第二百八十五話 ブラジェナの話(1)

 それからもブラジェナはオヅマの礼儀作法教師よろしく、何かとうるさく言ってきた。

 しかも二言目には、


貴方あなたは小公爵様の近侍として、恥じない行いを心がけねばなりません!」


と、アドリアンを持ち出してくる。


 内心、面倒で仕方なかったが、マティアスの母親だと聞いたら無下にもできないし、そもそも怪我をして、足が不自由になっている貴婦人相手に、怒鳴りつけるようなことはしたくもない。

 それにオヅマとて、ブラジェナが決して意地悪で言っているわけでないのはわかっていた。


「よいですか、オヅマ。貴方のように、元は平民であった者が貴族社会で生きていくためには、それこそどの貴族よりも貴族らしい立ち居振舞いを、身に着けねばなりません。それが、貴方自身を無用な争いから守ってくれるのですよ」


 ブラジェナは切々と教え諭す。そこにラッセのような尊大さも、自らの権威を誇示する意図もない。ブラジェナは心底、オヅマの行く末を心配し、同時に小公爵であるアドリアンのことを思いやっていた。

 オヅマは最初、ブラジェナがそこまでアドリアンについて気にかけるのは、自分の息子が近侍として仕えているからだろうと考えていたのだが、実は別の理由があった。


「え? 公爵夫人の侍女……ってことは、アドルのお母さんに仕えてたってこと?」


 オヅマの問いかけに、ブラジェナはピクリと眉を寄せた。


「オヅマ、また間違えています。アドルではありません。小公爵様とお呼びなさい。貴方と小公爵様が、レーゲンブルトで対番ついばんとして仲良くしていたということは了承していますが、人前では…」

「あぁ、はい。わかりました。……それで小公爵さまのお母上の侍女をされていたって?」

「えぇ。そうですよ」


 ブラジェナはお茶を含み、穏やかな笑顔になった。


「懐かしいことです。リーディエ様にお仕えした日々は、私にとって最も光り輝く宝物のような思い出です。本来であれば、結婚した時点でお役目を辞するべきでしたけど、どうしてもリーディエ様とご一緒にいたくて、主人にも了承の上で、お勤めを続けさせてもらいました。マティアスを妊娠して、仕方なくいとまをもらうことになりましたが、それでも生まれる前も後も、何かと気にかけてもらいましたわ。マティアスも抱っこしていただいて、ちょうどその頃にはリーディエ様も、ようやく小公爵さまを身籠られて。本当に、本当に…あれほどに幸福に満ちた時間はなかった……」


 笑顔が急速に翳ると、ブラジェナの瞳から涙がポトリと落ちた。すぐさまハンカチで拭って、顔を引き締める。


「けれど、最上の幸福というのは、大いなる不幸への予兆とはよく言ったものです。あの御方があんなに早くに亡くなられるなんて。知ったときには、私もまた気落ちして……マティアスがいなかったら、いっそ後を追っていたかもしれません」


 オヅマは半ば恍惚として話すブラジェナを見ながら、渋いお茶を啜っていたが、ふと気付いた。ずっと公爵邸に来てから思っていた疑問を、この人であれば答えてくれるのではないか?


「俺……」

「『僕』」

「あ、僕…ずっと疑問だったんですけど、どうして公爵閣下はアドリアンに冷たいんですか?」


 公爵邸において、ルーカスも家令のルンビックも、果てはハヴェルからですらも、公爵閣下が亡くなった奥方をとても愛していたと聞いた。だから不思議だった。どうしてそんなに愛した人の子供に対して、ああまで冷淡なのかと。


 最初は、貴族の親子関係だからそんなものなのかと、納得させていた。そもそも、広大な敷地内にいくつかある館で別々に暮らし、寝食も別ともなれば、親子としての情愛が薄くなっても当然だと思った。


 けれど他の近侍たちから、それぞれの家庭の話を聞くとそうでもないらしい。

 テリィなどは母親と頻繁に手紙のやり取りをしているし、月に一度は実家から衣服や保存のきく食品などを送ってくる。エーリクもあれで案外とマメに家族とは連絡を取っていたし、マティアスもこの新年に合わせて母親が刺繍してくれたというハンカチを受け取って、テリィのように騒ぐことはなかったが、それでも嬉しそうにしていた。

 それぞれに違ってはいても、どの家庭においても、家族への敬慕や親愛はあった。貴族であっても、そこは平民と変わりなかったのだ。


 アドリアンは物心ついたときには既に七竈ナナカマド館に暮らしていたという。本来、そこで暮らし始めるのは、半分大人シャイクレードとして認められるようになってから。近侍らを持つようになってからのことらしい。

 このことはルンビックがつい口を滑らして言ってしまったのだが、そのときにオヅマは疑問に思って老家令に尋ねたのだ。『どうしてアドリアンは小さいときから、あそこで暮らしているのか?』と。


 老家令は難しい顔になり、首を振った。

 重い口を開いて言ったのは一言。


「公爵閣下が、そうお決めになったのだ」


 オヅマは更に問いたかったが、ルンビックは再び同じ言葉を繰り返した。それは公爵の決めたことに異を唱えることは許さない、と言外に伝えていた。それでオヅマは沈黙するしかなかったのだが、今、ここでならば聞いてもいいだろう。おそらくブラジェナはその答えを知っているだろうから。

 しかしオヅマからの質問に、ブラジェナもふっと目を伏せ、沈黙した。沈痛な面持ちで、静かにお茶を飲む。


「伯爵夫人、ここはアールリンデンではありません。ここにいる者の誰かが、告げ口しますか?」


 オヅマが答えを乞うと、ブラジェナは顔を上げて、いつになくボウっとした表情でつぶやくように話す。


「いいえ。…いえ、違うのよ。私はやはり公爵閣下は、まだ深い悲しみの中にあられるのだろうと…そう思ったの」

「それは、公爵夫人が亡くなったことに?」

「えぇ。そう…。私にとって、リーディエ様が唯一無二のあるじであったように、閣下にとってはこの世でたった一人、誰よりも…何よりも大事な御方だったのでしょう。それこそ、お父上から猛反対され、勘当寸前となっても、断固として選び取った人だった。いえ…むしろ、閣下が公爵になったのは、リーディエ様を守るためだったのかもしれないわ。強固で揺るがぬ地位を持つことで、リーディエ様を守り、同時に繋ぎ止めようとしたのかもしれない」


 ブラジェナはリーディエに関することになると饒舌になった。だが、肝心なことを教えてくれない。オヅマは焦れったかったが、また不味まずいお茶を一口飲んで、心を落ち着かせた。


「そこまで好きだったのに、その奥方の子供であるアドリアンに冷たすぎないですか?」


 もう一度、同じことを尋ねると、ブラジェナはハーッと長い溜息をついた。


「それは…小公爵様を出産したことで、リーディエ様が亡くなられたからよ」

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