第三百十四話 不遇の姫君

 アドリアンはようやくアレクサンテリから解放されると、キャレが応急処置を受けているという医務所に向かったが、その途中で思わぬ人に呼び止められた。



「小公爵様。アドリアン小公爵様……」


 か細い、心もとなげな声で呼びかけられて、アドリアンは足を止めた。声のした方を見ると、一人の令嬢がヒョコ、ヒョコと、片足をひきずるようにして、懸命にこちらに向かって歩いてくる。

 灰色の髪を三つ編みにして上で纏め、銀の山茶花サザンカの花飾りをピンで留めただけの、簡素な結髪ゆいがみ。骨ばった細面の顔に、憂鬱そうな青鈍色あおにびいろの瞳。くすんだピンクの質素なドレスは、痩せぎすな体に合っておらず、なんだか顔色までも悪く見える。

 本当はアドリアンよりも多少年嵩としかさなだけのはずだが、いろいろとちぐはぐで、実際の年齢よりも十歳は老けて見えた。

 だが一般的にはただ歩いているだけのその動作は、彼女にとっては健常な人間が走っているのと同様であったのだろう。額に汗が浮かんでいるのに気付くと、アドリアンはやや足早に、その令嬢の方へと歩み寄った。


「お久しぶりにございます。イェドヴェリシア公女」


 頭を下げると、令嬢はハァハァと荒い息を整えながら、ぎこちなく笑った。


 大公家の公女、イェドヴェリシア・パウラ・シェルバリ・モンテルソン。

 大公家公女と言っても、ランヴァルトと親子としての血の繋がりはない。名前にも示すように、本当は先程会ったばかりの次代神女姫みこひめである、イェドチェリカの双子の妹である。

 本来であれば、第六皇女として皇宮こうぐうで暮らすはずであったが、彼女自身の左足が生来から畸形きけいであったこと、皇家こうけにおいて双子を不吉とする因習、その他にも誕生時に彼女を抱いた侍女が、その数日後に事故で亡くなったことまでも理由にされて、彼女は不吉な皇女おひめさまとされた。

 その後、そうした不吉な忌み子が双子の妹であっては、神女姫みこひめとなるイェドチェリカの神聖なる品格にきずがつくという理由で、二歳のときに大公家に養女として出されることになった。

 このときまで彼女は皇宮こうぐう内において、として扱われていた。しかし大公家ランヴァルトは引き取るにあたっての条件として、イェドヴェリシアを『皇女こうじょ』として認知することと、結婚までの生活保障費用を要求した。

 皮肉なことに、彼女はそこでようやく『第六皇女』となった。と同時に、皇籍を離脱した。

 これがもし、彼女を産んだ母であるシュディファリア妃が健在であるか、あるいはきさきの母国が、帝国に対して強い交渉力を持っていれば、イェドヴェリシアもまた皇女として育てられたであろう。だが、シュディファリア妃は出産後に死亡し、妃の母国もまた山間の小国に過ぎず、皇宮における彼女の後ろ盾はなかった。

 皇帝の親としての愛情は、当時皇太子であったシェルヴェステルにのみ注がれており、他の子供は、皇帝にとっては生きていれば利用する程度の駒に過ぎなかったのだ。


 ちなみに、皇帝はこれまでに十人の子供をなしたが、四人は幼くして夭折ようせつ。二人の皇女については、成人を待たずして他国の王族に嫁がせている。

 現在の皇太子であるアレクサンテリなどは、現皇后であるターニャ=エレストが産んだが、この皇后が息子を皇太子位につけるために、存命中のシェルヴェステル皇太子に対して様々な嫌がらせを行い、暗殺を画策したであろうことは、もはや帝都に住む平民までが知っていることだ。そのためか、現在に至るも皇帝と皇后の仲は険悪で、皇太子となったアレクサンテリに対しても、皇帝は未だに皇太子が拝受はいじゅするはずの皇太子宮に移ることを許していない。


 イェドヴェリシアはこうした皇宮における、水面下の政争せいそうとは無縁に育てられただけ、ある意味、幸せといえるのかもしれない。ただ大公家において、彼女が幸せに暮らしているのか……というと、そうでもないようだ。

 大公家からすれば、いきなり皇女の一人を下げ渡されて面倒を見ねばならず、しかも捨てられたも同然とはいえ、皇帝陛下の息女。適当に扱うわけにもいかない。

 こうして皇家からは追い出され、大公家からは厄介者扱いされるなかで、本来であれば、今この国で皇后の次に尊崇そんすうを集めるべき女性であるのに、彼女はいつも所在なげで、人目につかぬよう、地味に、静かに、卑屈に、縮こまっていた。


