第二百七十九話 受け取られなかった笛(2)
「どしたい? 随分と
ルミアの家を出発し、仲良くなった一部の村人にも挨拶して、ズァーデン村を後にしたオヅマは、しばらく無言で歩いていた。草笛を吹いていたエラルドジェイが飽きたのか、声をかけてくる。
「ハルカちゃんに笛突き返されて、しょぼくれてんのか?」
「違う…」
オヅマはすぐに否定してから、ハルカの言った一言がずっと気になっていることに気付いた。
―――― お母さんの笛、大事…
『お母さん』。
ハルカにとって、母はリヴァ=デルゼだ。
たとえあんな女であったとしても、やはり母親として、慕わしい存在なのだろうか…?
「お前、今はアールリンデンにいるんだろ? だったら、そう離れたところでもないし、この馬ならさっとひとっ走りして、いつでも会いに行けるだろ」
エラルドジェイには、オヅマが寂しがっているように思えたらしい。
「違うよ」と、オヅマは首を振った。
「ちょっと…ハルカの母親のことを考えてたんだ」
「ハルカちゃんの母親? あぁ…」
聞き返して、エラルドジェイは眉を
「なんだ? ハルカの母親のこと、知ってるのか?」
「知ってる、っつーか…まぁ、ハルカちゃんから聞いただけなんだけどさ」
「ハルカが何て言ってたんだ?」
「うーん」
エラルドジェイは腕を組み、しばらく思案していた。チラ、とオヅマの顔を見て尋ねてくる。
「お前、聞いたことないの?」
オヅマは苦い顔になり、首を振った。
気になってはいたものの、リヴァ=デルゼのことを思い出すのも嫌で、初日に母親の名前を聞いて以来、話題にすることを避けていたのだ。
エラルドジェイは一息ついてから、「ま、いっか」と話し出した。
「ハルカちゃん、もっと小さい頃はお父さんと暮らしてたらしいんだよな。それがある日突然、母親がやって来て 、金貨の入った袋をドンと置いて、ハルカちゃんを連れて行ったんだ。それからしばらくは母親と一緒に暮らしてたみたいだけど、今度はお父さんが現れて…」
父親は『金は返すから、ハルカを返してくれ』と、リヴァ=デルゼに懇願したらしい。二人は口論となり、父親は途中でハルカを廊下に出した。ハルカが待っていると、ドンと音がして、やがてドアから出てきたのは母親だった。
「……ハルカちゃんはそれからすぐに
話を聞きながら、オヅマの顔から徐々に血の気が引いていった。オヅマの知っているリヴァ=デルゼであれば、言い争いをして平和的に解決することなど有り得ない。その父親という男に殴りかかるぐらいはしていそうだし、なんであればひと思いに殺していてもおかしくない。
おそらくその想像はエラルドジェイもしたのだろう。黙り込んでいるオヅマの隣で、遠い目をして言った。
「デルゼってさ、元々は女系一族なんだよな」
「女系一族?」
「あぁ。今はそうでもなくなってきたみたいだけど…本来、結婚もしないし、夫を持たない。しかも生まれた子が男だったら、里子に出すんだ。女だけがデルゼの姓を継ぐ。だからハルカちゃんが父親に育てられたって聞いたとき、意外だったんだ。でも、もしかしたら、自分で立って歩けるようになるまで、父親に育てさせていたのかもな」
オヅマの顔が歪んだ。ギリ、と唇を噛み締める。
夢と同じであるなら、エラルドジェイの憶測は当たっている。
リヴァ=デルゼはおよそ母性というものを持たぬ人間だった。子供はもちろん、生まれたばかりの赤子であろうが、産み月を迎えた妊婦であろうが、必要とあらば一切容赦なく斬って捨てた。
ハルカのことも、泣くばかりで何もできない赤子の世話が面倒で、父親に育児を押し付けたのだろう。今だって、結局はルミアに預けっぱなしだ。要はハルカの世話係を父親から自分の母親に変えただけのことだ。
―――― あの子の父親は
ルミアが言っていたのを思い出す。
オヅマはレーゲンブルトの春祭りにやって来た行商や旅芸人の中に、何度か彼らの姿を見かけたことがあった。卑賎の身分とされ、虐げられることが多かったせいで、人目につかぬようにと、誰もが俯いて黙々と作業していたが、赤子を負うた母親も、幼い息子に草笛を作ってやる父親も、家族に対してだけはニコニコと笑いかけ、愛情深いように見えた。
もしかすると、ハルカの父親は自ら育てると申し出たのかもしれない。そしてあの女は歩けるようになるまでであれば、誰が世話しても同じだと思って、これ幸いと押し付けた…。
考えている間に、それが間違いないと、オヅマはわかってしまった。夢でそれこそ、リヴァ=デルゼが言っていたのを思い出したからだ。
―――― 自分が育てると言い張るから、一旦くれてやった……
――――
―――― よく出来た娘さ……
リヴァ=デルゼにとってハルカは駒だ。
自分にとって従順で、文句を言うこともない、優秀な……。
「そんなに心配なら、いずれお前が引き取ってやりゃいいんじゃねぇの?」
エラルドジェイが軽い調子で言ってきて、オヅマは顔を強張らせた。
―――― まったく可哀想に。お前にいいように使われてるじゃないか……
同じような調子で、だが少しだけ叱責を含んで、夢の中のエラルドジェイは言っていた。
オヅマにリヴァ=デルゼを悪く言う資格などあるだろうか。
夢で、ハルカを使い勝手のいい駒として使役していたのは、オヅマも同じだった。いや、何であれば最後まで、ハルカはオヅマの駒として利用された挙句…
「おい!」
気がつくとエラルドジェイがオヅマの肩を強く掴んでいた。
ハッと我に返って、オヅマは息が乱れていることに気付いた。大きく深呼吸し、吐き出す息とともに、不意に思い出した夢の中の人影を追い払う。
「真剣になるなよ。俺は、ただの思いつきでくっちゃべってるだけなんだから」
「あぁ…わかってる」
オヅマは無理に笑顔を浮かべた。
そうだ。今は夢とは違う。
あそこに行っても、オヅマと出会うことがなければ、ハルカが悲惨な結末を迎えることはないかもしれない。むしろ自分といれば、きっとオヅマはハルカを頼ってしまうだろう。騎士として、ハルカは誰よりも有能で、信頼のおける部下だったのだから。
それでも、いずれ迎えにくるリヴァ=デルゼにハルカをみすみすやるのは、気が進まない。あの女が娘に対し、虐待まがいの指導をすることも、都合のいいように使役するのも目に見えている。
オヅマはもう一度、深呼吸し、青く晴れ渡った空を見上げた。
暗澹とした気分と相反した澄んだ空。渡っていく
オヅマはため息をつくと、再び歩き始めた。
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