第二百八十九話 ハヴェルとリーディエ(2)
「さっきも言ったけれど、ハヴェル様とリーディエ様は血の繋がりはなくとも、本当の親子のように仲良くていらしたの。リーディエ様が小公爵様を妊娠されて、ハヴェル様との養子縁組は解消となったけれど、お二人はずっとお変わりなくお過ごしで、ハヴェル様も小公爵様の誕生を一緒に心待ちにしておられたのよ。リーディエ様にも『兄として可愛がってあげてね』と言われて…」
オヅマは聞きながらあきれた。ブラジェナも、ブラジェナから聞く公爵夫人も、ドレスと宝石のことしか話さない女に比べると頭はいいようだが、少なくとも人を見る目は曇っているんじゃなかろうか?
ブラジェナは冷淡に話を聞き流すオヅマに、ゆっくりと首を振りながら、またため息をついた。
「誤解があるのよ。きっと。そう…そういえば、弓試合のときにはアルビン・シャノルもいたようね」
「アルビン・シャノル?」
「いつもハヴェル様について回ってる、おなかを壊した猫の
「………」
オヅマはハヴェルのそばに付き従っていた小太りの、嫌味な笑顔を浮かべていた男の姿を思い出したが、それよりもブラジェナの説明があまりにも悪意に満ちているので、思わず押し黙ってしまった。
オヅマの沈黙を肯定と捉えたのか、ブラジェナはハヴェルへの情愛を滲ませた態度から一変して、いかにも憎々しげに話した。
「あの男、ハヴェル様が公爵家にいた頃から、何かとついて回って、しつこかったの。ハヴェル様の乳母の子だかなんだか知らないけど、やたらと頻繁に訪ねてきていたわ。リーディエ様はハヴェル様の友人だとお認めになって、優しく接しておられたけど、私はわかってたの。当時は子供だったけど、あの頃から狡猾だったのよ。サコロッシュの女狐の命を受けて、時々、探りに来ていたのよ。それだけじゃない。わざわざハヴェル様に釘を刺していたの。『リーディエ様のことを信用してはいけない』…ってね」
ブラジェナは今でも覚えている。広い公爵邸の庭の、隅にある
「母上が…お母様……公爵夫人を信じてはいけないって…」
アルビンは必ず口頭で、ハヴェルと二人だけでいるときに、侯爵夫人からの伝言を伝えた。くれぐれも実母である侯爵夫人への恩を忘れることのないように、リーディエの愛情を信じてはいけない…と。
「僕は、どうしたらいいんだろう? お母様のことは大好きだけど、信じてはいけないの?」
二人の母親の間で、いつも揺れ動き、惑い、苦しんでいた小さなハヴェル。
ブラジェナはそれからはハヴェルとアルビンを二人きりにさせないように、わざと気の利かない侍女のフリをして、アルビンの余計な口を封じてやった。
アルビンはこのときのことを覚えていたのだろう。
ブルッキネン伯爵家への謹慎が解けて、帝都での公爵家の夜会に久々に出席したとき、ブラジェナはハヴェルに挨拶しようと思って行ったものの、アルビンが立ち塞がった。
「失礼ですが、伯爵夫人。いかに旧知の間柄とは申せ、ハヴェル様に親しげに声をかけられては、こちらも困るのです。今は一応、許されたとはいえ、またいつ公爵閣下のお怒りに触れるやもしれぬ伯爵夫人と迂闊に話して、こちらにまで累が及んではたまりません。故・公爵夫人の腹心であられた伯爵夫人であれば、まさかハヴェル様に迷惑をかけるようなことを良しとはされませんよね?」
ブラジェナはその時のことを思い出し、拳を握りしめた。
そうまで言われては、脛に傷持つブラジェナとしては引き下がるしかなかった。自分のせいで、ハヴェルまでが不利益を蒙るようなことがあってはならない。
「シャノル家なんて、貴族としては末端も末端だから、どうにかハヴェル様の歓心を買って、のし上がろうと必死なのよ。今も小公爵様との対立を煽って、ハヴェル様を継嗣にしようと画策しているのだわ。女狐と一緒に」
「女狐ねぇ…」