 彼女は長年、左足の不自由を理由にして、こうした皇家の行事に参加することもまれであったが、去年、シモンが疱瘡ほうそうの病で出られなかったために、仕方なく引っ張り出されたらしい。不自由な左足を引きずって、慣れない挨拶を交わし、口さがない令嬢たちからコソコソと陰口を叩かれていた。

 皇帝のお気に入りで、先般せんぱんとうとう侍従長となって、伯爵位まで得たソフォル伯爵の孫令嬢などは、彼女をあからさまに侮蔑ぶべつし、取り巻きを使って彼女をつまづかせたりした。

 もとより貴族令嬢・夫人の類が、綺麗に着飾った裏で、陰湿な行為を行うような人々であることは、アドリアンも叔母とその取り巻きたちから学んでいたので、驚きはしない。だが公女があまりに惨めったらしく打ち沈んでいる様子に、少しばかり苛立った。もしこれが、双子の姉であるイェドチェリカであれば、このようなことは許さないし、されたとしても堂々と抗議できるはずだ。双子であるというのに、イェドヴェリシアは姿形も含めて、イェドチェリカとはまるで似ていなかった。

 アドリアンは正義感というよりも、この少々愚鈍な公女のせいで、双子の姉であるイェドチェリカまでもがざまに言われるかもしれない、という危惧から彼女を助けた。知己ちきとなったのは、その時である。


「おいでになるとは存じませんでした。ご挨拶が遅れて、申し訳ございません」


 イェドヴェリシアの差し出してきた手をとり、貴婦人への挨拶をしながらアドリアンは意外に思っていた。

 去年はシモンの欠席で仕方なく出てきたようだが、今年はシモンが来ているのだから、彼女がわざわざ出てくる必要もなさそうなものなのに。

 イェドヴェリシアは相変わらず、どこか気弱な笑みを浮かべた。


「いえ。ずっと……別室におりましたので。お気になさらず」

「何か御用でしたでしょうか?」

「あ……いえ、あの……シモン公子様が、あなたに失礼なことをしたと聞いて……申し訳ございません」


 アドリアンはかすかに眉を寄せた。


「シモン公子の非礼を詫びに、わざわざ……?」

「あ、はい。本当に失礼をいたしました。大公殿下も十分に叱っておられましたが、わたくしからも小公爵様に一言、お詫び申し上げたくて」


 アドリアンは以前にも感じた苛立ちを、また再燃させた。いや、今回はさっきアレクサンテリから聞いた、極めて不愉快な風聞もあってか、尚の事、腹が立った。


「どうして公女様が、シモン公子の非礼を詫びねばならないのですか? それに公子はあなたよりも年下で、本来のあなたのご身分を考えれば、比べ物にすらなりません。公子などと、自分の弟に向かって敬称で呼ぶ必要なんて、ないと思います」


 イェドヴェリシアはいつになく強い口調で言うアドリアンに、少々戸惑ったようだった。落ち着きなく目線を泳がしてから、またいつものように、悲しげにうつむく。


わたくしなど……皇宮ここでも、ガルデンティア(*大公家居城)でも、あってなきが如き存在です……」

「あなたが、そうお思いになるのはご自由ですが、皇宮ここに来られるのであれば、せめて虚勢でも胸を張って振る舞うべきです。皇宮ここには、あなたの姉であるイェドチェリカ皇女殿下もいらっしゃるのですから」


 イェドチェリカの名前が出た途端に、イェドヴェリシアははじかれたように頭を上げた。

 青鈍色の瞳が、穴があきそうな程に強くアドリアンを見つめる。先程までの気弱そうな表情が一変して、青ざめた顔には驚愕と困惑と、今しも噴きこぼれそうな怒りが集積していた。

 ギュッと、それだけが頼りであるかのように握りしめた扇子せんすが、ミシミシと音をたてる。


「姉は……皇女殿下のことは……関係ないでしょう」


 様々な感情を押しこめた声は低く、まるで瞬時に悪霊が乗り移ったかのように、ドス黒く響いた。

 アドリアンはイェドヴェリシアの急変に驚きながらも、我に返って気付いた。自分がイェドヴェリシアに八つ当たりしていることに。アレクサンテリの話はやはり衝撃が強すぎて、知らず知らず引きずっていたようだ。


「……申し訳ございません。少し、言い過ぎました」


 慌てて頭を下げたが、イェドヴェリシアは暗澹あんたんとした表情で、アドリアンを見つめたあとに、黙したままその場を立ち去った。

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