断章 - ハルカの忠誠 - Ⅰ

 の中で見た一番最初の記憶にあるハルカは、おそらく十一、二歳であったろう。オヅマは成人して大公家の騎士となっており、ハルカは少女という年齢であっても、既に幼さは失われていた。


 初めて会ったときのことは覚えていない。

 リヴァ=デルゼが娘だと紹介していたが、それはオヅマにではなく、主君に対してであって、自分には関係ないと思い、見てもいなかった。

 だからオヅマにとって、ハルカとの最初の出会いは深夜の井戸端だ。


「…うっ……くっ…」


 切れ切れに聞こえてくるのは、痛みをこらえている声。そうとわかったのは、オヅマにも覚えがあるからだった。


 梟の鳴き声すら途絶えた深夜。

『主城』と呼ばれる中心部の棟から離れたところにある西の館。

 もはや誰も訪れることなく、廃墟となって久しい。

 昔は季節の花々に彩られた美しい庭も、今は雑草に覆われ乱立する木々の枝葉が鬱蒼となって、不気味な様相を呈している。

 その一角にある井戸の側で蹲っている人影に、オヅマは眉を寄せた。


「なにをしている?」


 低く声をかけると、人影はビクリと立ち上がり、すぐにそこから飛び退すさった。


 その身のこなし、重たい剣を震えることなく構える姿に、オヅマは内心で舌を巻いた。

 大したものだ。こんな時間であれば誰も来ることなどないだろう…と、おそらく気を抜いていたであろうに、瞬時に危険を察知して無駄のない動き。しかも今、こうして向き合っていて、隙がない。


 ただ、オヅマは少しだけ眉をひそめた。

 さっき後ろ姿を一瞥した限り、短く髪を切っていたので、てっきり少年かと思っていたら、上半身裸のまま振り返ったその姿は少女だった。目に入ってきた、少しだけ膨らみのある未成熟な胸を見て気付く。

 オヅマは表情を変えることなく、少女を観察した。

 脇腹や腕に残る青黒い打ち身の痕や無数の切創、先程まで聞こえていた痛々しい声に、少女の置かれたおおよその状況を察した。


「怪我か?」


 尋ねても少女は返事しなかった。

 剣先が徐々に震えだしたのは、おそらく寒さからだろう。雪が降る季節を過ぎたとはいえ、早春の深夜はまだまだ凍える寒さだ。


「俺はオヅマだ。この大公家に仕える騎士だ。お前の名前は?」

「……ハルカ……デルゼ」

「デルゼ? では、お前はリヴァ=デルゼの縁故の者か?」

「リヴァ=デルゼは私の母」

「………そうか」


 オヅマはその返答だけで、少女の怪我が誰によるものなのかを、すぐに理解した。


「剣を下ろせ。母がリヴァ=デルゼであるなら、俺と同じだ」

「同じ?」

「俺はリヴァ=デルゼより教えを受けた」


 ハルカはその言葉でようやく警戒を解いた。そろそろと剣を下ろし、鞘にしまった。同時にくしゅり、と小さくくしゃみする。

 オヅマは軽くため息をつき、自分の羽織っていたマントを取ると、ハルカの肩にかけた。


「うっ」


 途端に顔をしかめるハルカを、オヅマは怪訝に見下ろす。


「どうした?」


 問うてもハルカは答えず、痛みをこらえているのか唇を噛みしめるだけだ。

 オヅマはしばし考え、ハルカに後ろを向かせた。そっとマントを取ると、とがった肩甲骨の一部と背中のほぼ中央を火傷やけどしていた。火膨れして爛れた皮膚が痛々しい。


「母親にやられたか?」


 ハルカはコクリと頷く。

 オヅマはギリッと奥歯を噛みしめると、そうっとハルカの肩にマントをかけた。


「傷に障るだろうが、少しだけ我慢しろ」


 ハルカがまたコクリと頷く。

 オヅマは井戸の蓋に置かれたハルカのシャツを手に取った。

 背中の一部分が黒く焦げて穴が開いていた。おそらくリヴァ=デルゼが、暖炉の火かき棒ででも殴ったのだろう。理由など知らない。あの女の情緒に平穏などないのだから。


「来い」


 オヅマが呼びかけると、ハルカは不思議そうに見つめたまま突っ立っていた。


「手当てしてやるから、ついて来い」


 言うだけ言って、オヅマは歩き出した。

 ついてこようがこまいが、そのまま自分の寝床に帰るつもりだったが、結局ハルカはついてきた。


 誰住むこともなくなった西の館は、窓はすべて外から板が打ちつけられ、内側はカーテンが閉められてあった。ほとんどの家具には布で覆いがかけられ、埃がうっすらと堆積している。

