第三百十話 神女姫となる皇女(1)
走って近づこうとして、途中で突き出た岩に足を取られ、待っていた人の手前にぶざまに膝をつく。
「まぁ、アドリアン。そそっかしいことね」
美しい声が降ってきて、そっとアドリアンの手を取った。
フワリ、と甘い香りが漂ってくる。
「
アドリアンがつぶやくと、目の前の女性がニコリと笑う。両端を上げた唇に、
「まったく。姉上を見た途端に
あきれたようにアレクサンテリが言ってくる。アドリアンは自分に添えられた手に気付き、あわてて手を離した。
「す、すみませんっ!
あわてて立ち上がる。すると皇女・イェドチェリカは目を丸くしてアドリアンを見つめた。
「まぁ……アドリアン。
「あ、それは……はい」
アドリアンは、イェドチェリカに成長した自分の姿を見られるのが、少しだけ恥ずかしかった。背をやや丸くして、赤くなってうつむいていると、フフとイェドチェリカは笑って、アドリアンの手を再び取った。
「さぁ。こちらにいらっしゃい。この暑さの中、舟になんか乗ったから、顔が赤いわよ。
手を握られてアドリアンがドギマギと挙動不審になるのもお構いなく、イェドチェリカは
「おぉぉ、さすがは次代の
アレクサンテリは
「相変わらず、甘ったるいものが好きねぇ、アレクは」
あきれたように言う、柔らかな声音が懐かしい。アドリアンが聞き入っていると、イェドチェリカが振り返った。
「風は少し涼しくなってきたかしら……ね、アドリアン?」
「……は、はい」
「フフ……声も少しだけ変わったわね」
「え……あ、そう……でしょうか?」
「えぇ、そうよ。変わったのはわかるけど、
その婉麗な微笑を、アドリアンはボーっと見ていたが、それが強い日差しのせいでのぼせているのか、久しぶりに会ったその
湖の上を渡ってきた冷たい風に、イェドチェリカの真っ直ぐに伸びた
皇帝の第五皇女であるイェドチェリカ・シェルバリ・グランディフォリア。
当年十七歳になる彼女は、ヤーヴェ湖を隔てた西南の小国からやってきた王女を母として生まれたが、王女はイェドチェリカらを産んだときに亡くなった。
イェドチェリカはその黒髪と、黒き瞳 ―― 月映し綺羅星
特にアレクサンテリなどは、色濃い
無論、皇后
というのも、そもそも黒髪を持つ一族は、徹底的に排除されたからだ。
(アドリアンやエリアス公爵もまた黒に近い髪ではあるが、厳密には暗い橙味を帯びた
黒髪 ――― 特にイェドチェリカのような純黒の髪は、ホーキ=シェン神聖帝国において
神聖帝国を征服する過程で、エドヴァルドは彼らを徹底的に駆逐・
『神聖帝国の貴人は根絶やしにする』。
それはパルスナ帝国創建時からの
だが、皆殺しにされた貴人の中で、唯一生存を許された者がいる。
その唯一人こそが、初代皇帝エドヴァルドの伝説の妻にして、宝冠なき皇后 ―― いわゆる『名もなき
彼女の黒髪は子である二代目皇帝ヴェルトリスには引き継がれず、その次代を経て彼女にとって
――――
以来、
黒髪の女児が生まれぬ場合においても、帝国の安寧を祈る立場である
そんなわけでイェドチェリカは、生まれた翌日には
ちなみに現在の
だからアドリアンは、今日、
元々、アドリアンとイェドチェリカを会わせてくれたのは、先代の皇太子であったシェルヴェステルだった。彼が亡くなって以来、イェドチェリカとアドリアンを繋ぐ縁は途絶えてしまい、昨年も一昨年も、シェルヴェステルが
そうしてずっと気にかけていたからだろう。アレクサンテリとの謁見の場で、当代の
「あの……イェドチェリカ様は、お元気でいらっしゃいますか?」
会うことは諦めていたが、せめて消息なりと知りたかったのだ。
その言葉を聞いたときのアレクサンテリの反応は、特に変わらなかった。
「元気だよ」といつもの調子で軽く答えつつ、こっそりシュルハーナの神殿にいるイェドチェリカに、鳩でも飛ばしたのだろう。
アドリアンはチラリとアレクサンテリを
アドリアンは軽くため息をつくと、イェドチェリカに尋ねた。
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