第三百十二話 皇宮の噂話(1)

 楽しい時間はあっという間に過ぎるというが、アドリアンは正直ものすごく長い時間が経ったようにも感じたし、小島の桟橋さんばしで手を振るイェドチェリカの姿が見えなくなった途端に、さっきまでのことが夢なんじゃないかとすら思った。


「おーい、小公爵」


 ボーッとなっているアドリアンに、アレクサンテリが声をかける。

 アドリアンは我に返ると、魂が抜けたようになった自分の姿をアレクサンテリに見られたことが、ひどくきまり悪く思えた。


「な、なんでしょうか?」


 あわてて取り繕って答えるアドリアンを、アレクサンテリは半笑いで見つめる。


「まったく、わかりやすすぎるよ、小公爵。君が姉上のことが好きだというのはわかったけどね、生憎あいにく神女姫みこひめ様は生涯独身で、身綺麗に過ごすっていうことになっているんでね」

「そ、そんなこと…当然でしょう! わかってます!!」

「どうだかねー。君もグレヴィリウス公爵の息子だからなー。お父君同様、好きになったら、どうなることだかねー?」


 父母のことに触れられて、アドリアンは急にムッと押し黙った。

 機嫌の悪くなったアドリアンを見て、アレクサンテリは薄ら笑むと、水面に浮かぶ花を見ながら話を続けた。


「当代の神女姫みこひめであられるエヴァサリア様も、お若い頃はそれはそれはお美しい方だったそうだよ。亜麻色の髪の麗しい乙女で、イェドチェリカ姉上のように黒髪じゃなかったから、十六歳までは普通に皇宮こうぐうに暮らしていて、貴族の若君連中は何としても自分に降嫁こうかしてもらおうと躍起やっきだったらしい。そのせいで決闘なんかもあったとか。それで曽祖父おおじい様が余計な争いの種にならぬように、って神女姫みこひめにしてしまったらしいけど……さぁて、それで本当に収まったんだか」


 なんとなく、アレクサンテリが嫌な方向に話を持っていこうとしている気がして、アドリアンは、顔をしかめたまま黙り込んだ。しかしアレクサンテリは組んだ足に肘をついて、顎を手に乗せながら、特に面白くもなさそうな顔で続ける。


「君も両親のことで色々と悩ましいようだけど、このシェルバリの家系もけっこう面倒な人が多くてねぇ」


 シェルバリ、というのは初代皇帝エドヴァルドの元の姓で、代々皇家に継がれた古い姓名だ。

(ちなみに『グランディフォリア』は四代目の皇帝が即位したときに、初代神女姫みこひめによって伝えられた、神よりたまわりし大いなる名とされている)

 そんな由緒ある名前を、まるで揶揄やゆするかのように口にするアレクサンテリに、アドリアンはそっと注意した。


「殿下。お立場をわきまえて下さい。ここは皇宮こうぐうの中です」

「わかってるよ。だから言う相手は選んでるんじゃないか。僕も、君を信頼しているんだよ、ア・ド・ル」


 ニンマリとアレクサンテリが笑うのを、アドリアンは仏頂面で見つめた。

 絶対に、ワザと言っている。

 「アドル」と。

 公爵家においてはオヅマ以外、誰も言うことのないアドリアンの愛称を。


 アレクサンテリはアドリアンが不機嫌になるのが、楽しいらしかった。嬉しそうに「フフ~ン」と鼻歌を歌いながら、ユラユラと体を揺らせて、わざとに小舟を不安定にさせる。それでも水夫は慣れたもので、上手にかいを動かして、なるべく波立たせないように舟を安定させた。

 アレクサンテリの体がようやく止まると、今度は口がせわしなく動き出す。


「君のお父上は突発的にあぁなったのかもしれないけど、皇家こうけの人間は昔っから、ちょっとばかり『愛情』ってやつのがおかしいことになっててねー。それこそ初代皇帝だって、名も残さなかった神女姫みこひめにこだわって、最後まで皇后を置かなかっただろ? あれから三百年近く経っても、呪いみたいに皇家の人間は、一人の人間を深く愛してしまうとおかしくなるんだ。

 僕の現皇帝ちちうえもそうさ。いまだに亡き兄上のことはもちろん、十年以上前に死んだセミア妃のことまで、いつまでも恋い慕っておいでさ。妃のお気に入りの宮殿は、死んだときのまま、鍵の壊れたドアさえそのままにしてあるというんだから。それでいて、一つの物も動かさずに掃除しろっていうんだ。前に気付かないだろうと思って、花瓶をちょいとずらして掃除した下女は、腕を切られて帝都から追い出されたってさ。なかなかだろ?」


 アレクサンテリは同意を求めてくるが、当然アドリアンは頷かなかった。


「………皇帝陛下のなさることですので、僕から申し上げることはございません」


 しかつめらしく返事すると、アレクサンテリはつまらなそうにため息をついた。


「ま、そういうことだから。神女姫みこひめにしたところで、皇家の人間に変わりない。エヴァサリア様も、同じ。だぁれも来ない神殿奥で、いったい誰と、何をしていたかなんて、だぁれも知らない」

「殿下!」


 さすがにアドリアンは強く非難した。

 たとえアレクサンテリが皇太子であろうと、いや皇太子であるならば、自分がまもるべき皇家の人々についてざまに言うなどもってのほかだ。そもそも彼のためにもならない。

 しかしアレクサンテリは、相変わらずニヤニヤと腕を組んで笑っていた。


「おお、怒ってる。怒ってる。いいね。これが、喧嘩ってやつ? 信頼ってこういうことだよね?」

「フザケたことを言ってないで、口を慎んでください。恐れ多くも国を守護するために、毎日祈ってくださっている神女姫様に向かって……」

「なーにを。さっき、姉上だって言ってたじゃないか。暇だって。あんな湖の上にぽつーんと浮かんだ神殿で祈ってようが、祈ってまいが、だぁれも知らないさ。口を慎むゥ? なーにを言ってるんだか。皇宮にはあいにく、人間しかいないよ。僕以外は」

「誰が……」


 アドリアンはいよいよ呆れかえり、ため息も隠さなかった。

 すると急にアレクサンテリはアドリアンの隣に腰掛けてきて、耳元で囁いた。

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