断章 - ハルカの忠誠 - Ⅳ

 ハルカが本来の主である大公よりも、オヅマに忠義が厚いことはわかっていた。

 だが、そんなことをガルデンティアにいる曲者くせものたちに知られれば、オヅマ自身も、ハルカも、身の置き所を失うだろう。そうなれば公女の侍女をしているマリーとて、何もなしでは済まされない。

 大公の強固にして強烈な自尊心を知っていればこそ、オヅマは自らが彼に猜疑をもたらすことに恐怖した。


 ハルカがオヅマに寄せる忠誠を知られぬために、オヅマはハルカと自分に生じている誤解については、あえて解かずにおいた。

 こうしたことは得てして、当人たちよりも周囲が勝手に盛り上がって噂するものだ。その噂に踊らされた者の中に、ハルカの母親であるリヴァ=デルゼもいた。


「フン。私の娘と相当に仲良くやっているようだな。なんだ、私が手管で、我が娘をよろこばせてくれているわけか?」


 昼間から酒を飲んでいたらしい。呂律ろれつの回らぬ舌が、ペチャクチャとくだらぬことを吐き散らす。


 数年前からリヴァ=デルゼは体を壊しがちになり、もはや戦士としての価値はなくなりつつあった。

 皮肉なことに、身体能力の向上と滋養強壮のために長年飲んでいた薬が、かえって老化を早めたらしい。まだ四十歳にもなっていないのに、歯も抜け、髪も薄くなったリヴァ=デルゼの面相は、すでに老婆のようだった。


 いつもであればこうした世迷よまごとは無視するのだが、帝都東部で起きた叛乱鎮圧のために向かう今は、オヅマも少なからず気分が昂揚していた。それと見せないが、明らかに気が立っている。そのせいなのか、思わずリヴァ=デルゼの挑発に乗ってしまった。


「前々からハルカがお前の娘だというのが信じられなかったが、今日、ようやくわかった」


 軽蔑も露わに言うと、リヴァ=デルゼはギロリと充血した目で睨んでくる。「なぁにおぉぅ?」と、だらしなく涎を垂らしながら吠えた。


「おそらくハルカは父親似なんだろう。少なくとも母親のように、酒に溺れてれ事を吐き散らす、下品な女にはならなかったようだな」

「なんだと…?」


 リヴァ=デルゼは目を見開き、ブルブルと唇を震わせた。


「貴様…私が…あの男に……あの穢らわしく卑しい賤民に、この私が劣るとでも言うかアッ!?」

「あぁ、そうだ」


 平然と肯定するオヅマを、リヴァ=デルゼは刺し殺さんばかりに睨みつける。しかし、その怒りに燃えた瞳は、かえってオヅマの嗜虐心しいぎゃくしんを煽った。


「ハルカの優れた資質はすべて父親譲りだ。卑しいあいの民よりも、お前は醜く、愚かで、心貧しい人間だ。もっとも、そうなるように仕向けられたとするなら、憐憫れんびんの情をかけてやらぬでもないがな」

「貴様…ッ」


 リヴァ=デルゼはギリギリと歯噛みして、オヅマを睨みつける。だが、何故か喉の奥が絞められているかのように、言葉が出てこない。ジワリジワリと足元から這い上ってくるその感情にリヴァ=デルゼは困惑し、うろたえる。

 その憫然びんぜんたる様子を見て、オヅマは不敵に嗤った。


「どうした、リヴァ=デルゼ。昔はその口からするすると悪態、侮言ぶげん罵詈雑言ばりぞうごんが止まらなかったというのに、今は舌が震えて言葉にもならないか?」

「ぐ…お…オノレ……オノレ…」


 酒焼けした掠れ声は、オヅマを恫喝するに至らなかった。

 昔、リヴァ=デルゼが恐怖によって支配し得たと思っていた少年は、今や彼女の背をゆうに越して、仰ぎ見る存在となっている。彼我ひがの力の差は歴然で、自分が目の前に立つ男に永遠に勝てないのだと悟った彼女は、明らかに動揺し、怯えた。


「リヴァ=デルゼ…」


 オヅマが一歩近寄ると、リヴァ=デルゼは一歩後ろに退がった。


「『千の目』を習得することもできず、所詮騎士にすらなれなかったお前であっても、大公家に恩義を感じているのであれば、礼を守る程度のことはできるだろう?」

「な…なに…を」

「今、お前の目の前にいるのは、誰だ?」

「…うぅ…うぅ…」


 リヴァ=デルゼは混乱しているようだった。

 これまで傲慢に他者を睥睨して生きてきた彼女にとって、怯えは主君に対してのみ抱くものであって、断じて目の前の、かつてのか弱い小僧相手に感じるものではなかった。

 おどおどと目線を泳がせて、薄紫色の瞳から必死に逃れようとする哀れな師に、オヅマは畳み掛けた。


「大公閣下は、お前に育てるように申された?」

「それ…は……」

「その表情かおであれば、お前はそうと知っていて、私を鍛え上げてくれたのだな?」


 オヅマの薄紫色の瞳に金色の影が閃くと、リヴァ=デルゼはヒッと潰れた悲鳴を上げた。

 ザザッとあわてたように後退あとずさって、足がふらつき尻もちをつく。

 オヅマはまた一歩近寄って、リヴァ=デルゼを見下ろした。


「答えろ、リヴァ=デルゼ。今、お前の前に立っているのは誰だ?」

「……お、おお…オヅマ…公子……様」


 恐怖と驚愕によるしゃっくりが起きて、リヴァ=デルゼの声は裏返った。

 オヅマはうっすらと口許に微笑を閃かせる。

 夜会であれば、その端麗な微笑みに目を奪われる令嬢もいたことだろう。だが、ここにいるのは、怯える老婆だけだった。


「あぁ、そうだ。が無事『陛下』となられた暁には、貴様は私を『殿下』と呼ぶことになるのだろう。どうする? 今ここで、これまでの過ちを悔いて頭を下げるか。それとも皇宮こうぐうの、諸侯が居並ぶ前で惨めに打擲ちょうちゃくされたいか?」