 淀んだ空気の中を、オヅマは迷うことなく二階にある一室に向かう。

 そこはオヅマが勝手に自室として使っている場所だった。

『主城』にも、部屋は用意されてあったが、豪華な天蓋ベッドや、数々の高価そうな調度品に囲まれたその部屋よりも、この誰もいない廃墟同然の館の一室の方が、オヅマは落ち着いた。


 部屋に着いて、燭台に炎を灯すと、ぼんやりとした橙の光の中に埃がゆるやかに流れていく。

 部屋に一つだけの椅子を示したが、ハルカはドアの前で立ち尽くしていた。

 オヅマは軽く苛立ちながら言った。


「そこの椅子に座れ」


 哀れなことに、この無口な娘は命令されることに慣れているようだった。


 オヅマは部屋の隅にある大きな箱を開けた。

 そこには数枚のシャツやズボンといった軽装のほかに、薬や晒布、包帯などが置いてある。

 オヅマ自身も怪我を負ったときに、自らで手当てするためだ。

 この館に無造作に捨て置かれていたその箱は、開くときにキーッキキ、と軋む。魔女の高笑いのような独特の音に、ハルカが「えっ?」と声を上げた。


「なんだ?」

「……変な音がした」

「これだ」


 オヅマは包帯と薬を取り出して、足下の箱を軽く蹴った。


「…油をさせば直るだろうが、面倒だ」


 とりとめもないことを言いながら、机の上に包帯を置くと、ハルカにマントを脱ぐように言った。まだ、そうした羞恥心が育ってないのか、元からないのか、ハルカはすぐにマントを脱いだ。


「……少し痛むぞ」


 オヅマは一応言って、ハルカの背の火傷に薬を塗っていく。ハルカは最初だけビクリと身を震わせたが、その後は耐えているのか、まったく身じろぎしなかった。

 騎士の中にはちょっとした怪我でも大袈裟に騒ぎ立てて、手当てするのも一苦労する輩がいたが、ハルカはその点、我慢強いようだ。

 火傷の痛みは負ったその時よりも、時間が経つにつれ痛みが増す。完治するまでは痛みと痒さに耐えないと、瘡蓋かさぶたを掻きむしったりすれば、治りが遅くなるし、下手すればそこから膿んで、別の病気になってしまいかねない。


「だから絶対、患部に触れるな」


 オヅマの説明をハルカは真剣な表情で聞き、最後にコクリと頷いた。

 包帯を巻き終えてから、オヅマはさっきの箱から自分が昔着ていたシャツを取ると、ハルカに放り投げた。


「もう小さくなったやつだから、やる」

「………」


 ハルカはシャツを手にして、しばらく固まっていた。


「早く着ろ」


 オヅマが言い直すと、ハルカはシャツを広げてまじまじと見てから、袖に手を通した。

 オヅマはドアを開くと、クイと顎をしゃくって出ていくように促したが、やはりハルカはぼーっと突っ立ったままだ。


「出ていけ」


 冷たく言うと、ハルカはパチパチと目をしばたかせてから、コクリとまた頷く。

 部屋からハルカが出ると、オヅマはすぐに扉を閉めた。


 リヴァ=デルゼの娘という時点で、オヅマにとっては忌避すべき対象であるように思えたが、母親から虐待を受けているのを知ると、無視もできない。

 ザリ、と自分の右肩にある火傷痕に爪を立てる。

 幼い頃、父と名乗っていた男によってつけられたその醜い痕は、奴隷の印である辱印じょくいんを消してはくれたが、いまだに湿気の多い日には痛痒くなって、掻き毟りたくなった。

 母に殺され、母を道連れにしておいてなお、あの男はしつこくオヅマの中にこびりつく。


 蝋燭を消して真っ暗闇となった部屋で、オヅマはサイドテーブルに置いてあったワイン瓶を取ると、直接あおった。思ったよりも昨日飲んでしまったようで、すぐに空になった。

 最近ではもうワインを飲むくらいでは、眠れなくなってきている ――― …


 板をぶち破った窓から空を見ると、月が雲から出てくるところだった。眠ろうと身を横たえても眠気は訪れず、オヅマは起き上がると、ため息をついて枕下に置いてあった母の形見の笛を取り出した。


 窓を開けて、そこから屋根へと登る。

 風が少しだけ吹いていたが、外套がいとうを羽織っていればさほど寒くもない。

 唄口に唇を添わせるように当てると、軽く息を吸ってから吹き始める。


 こうして眠れぬ夜などに時々吹きたくなるから、誰の邪魔になることもない場所を探している間に見つけたのが、この西にある閉じられた館だった。あるじ極々ごくごく私的な場所として作られたというが、その時はそこがどういう場所であるのかはオヅマは知らなかった。


 月に話しかけるように吹くその笛の音を、ハルカが聴いていたと知ったのは、もっとずっと後になってからだ。……

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