第二百八十六話 ブラジェナの話(2)
「は?」
オヅマは面食らった。じっくりと噛み砕いて理解してから、念のため聞き返す。
「あの、公爵夫人がアド……小公爵さまを産んで、その、お産のときに亡くなられた……から、息子のことが、嫌いになった……とか、そういうこと…ですか?」
ブラジェナは悲しそうにコクリと頷いた。
「はぁ!?」
オヅマは思わず大声で叫ぶと、立ち上がった。
「なんだよ、それ! アドルが悪いわけじゃねぇだろ。命がけで産んでもらっておいて、なんで生まれた子供が嫌いになるんだよ!?」
出産は命がけだ。オヅマのいたラディケ村でも、お産がもとで命を落とす母親はいた。だが、残された父親が、生まれてきた我が子を邪険にしたなど、聞いたことがない。オヅマの知っている限り、そうした
ブラジェナは、突然怒り出したオヅマに、呆気にとられた。しかしすぐに粗暴な言葉遣いに気付いて、いつものように叱りつける。
「オヅマ。またアドルなどと…」
しかし今のオヅマには、ブラジェナの言葉は耳に入らなかった。
ずっと疑問で、ずっとこの質問をするたびに暗い顔をする大人連中に、よっぽど何か重大で、隠したいような秘密があるのかと思っていたら……なんのことはない。
「自分の、大好きだった人が子供を産んだせいで、死んだから……その子供が嫌い!? なんだ、それ! ガキか。ガキでも、もっと物分りがいいぜ!」
あるいは大グレヴィリウスとも呼ばれる公爵家の当主として、本当はアドリアンに対して愛情を感じていても、あえて冷たく接しているのか……と、オヅマなりに良いように考えたこともあった。けれど蓋を開けてみれば、なんというつまらない理由だ。
「俺の村に四人の子供産んで、五人目を産んだ時に亡くなったおばさんがいたけどなぁ……兄弟連中、みんな五人目の弟のこと、めちゃくちゃ可愛がってたぞ。おやっさんだって、俺がちょっといたずらして泣かせたら、拳骨振り回して怒ってたし。それが普通だろ? 違うのかよ?」
ブラジェナは粛然として固まっていた。もはや言葉遣いを正すことなど念頭にない。
オヅマの言うことは正しい。ずっと前からわかっていた。ただ、ブラジェナがそのことを
アドリアンが生まれた直後から、エリアスはほとんど息子を顧みることがなかった。その冷たすぎる仕打ちに、ブラジェナは直接エリアスに諫言した。
しかし、まだまだリーディエを亡くした悲しみが癒えていないエリアスは、ブラジェナを敬遠した。
リーディエのもっとも近しい侍女であったブラジェナは、それこそ幸せの絶頂でいた頃を共にした存在であった。であればこそ、彼女の遠慮ない直言は、エリアスにとってより厳しく、よりつらいものであったのだろう。
運の悪いことに、ちょうどその頃にまた南部地域が不穏になって、再び戦端が開かれる可能性があった。
ブラジェナの援護射撃をしてくれそうな二人 ――― ルーカス・ベントソンとヴァルナル・クランツは、準備などに忙しく、最終的には二人とも出征してしまった。その他の良心のある人々も、多くは戦地に赴いて、ある者は死に、ある者は近親者の死に衝撃を受けて、姿を見せなくなっていた。
文字通り、ブラジェナは孤立無援となってしまった。
その頃になると、公爵が息子である小公爵に対し、何らの愛情もないということは公爵邸内はもちろん、グレヴィリウス家門の中では周知の事実となっていた。
それでもブラジェナは、リーディエに仕えていたときと同様に、硬骨なる
「閣下。小公爵様は閣下とリーディエ様の間のご子息ではございませんか。どうか、親としての愛情をもって、小公爵様に接して下さいませ」
しかしこの
最終的に不興を買って、ブルッキネン伯爵家そのものが数年の間、アールリンデンに来参することも、
この公爵家からの処置は、すぐさま近隣のグレヴィリウス配下家門の知るところとなり、
「お前のその差し出がましい口のせいで、我が家が破滅したらどうするのだ!?」
当時まだ存命であった先代のブルッキネン伯爵とその夫人から、ブラジェナは厳しく叱責され、しばらく大人しく過ごすことを余儀なくされた。
一切の公爵家との関わりを禁じられたのだ。
三年に及ぶ暗黙裡の謹慎処分ののち、ようやくブルッキネン伯爵家が許されて、
それでもいいと、ブラジェナは受け入れた。
遠くからでも、アドリアンの健やかに育った姿を見たかったから。
ただ、五歳までアドリアンを親身に世話した乳母が、肺を病んで亡くなった後は、どんどんアドリアンから笑顔が消えていった。
彼女の死後に新たな乳母は置かれず、数名の
久々に会ったルーカス・ベントソンに、どうにか孤独なアドリアンの環境を改善できないのかと、意見したこともあったが、彼もまた慎重であった。
「それは伯爵夫人も自ら経験したのであれば、お分かりだろう? 閣下に対して、小公爵様の養育について下手に口出せば、遠ざけられてしまうのだ。もし私やヴァルナルまでが、閣下の不興をかって、公爵邸から事実上追放された場合、誰が小公爵様を守れる? あの女狐がすぐさま、
ブラジェナは忸怩たる思いを抱えながらも、ルーカスの言葉に頷くしかなかった。
ヴァルナル・クランツは、悩み、落ち込むブラジェナを励ました。
「ずっとこのままということはないだろう。リーディエ様のことは、閣下にとって、つらくてたまらぬことだろうが、それでも生きている限り時間は進む。時間が経てば、小公爵様への態度もあるいは多少、変化していくかもしれない…」
その言葉には、
思わぬ事件から、彼が小公爵をレーゲンブルトに連れて行ったことによって、それまで
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます