第三百九話 小舟の上にて

 そうして連れて行かれて、うながされるままに小舟に乗ってから、アドリアンは嘆息して尋ねた。


「頼みますから、どこに向かうのかぐらい教えてください」

「ちょっと離れた四阿あずまやだよ。小島の中にある」


 パルスナ最大の湖であるヤーヴェ湖畔に立つ皇宮こうぐうは、平地部分と複雑な湖の入江を利用して建てられている。ヤーヴェ湖には大小合わせて百以上の島があり、中には本当に小さな庭だけが作られた島もあった。当然ながら安全上の問題から、この風光明媚な土地はヤーヴェ湖も含めて皇家こうけが所有しており、無数の島には各所に警備の騎士が配されている。


 小舟に揺られて目的の島に向かっている間、アドリアンは目の前の皇太子を恨めし気に見つめていた。アレクサンテリの突拍子もない行動はいつものことながら、慣れない。しかもさきの皇太子が亡くなって、新たな皇太子となって以降は拍車がかかった気がする。単純にその日の気分ですることもあれば、さっきみたいに妙に用意周到に整えていることもある。


「……なぜ、大公殿下を連れてこられたんですか?」

「うん?」

「従僕でも、騎士でも、いくらでも仲裁に入ることはできましたよね?」

「やれやれ。アドリアン。君は時々、自分が何者であるのかを忘れるね。大公家の公子と、建国以来の名家であるグレヴィリウス公爵家の嫡嗣が言い争いをしていて、そこらの騎士が止めに入ることなんてできないよ。それこそ取っ組み合いの喧嘩でもしていれば別だけどね」

「……すみません」

「いやぁ、僕としてはあの大公おおおじがヘコヘコ頭を下げるなんて、至極痛快だった。頼んだ甲斐があったよ」

「また、そのような……失礼ですよ」

「だって、あのバカシモンのために大公が頭下げるとは思わなかったんだもの。てっきり、その場で鉄拳制裁かと思ったんだよねぇ。案外、大公もあれで親らしい情なんてあるんだろうか?」

「……十分におありだと思いますよ」


 アドリアンは答えながら、父親の姿を思い浮かべた。父は大公のように息子に教え諭すようなことはしないだろう。一昨年もそうだった。ただ無表情に打ち据えて、処罰を与えるだけ。しかもそれはアドリアンの為ではなく、グレヴィリウス家の名誉の為だ……。

 沈んだ顔になるアドリアンを見て、アレクサンテリがフフンと笑って問いかけた。


「羨ましい? シモンが」

「……別に…」


 アドリアンは言葉少なに答えてから、それ以上アレクサンテリにこのことについて問われる前に、反対に尋ねた。


「それより、どうして皇太子殿下が僕の近侍について、ご存知なのですか?」

「うん? 近侍? そりゃあ、そういう情報網を持ってるからさ。ついでにさっきシモンについていた近侍の名前も教えようか? リアンとタヴィト、チェスラフ、あと今日は来てなかったけど、ルミールっていうのと、一番気になるのはシューホーヤの特徴を持った奴だろう? どうやら混血児のようだけどね。あいつはね、えーと…面倒くさい名前だったな。ファル=ヴァ=ルフ、だったかな? 西方あっちの名前はどうにも読みづらいや。普段はファルって呼ばれてるみたいだよ」


 早口に言って、アレクサンテリは肝心要かんじんかなめのことについては、詳細を話さない。こういう抜け目ないところも含めて、信用ならないのだ。


「一昨年の君とのことで、そのときの近侍は役に立たないって、総取っ替えされたみたいだよ。ファルは元は貴族の子弟じゃない。確か、家臣の誰かの養子になったんじゃなかったかな? あぁ、そういえば君のとこにも似たようなのがいるね」


 問われてもアドリアンは答えたくなかった。なんとなくアレクサンテリには、オヅマのことを知られたくなかった。それにこの様子では、どうせオヅマの名前も、今年帝都に来ていない理由も知っているのだろう。案の定、アレクサンテリは大きく肩をすくめて、ペラペラとまた喋りだす。


「やれやれ。よっぽどその近侍はお気に入りらしいね。まぁ、わからないじゃあないよ。あのヴァルナル・クランツが目をかけて、息子にまでしたくらいだ。あぁ、でも母親が美人なんだったっけ? それでうまいことクランツ男爵をけしかけて、結婚にまで漕ぎつけさせて、将来有望株の騎士見習いをまんまと息子にできた…ってわけだ。さすがは結婚と離婚を三度も繰り返すだけあるね、グレヴィリウスの策士殿は」


 アドリアンはアレクサンテリの言葉が途切れるのを待って、フゥと息を吐いた。静かに警告する。


「……皇太子殿下、知り得たことを知ったと仰言おっしゃるなら、それもまた一つの指標しるべとなりますよ」


 アレクサンテリはしばしアドリアンを見つめたあとに、ニッコリ笑った。


「やぁやぁ、まったく。小公爵殿ときたら、随分と大人びたことを仰言おっしゃいますね!」

「……殿下と同じ年ですが?」

「やだな~。聡明謙虚な小公爵殿なんかに比べたら、僕なんてまだまだお子様ですよ。くちさがない、おしゃべりのおバカさんでよろしいのです」


 いかにも子供っぽい口調で言いながら、アレクサンテリの紺青プルシアンブルーの瞳は無表情で、何を考えているのかわからない。昔からそうだった。色濃いその瞳は、一見小動物的な愛らしさもあるが、瞳孔とその周囲の区別がつかず、まるで塗り潰されたようで、目から彼の意図を読み解くのは困難だ。

 アドリアンはこれ以上アレクサンテリの韜晦とうかいにつき合うのも疲れてきて、水面に咲く色とりどりの睡蓮を眺めた。

 ヤーヴェ湖自体が、皇宮の庭の一つのようなものであるため、人工的に岩を組み、池のようにして種々の水生植物が植えられている。遠くの入江の方には、水に浮かんでいるかのように群生した木々の林なども見えた。

 アドリアンはしばらく水面を無表情に眺めていた。水夫のかいがゆっくりと水を掻き、舟に押されて花が揺れ、葉が揺れる。パシャリと小さな魚が跳ねて、キラキラと飛沫が昼の日差しの中できらめいた。

 時間の流れがひどく緩やかに感じられて、軽く咳ばらいしたときに、アレクサンテリがふなべりから身を乗り出して、大きく手を振りながら叫んだ。


「おおーいッ、姉上ーっ」

「姉上?」


 アドリアンは怪訝にアレクサンテリを見てから、同じように舷から少しだけ体を傾ける。


「あ……」


 アドリアンは驚いて固まった。

 小島にある小さな四阿あずまやから、小柄な女性が手を振っていた。

 アドリアンと似て非なる漆黒の髪、星月夜をそのまま写し取ったかのような神秘の瞳。


「イェドチェリカ様……」


 つぶやくようにその名を呼ぶと、長く伸びた黒髪が風になびき、夜の瞳が細く笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る