第二百八十七話 ブラジェナの話(3)

 息子であるマティアスを近侍にと、ルンビックからの打診を受けたときには、ブラジェナは驚いた。近侍の選定については老家令ら、公爵の補佐官が行うにしても、最終的に許可を出すのは公爵当人である。つまりこれはエリアスがブラジェナのことを許した、ということを意味していた。それが見当違いでないというのは、ルンビックが別に寄越した私信によって、この選定において公爵がまず決めたのが、マティアスであったと記してあったからだ。

 ただ近侍として決定した旨の書面には、アドリアンにブラジェナがリーディエの侍女であったこと、ひいてはリーディエに関することを一切話さないことが、再度下知されていた。


 ブラジェナはエリアスの歪んだ悲しみを感じた。

 本来であれば、最もアドリアンが知りたいであろう、亡くなった母親のことを教えない。そのことを知っている人間をなるべく遠ざけ、あるいは口止めすることで、アドリアンに母親への愛情を持つことすら禁じる。

 これこそエリアスがアドリアンに行っている、もっとも冷たいだった。


 きっとエリアスに近しい者であるほどに、何も言えなかったのだろう。

 ルーカスにしろ、ヴァルナルにしろ、あまりに愛しすぎた奥方を亡くしたエリアスの、絶望と虚無を理解できてしまうから。



 けれど、今、ブラジェナの目の前にいる少年は違う。

 彼にとってリーディエは既に失われた人であり、アドリアンこそが護られるべき存在なのだった。当然のことだ。そもそもこの状態をリーディエが喜ぶはずがない。


貴方あなたの言う通りよ」


 ブラジェナは静かに認めた。それからじっとオヅマを見上げる。眼鏡の奥の薄茶色の瞳は、静かにオヅマの怒りを受け入れていた。


 オヅマはともかく言いたいことを言ったので、ハァと息を吐いて椅子に腰かけた。それでもイライラして、残っていた不味まずい茶を一気にあおる。苦虫を噛み潰したような顔で、ガシャンとソーサにカップを置くと、ブラジェナの侍女が澄ました顔で、またカップに茶を注ぐ。


「小公爵様には何らの罪もない。ただ、公爵閣下を始めとする私達が、あまりにもリーディエ様と、リーディエ様を愛してやまない公爵閣下のお姿を知っているから、その思い出を大事にするあまりに、小公爵様をないがしろにしてきたのよ」

「…なんでだよ…」


 オヅマはカップから立ち昇る湯気を睨み、つぶやいた。


「アドルは周りの大人がそんなでも、一度も文句なんて言ったことないんだぞ。なんだったら、自分が悪いんだとか思ってやがる。なんで自分の子供にそんなふうに思わせるんだよ。アドルは生まれてきただけだろ? 自分の息子なのに、なんで…」


 ――――― 愛してやれない?


 言いようのない苛立ちと困惑の中で、その問いはオヅマの硬く握りしめた拳に閉じ込められた。


 ふと、オヅマの脳裏に死んだコスタスのことが浮かんだ。

 コスタスは一度もオヅマを愛したことなどないだろう。それは当然で、自分の息子でないから。その上、ミーナがオヅマの父親をいまだに忘れていないことを知っていたから、見たこともない男への嫉妬がすべてオヅマに向かったのだろう。コスタスからの仕打ちを許す気はないが、彼がオヅマを嫌う理由は納得できた。


 けれど、アドリアンは違う。今の話を聞いて、何一つとして納得できることなどない。


 ブラジェナは途切れた先の、オヅマの言葉がわかったようだった。痛ましげに、悲しく告げる。


「公爵閣下は『愛を知らない人』だったの」


 遠くを見つめるブラジェナには、エリアスの暗い顔が脳裏に浮かんでいた。



 ―――― あの子を…どうやって愛するかなどわからない。リーディエがいれば、教えてくれたろうが…私だけでは、子供の愛し方などわからない……



 かつて、ブラジェナがアドリアンを見ようともしないエリアスに詰め寄ったとき、彼は言った。ひどく困り果てた、本当に途方に暮れた顔で。


 そのときにはまだ、ブラジェナはエリアスという人間を理解していなかった。だからこそ、しつこくエリアスに食い下がってしまい、最終的に伯爵家ごと禁足を命じられてしまったのだ。


 けれど時間はエリアスだけでなく、ブラジェナにも必要であったのかもしれない。

 謹慎している間、ブラジェナはリーディエとの思い出を偲ぶ中で、思い至ったのだ。



 ――――― 彼は、愛することを知らなかったの…



 昔、リーディエが言っていた……。

 言われたときには、ブラジェナはあまり意味を考えることもなかった。リーディエが言うのであれば、そうなんだろう……と思っただけだ。

 けれど、その言葉こそが、エリアスにとってリーディエの存在が、どういうものであったのかを知らしめていた。

 なぜ彼があれほどまでにリーディエを溺愛し、尊敬し、なんであれば崇拝し、執拗なほどに固執したのか。


 エリアスは幼い頃から公爵家内で幽霊のように育った。

 実母を失い、伯母である先代公爵夫人に引き取られたものの、待っていたのは無視と、公爵家継嗣としての厳しい教育だった。

 誰に愛されることもなかった子供は、誰を愛することもなく、愛し方も知らなかった。リーディエだけが、彼に愛を教えた。


 美男で堂々とした見た目とは裏腹に、エリアスの中身は幼い子供と変わりなかったのだ。

 かつてブラジェナがエリアスに親としての愛情を持つことを迫ったとき、彼は本当にのだ。どうやってを愛すべきなのかを。ましてその息子が、自分の最愛の妻の命を奪って生まれてきたと思えば余計に、どうすればよいのかわからず、拒むしかなかった……。


 ブラジェナは胸の痛みを和らげるために、長く吐息した。


「オヅマ。貴方の言うことはもっともだし、間違いではないわ。でも公爵家において、公爵閣下のご不興をかえば、近侍から外されることもあるかもしれない。そうなれば一番困るのはアドリアン小公爵様よ。そのことをわかったうえで、行動なさい」


 ブラジェナは自らの経験から、オヅマにそう忠告した。


 オヅマはようやくこの数カ月間考えていた問題の解答を得たものの、まったく釈然としなかった。

 元々、公爵閣下に対しては、アドリアンにそっくりということ以外、陰鬱で厳しい人という印象しかなかったが、そこに『いけ好かない奴』というのが加わった。

 アールリンデンに戻り、いずれ公爵閣下と顔を合わせたときに、ブラジェナの忠告を思い出せるのかどうか……自信はない。

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