第三百九話 小舟の上にて
そうして連れて行かれて、
「頼みますから、どこに向かうのかぐらい教えてください」
「ちょっと離れた
パルスナ最大の湖であるヤーヴェ湖畔に立つ
小舟に揺られて目的の島に向かっている間、アドリアンは目の前の皇太子を恨めし気に見つめていた。アレクサンテリの突拍子もない行動はいつものことながら、慣れない。しかも
「……なぜ、大公殿下を連れてこられたんですか?」
「うん?」
「従僕でも、騎士でも、いくらでも仲裁に入ることはできましたよね?」
「やれやれ。アドリアン。君は時々、自分が何者であるのかを忘れるね。大公家の公子と、建国以来の名家であるグレヴィリウス公爵家の嫡嗣が言い争いをしていて、そこらの騎士が止めに入ることなんてできないよ。それこそ取っ組み合いの喧嘩でもしていれば別だけどね」
「……すみません」
「いやぁ、僕としてはあの
「また、そのような……失礼ですよ」
「だって、あのバカシモンのために大公が頭下げるとは思わなかったんだもの。てっきり、その場で鉄拳制裁かと思ったんだよねぇ。案外、大公もあれで親らしい情なんてあるんだろうか?」
「……十分におありだと思いますよ」
アドリアンは答えながら、父親の姿を思い浮かべた。父は大公のように息子に教え諭すようなことはしないだろう。一昨年もそうだった。ただ無表情に打ち据えて、処罰を与えるだけ。しかもそれはアドリアンの為ではなく、グレヴィリウス家の名誉の為だ……。
沈んだ顔になるアドリアンを見て、アレクサンテリがフフンと笑って問いかけた。
「羨ましい? シモンが」
「……別に…」
アドリアンは言葉少なに答えてから、それ以上アレクサンテリにこのことについて問われる前に、反対に尋ねた。
「それより、どうして皇太子殿下が僕の近侍について、ご存知なのですか?」
「うん? 近侍? そりゃあ、そういう情報網を持ってるからさ。ついでにさっきシモンについていた近侍の名前も教えようか? リアンとタヴィト、チェスラフ、あと今日は来てなかったけど、ルミールっていうのと、一番気になるのはシューホーヤの特徴を持った奴だろう? どうやら混血児のようだけどね。あいつはね、えーと…面倒くさい名前だったな。ファル=ヴァ=ルフ、だったかな?
早口に言って、アレクサンテリは
「一昨年の君とのことで、そのときの近侍は役に立たないって、総取っ替えされたみたいだよ。ファルは元は貴族の子弟じゃない。確か、家臣の誰かの養子になったんじゃなかったかな? あぁ、そういえば君のとこにも似たようなのがいるね」
問われてもアドリアンは答えたくなかった。なんとなくアレクサンテリには、オヅマのことを知られたくなかった。それにこの様子では、どうせオヅマの名前も、今年帝都に来ていない理由も知っているのだろう。案の定、アレクサンテリは大きく肩をすくめて、ペラペラとまた喋りだす。
「やれやれ。よっぽどその近侍はお気に入りらしいね。まぁ、わからないじゃあないよ。あのヴァルナル・クランツが目をかけて、息子にまでしたくらいだ。あぁ、でも母親が美人なんだったっけ? それでうまいことクランツ男爵をけしかけて、結婚にまで漕ぎつけさせて、将来有望株の騎士見習いをまんまと息子にできた…ってわけだ。さすがは結婚と離婚を三度も繰り返すだけあるね、グレヴィリウスの真の策士殿は」
アドリアンはアレクサンテリの言葉が途切れるのを待って、フゥと息を吐いた。静かに警告する。
「……皇太子殿下、知り得たことを知ったと
アレクサンテリはしばしアドリアンを見つめたあとに、ニッコリ笑った。
「やぁやぁ、まったく。小公爵殿ときたら、随分と大人びたことを
「……殿下と同じ年ですが?」
「やだな~。聡明謙虚な小公爵殿なんかに比べたら、僕なんてまだまだお子様ですよ。くちさがない、おしゃべりのおバカさんでよろしいのです」
いかにも子供っぽい口調で言いながら、アレクサンテリの
アドリアンはこれ以上アレクサンテリの
ヤーヴェ湖自体が、皇宮の庭の一つのようなものであるため、人工的に岩を組み、池のようにして種々の水生植物が植えられている。遠くの入江の方には、水に浮かんでいるかのように群生した木々の林なども見えた。
アドリアンはしばらく水面を無表情に眺めていた。水夫の
時間の流れがひどく緩やかに感じられて、軽く咳ばらいしたときに、アレクサンテリが
「おおーいッ、姉上ーっ」
「姉上?」
アドリアンは怪訝にアレクサンテリを見てから、同じように舷から少しだけ体を傾ける。
「あ……」
アドリアンは驚いて固まった。
小島にある小さな
アドリアンと似て非なる漆黒の髪、星月夜をそのまま写し取ったかのような神秘の瞳。
「イェドチェリカ様……」
つぶやくようにその名を呼ぶと、長く伸びた黒髪が風になびき、夜の瞳が細く笑った。
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