 リヴァ=デルゼは震えながら、頭を下げた。すると上からズシリと踏まれ、否応なしに額を床にしたたか打ちつけた。


「懐かしいな、リヴァ=デルゼ。かつてお前に同じことをされたとき、痛みよりも、抗いようもない恐怖を感じたが、お前はどうだ?」

「お…許し……を…公子…様」


 リヴァ=デルゼがそれこそ哀れな乞食婆のごとく、か細い声で寛恕かんじょを乞う。

 オヅマはギリギリと足の力を増しつつも、その表情は虚無だった。平坦な、なんらの感情もない言葉が口から滑り出る。


「あぁ、許してやるとも、先生。お前から女を悦ばせるすべまで学んだお陰で、困ることもない。有難いことだ。感謝してほしいか?」

「…うぅ…うぅ……」


 リヴァ=デルゼはうめき、コフッとわずかにもどした。嘔吐物の酸っぱい臭気にオヅマは眉を寄せ、リヴァ=デルゼの頭から足を降ろした。


 目を閉じ、大きく息を吐く。

 自らの昏い興奮に吐き気がする。

 頭が痛い。ひどく痛む。また薬をもらわないと……。もう、あの薬でなければ、痛みが収まらなくなってきている……。


 爪をたてて拳を強く握りしめたのは、このままだと、哀れで弱いだけの存在となったリヴァ=デルゼを殺してしまいそうだったからだ。


「酒を抜いて、公女の護衛に戻れ。


 今や大公家の騎士団を率いるまでになったオヅマの、直属にして腹心の部下となったハルカは、既に公女の護衛というおもちゃでも出来そうな任務から離れ、オヅマと共に戦場に赴くことが多くなっていた。そのため娘の代わりに、リヴァ=デルゼが公女の護衛を任されるようになったのだ。


 戦場において戦うことこそ第一義としてきたリヴァ=デルゼにとって、これは屈辱以外の何物でもなかった。そのせいで気分を腐らせて、酒を飲む日々が続き、ズルズルと堕落していったのだろう。


 落ち窪んだセピアの瞳は汚く濁り、往年の血気盛んで、倨傲なる女丈夫の面影はすっかりない。それでも僅かの自負と、娘への強烈な嫉妬が、リヴァ=デルゼをに戻す。


「……公女の…護衛…」


 リヴァ=デルゼはつぶやきながら、ゆっくりと体を起こした。

 オヅマは既にその場から立ち去りかけていたが、背後から低く笑う声が聞こえてくると足を止めた。


「…ふ…ふふ…公女の、護衛…公女の……侍女は…誰だった…か…なァ?」


 瞬時にオヅマは振り返って、タンと軽く踏み出すと同時に、いつの間にか抜いていた剣が一閃して、リヴァ=デルゼの耳をザクリと斬った。


「ギャアアァァ!!!!」


 リヴァ=デルゼが叫び、左耳のあった部分を押さえてのたうち回る。

 オヅマはどんよりと、リヴァ=デルゼを見つめた。

 醜い女だ。骨の髄まで腐った、どうしようもない女。

 オヅマは落ちていた左の耳をつまむと、苦痛に歪んだリヴァ=デルゼの顔に投げつけた。


「その怪我では、護衛の任も無理であろう。自室にて十分に休養するがいい。公女には話しておく」


 吐き捨てるように言って、踵を返し歩き出す。

 今、この場で役立たずの戦士くずれを一人殺しても、オヅマが糾弾されることはないだろう。理由などいくらでも作れるし、それが嘘であろうがなかろうが、リヴァ=デルゼを擁護する者などいない。


 それでもオヅマは結局、殺すことができなかった。この女がハルカの母親であるという事実が、頭をぎったからだ。


 たとえ母親を殺されても、ハルカのオヅマへの忠誠が揺らぐはずもなかったが、それでもハルカにとってはたった一人の身内だ。年々体が不自由になっていく母を、ハルカは文句も言わずに面倒見ている。それはハルカ特有の愛情のない義務感からだったが、それでも唯一の肉親を、ハルカはハルカなりに大事にしているのだ。


 ハルカの忠誠に、オヅマは何もこたえられない。何をしてやればいいのかもわからない。

 だからせめて、形だけの盲目的なものであっても、子としての務めを果たそうとするハルカの気持ちを無下にしたくなかった。―――――



「総員、配置完了しております」


 ハルカが告げる。

 オヅマは遠くに雨でけぶる集落を捉え、憂鬱に眺めた。


「ハルカ……」


 呼びかけると、かたわらで黒角馬くろつのうまに騎乗していたハルカがすぐにオヅマを見る。

 オヅマは前を向いたままつぶやいた。


「裏切るなよ……俺を」


 ハルカは驚いたように瞬きすると、胸に拳をあてて宣言する。


「我が命は、貴方と共に」


 その顔が満足げに微笑んでいたのを、オヅマは知らない。

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