の泡とともに、ぷっかりと浮かんでくるのを待つこともなく、アレクサンテリは立ち上がって背を向けた。


「アレ、役に立ちそうもないよー」


 早足に歩きながら、誰にともなく言う。すぐに「御意」と静かな声が返ってきた。

 そのままアレクサンテリは少し口をとがらせ、ひどくつまらなそうな顔で去っていった。

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