第三百十三話 皇宮の噂話(2)
「『貴畜』って言葉、聞いたことある?」
「……キチク?」
「最も貴くて、最も忌むべき
「……どういうことです?」
アドリアンが眉をひそめて尋ねると、アレクサンテリは
「
「……なにを
「ランヴァルト大公が先代皇帝であられる、僕の曽祖父・シェルスターゲ皇帝の末息子ということは知ってるよね?」
「それは、もちろん」
大公ランヴァルトはシェルスターゲ前皇帝の末子で、今の皇帝よりも年下の叔父であることは誰もが知っている事実だ。その母であるマイア妃は女官として勤めていて、皇帝からの信頼も厚かったので、年は離れていても、二人がそういう仲になったことに驚く者はいなかった。
「じゃあ、僕のお
まるで歌い文句かのように、どこかおどけた調子で、アレクサンテリは問いかけてくる。うっすらとした口元の微笑とは対照的に、紺青の瞳はガラス玉のように無機質で、何を考えているのかわからない。
アドリアンは凝然として、アレクサンテリを見つめた。膝の上に置いた拳が震える。自分の脳が勝手に推理して、答えを導くことに、うんざりした。
アレクサンテリの持って回った話を理解できないくらい、馬鹿だったら良かったのに……。
こんな話はもっと大人になってから聞きたかった。
しかも今、イェドチェリカに会ったばかりだから余計に生々しくて、それがアドリアンにはひどく腹立たしかった。まるでイェドチェリカもそうだと言わんばかりではないか。絶対にそんなことあり得るはずがないのに。
アレクサンテリはそんなアドリアンの心を、更にザラザラした言葉で刺激してくる。
「あぁ。別にそれが真実かどうかなんてわからないよ。実際にシェルスターゲ皇帝の子かもしれない。だって、神殿に行けるのは皇太子だけじゃない。皇帝陛下だって、行けるんだから」
アドリアンはもう相槌も打てなかった。
言いようのない気味悪さが背筋を這い上る。
この国で最も清純とされる
そんなおぞましいことは、考えたくもない。
だがアドリアンにとっては衝撃的な皇家のこの噂話は、一部の上流貴族や長く皇宮に勤めている者であれば、誰もが一度は耳にしたことのある話であった。
アドリアンにとって不幸だったのは、多感な青少年期にそうした話を聞いてしまったということだ。それはアレクサンテリも同様であったが、彼は良くも悪くも皇宮に暮らす人間であった。
「あぁ、心配しないで。僕はそういうの、まったく興味ないから。兄上も、姉上と仲は良かったけど、まぁ……なかったろうよ。父上は、姉上のことを嫌っておいでだからなぁ。ま、ともかく。姉上は、そういうのはないと思うよ。エヴァサリア様に比べたら、まともだしね。君も、そこはわかるでしょ?」
アドリアンはひどく気分の悪い状態だったが、アレクサンテリの言葉にホッとした。当代
しかし胸をなでおろしたのも束の間、アレクサンテリは今度はアドリアン自身に関係する人について話し出す。
「ちなみについでに言うと、
アドリアンは静かに深呼吸しながら、目を閉じた。とりあえずアレクサンテリの口が閉じるのを待つしかない。今は下手なことは何一つ言うべきではないのだ。「やめて下さい」と言えば、アレクサンテリはますます面白がって、皇宮の噂話をあれやこれやと話し出すに違いない。
実際、アレクサンテリは、普段こんなことを大っぴらに話せる相手もいないことから、まぁまぁ得意になっていた。同世代でこの話が理解できる上、重要性を十分に認識して、ちゃんと
「でもそのせいで、
舟はようやく
舟から降りたアレクサンテリが、最後にとどめとばかりに刺してくる。
「だから、そういうことだよ。ランヴァルト大公が皇宮において、『
アドリアンはようやくそこで、アレクサンテリがこんな話をしてきた理由がわかった。先程、アドリアンが大公のことを尊敬するような
『貴畜』。『豺狼の子』。
そんなふうに陰口を叩かれて、この皇宮の中で生きていたのだろうか、あの大公殿下は。自分にはどうしようもない、父母の無責任の
ギュッと拳を固く握りしめて、アドリアンは湖の方を見つめた。水面に浮かぶ睡蓮の花を見ながら、静かに告げる。
「……長く話しすぎましたね、殿下。いくら夏とはいえ、水の中にずっといては体も冷えます。彼らのためにも、今後は舟でのお話は控えられたほうがよろしいでしょう」
言うだけ言って
アレクサンテリはフゥ、と息をついてから、クシャクシャと両手で頭を掻いた。
水辺にしゃがみこむと、スーッと睡蓮の花が三つ寄ってくる。アレクサンテリは小石をつまむと、ポイと、それぞれの睡蓮の花の真ん中に投げ込んだ。花弁に隠されて見えないが、その睡蓮の真ん中には、なぜか穴が空いていた。
「もう、情けないったらないよ。こういうのって、隠密にやってこそじゃん? なにバレちゃってんの? 貴族の坊や相手にさぁ」
言いながら、ポイポイとアレクサンテリは花の中に小石を放り込む。ゴボゴボと花の周囲に泡がいくつも浮かんだ。
「でも嬉しいことだよねー。あのグレヴィリウスの小公爵様に心配してもらえてさ。いいね。僕なんて、あんなに教えてあげたのに、まったく有難がってる節もないし。あーあ、これが兄上との人徳の差ってやつー?」
ゴボボッ、と大量の泡とともに、ぷっかりと浮かんでくるのを待つこともなく、アレクサンテリは立ち上がって背を向けた。
「アレ、役に立ちそうもないよー」
早足に歩きながら、誰にともなく言う。すぐに「御意」と静かな声が返ってきた。
そのままアレクサンテリは少し口をとがらせ、ひどくつまらなそうな顔で去っていった。
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