オヅマがややあきれたようにつぶやくと、当人があわてた。
「あっ! あら、ごめんなさい。言っちゃってたかしら?」
「言ってました。サコロッシュの女狐……ってのは、グルンデン侯爵夫人のことですか? アドルの叔母さんの」
「えぇ……そう」
ブラジェナは少しだけ気まずそうにしつつも、否定はしない。それどころか
「きっと、ハヴェル様もグルンデン侯爵家に戻られてから、あの女に色々と言われたのだと思うわ。なにせあの女、なにかと嫌味で鬱陶しいことばかり言ってきてたから……。フン! リーディエ様が公爵夫人になられる前には、自分がまるでグレヴィリウスの女主人であるかのように振る舞っていたのが、ぜーんぶリーディエ様に取られたもんだから、逆恨みしてるのよ。当たり前よね。年がら年中、ドレスやら宝石やら、皺伸ばしのクリームのことしか話してないような人間に比べたら、リーディエ様のほうが見目麗しい上に、知識も豊富で、おしゃべりも楽しいから、皆夢中になってしまうのよ! あの皇帝陛下のご愛寵深かったセミア妃だって、リーディエ様のことを『お姉様』とお呼びになって、それはそれは仲睦まじくお過ごしでいらしたのだから。それに
話している間に様々なことを思い出すのか、ブラジェナは早口でまくしたてる。どうもリーディエの話になると、侍女時代に戻ってしまうらしい。口調も声の高さも、日頃の
オヅマはそれ以上、ブラジェナのリーディエ自慢を聞くのも疲れてきて、無理やりに話を遮った。
「つまり、そのグルンデン侯爵夫人っていうのが、女狐で、ハヴェル公子の本当の母親で、アルビンっていう腹を壊した猫の糞みたいな頭の奴を駒にして、公爵家を乗っ取ろうとしてるってわけですね?」
ブラジェナは急に話を遮られたので、ポカンとしていたが、オヅマの言葉にハッと我に返ったようだ。
「オヅマ、
うめくように言って、ブラジェナは額を押さえた。
オヅマは肩をすくめて、ライム水を飲んだ。
まったく、誰が言っているのだろうか? その言葉をそのままお返ししたい。
ブラジェナは軽く咳払いすると、取り澄ました顔に戻り、再び話をハヴェルに戻した。
「ハヴェル様にも色々としがらみや、背負うものがおありなのでしょう。アルビンや侯爵夫人にしつこく言われて、表立って堂々と動けないのかもしれない。でもね、今でもリーディエ様の命日には、私宛にお手紙とお花を届けてくださるのよ。一緒に故人を
オヅマは文字通り、苦虫を噛み潰すしかなかった。あの男がアドリアンを弟として見てるとはとても思えない。
あの目。
明らかにアドリアンを苦しめ、痛めつけようとしているあの目。
あれは心の底に恨みと憎しみを抱えた人間の目だ。……
だが押し黙るオヅマに、ブラジェナは熱心に訴えてくる。
「オヅマ、お願いよ。もし、ハヴェル様が小公爵様のために、協力を申し出てくることがあれば、そのときは信じてあげてほしいの。きっと彼は小公爵様の力となってくれるはずよ……」
「わかりました。一応、覚えておきます」
そんなことは有り得ない、と断定したからこそ、オヅマは頷くことができた。どうせ有り得ないのだから、嘘をついても、嘘ともならないだろう。
ブラジェナはオヅマの本心を知ることもなく、ホッとした笑みを浮かべた。
「時間はかかっても、リーディエ様の望む形になればきっと…小公爵様もハヴェル様も幸せになれるわ」
ブラジェナのリーディエへの信頼は、盲目的と言ってよかった。
オヅマはそのことが少しだけ気に障った。ブラジェナは善意の人間だ。けれど彼女のその真っ直ぐな思いやりが、オヅマを不安にさせ、苛立たせ、救いのない暗澹とした気分にさせる。
ただ一人を強烈に尊崇する人間は、たいがい足元を掬われるのだ。……
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