第二百七十八話 受け取られなかった笛(1)
ルミアは特に修行が終わったとは告げなかった。
体調が戻ると、荷物を纏めるように言われ、それでなんとなく、ここでの生活は終わりなのだと思った。
「シュテルムドルソンに着いたら、モンスの鍛冶屋に行きな。町に入って、モンスと言えば誰でも知ってるだろうよ」
オヅマは頷いて、カイルに荷物を乗せる。オヅマ一人であれば乗って行くつもりであったが、エラルドジェイも同行するので、歩いて行くことにしたのだ。
どうせ早くにアールリンデンに戻ったところで、アドリアンもいないので、やる事は残された騎士団の連中と一緒に訓練するくらいであろうし、それにやたらと早くに帰って、帝都に来いなどと言われるのも避けたかった。(もっともオヅマをここに来させたルーカスの意図からすると、その命令が下る可能性は低かったが)
エラルドジェイはアールリンデンの知り合いを訪ねるらしい。オヅマはその知り合いが誰なのかも知っていたが、また知り得ざることを言った…と、エラルドジェイの気分をざわめかせたくはなかったので、言うことは控えた。
そんなエラルドジェイもまた急ぎの用はないので、オヅマと一緒にのんびり旅することにしたようだ。
いざ出発となって、オヅマはルミアと並んで立っているハルカを見つめた。数ヶ月一緒に過ごしたものの、ハルカはやはり無表情にオヅマを見送るだけだ。普通であれば素っ気ないを通り越して、冷たいぐらいに思えたろうが、そういうわけではないことをオヅマはもう知っていた。
ここにいる間も、オヅマは夢を見た。
夢の中に何度も出てきたハルカは、オヅマにとって最も信頼のおける部下だった。彼女がオヅマを裏切ったことは一度もない。たとえ命令が無理難題、非情非道なものであっても、ハルカはいつもオヅマの為に尽くしてくれた。――― 最期のときまで。
オヅマは背嚢の中に突っ込んであった、若草色の細長い包みをハルカに差し出した。
「これ、やるよ」
ハルカはじっとその包みを見てから、顔を上げて短く問うた。
「笛?」
「あぁ」
オヅマが頷くと、ハルカはまた包みをじっと見てから、ブンブンと頭を振った。
「なんで? 笛、気に入ってたろ?」
ここにいる間、ハルカの無言のおねだりにほだされて、何度か吹いてやった。きっと欲しがるだろうと思ったが、ハルカはグイとオヅマに笛を押し返した。
「ダメ。お母さんの笛、大事」
いつも無表情なハルカが、少しだけ怒ったように言うのに、オヅマは胸を衝かれた。
黙り込んだオヅマの肩を、エラルドジェイが軽く叩きながら笑った。
「ハハッ! ハルカちゃんは吹きたいんじゃなくて、お前が吹いてるのを聴くのが好きなんだよな?」
エラルドジェイに問いかけられて、ハルカはコクコクと頷いた。
「だとよ。だから笛をやるんじゃなくて、今度また聴かせてやれよ」
「今度って…?」
「いつか、でいいんだよ。いつか、また、だ」
エラルドジェイが軽く言う。何気ない言葉に、オヅマは暗い顔でうつむいた。
いつか、また…会えるのだろうか?
会っていいのだろうか?
夢で喪われた彼らに会えたとき、オヅマは心底嬉しかった。だが、今は少し怖い。妙な焦燥感がつのる。この先も自分は彼らに関わっていいのだろうか…?
「おい!」
エラルドジェイに強く背中を叩かれて、オヅマはハッとなった。軽くため息をついて、笛を再び背嚢に戻す。
正直、この笛を母が大事にしていたということに苛立つが、笛自体に罪はない。それに結局、母にとってこの笛は不要になったのだ。つまり、それだけヴァルナルを信頼しているというあらわれだろう。ずっとずっと大切にしてきたこの笛を手放してもいいくらいに…。
「じゃ、行くか」
エラルドジェイに言われて、オヅマは頷き、ルミアとハルカ、二人に頭を下げた。
「…お世話になりました」
「修行はまだ続くと思いな。あとはお前さん次第だ」
ルミアは最後まで厳しく釘を刺す。オヅマは「はい」と、ルミアのセピアの瞳から目を逸らさず、しっかりと返事した。
ハルカは手を振ることもなく、やはりどんよりとオヅマを見上げる。オヅマが手を出すと、じっとその手を見て首を傾げた。
「握手だ。俺と反対側にある手を出すんだ」
言われた通りにハルカが手を出すと、オヅマはギュッと握った。オヅマが手を離して「じゃあな」と言うと同時に、ハルカが唐突に尋ねてきた。
「どうして手を握ってくれるの?」
ルミアはギョッとし、エラルドジェイも驚いたようにハルカを見つめる。オヅマもびっくりして黙っていると、ハルカは続けざまに問いかけてくる。
「汚くないの? 気持ち悪いって…どっか行けって、蹴らないの? どうして?」
ハルカはオヅマが来たときから不思議でならなかった。
どうしてこの男の子は会ったばかりの自分を、汚いと言わないのだろうか?
多くの人間は ―― 大人でも子供でも ―― 自分を見ると、汚いと言って追い払った。じっと見つめると、見るなと石を投げられた。それなのに、オヅマは会ったその日には、ハルカの手を握ってくれたのだ。
「……ハルカ…」
ルミアが苦々しくつぶやく。
オヅマは腰をおとすと、ハルカと同じ目線になって言った。
「ハルカ、お前はいい奴だ。汚くなんかないし、気持ち悪くなんかない。今度、そんなことを言ってくるやつがいたら、ブン殴っていい」
「…おいおい」
途中でエラルドジェイがたしなめるのを、オヅマは無視して続けた。
「お前はルミアと一緒。俺の師匠だ。感謝してる」
「ジェイも?」
ハルカに言われて、オヅマはあわてて付け加えた。
「あぁ、そうそう。そうだった」
「そうだった…ってなんだよ。あんなに一生懸命相手してやったってのにさー」
エラルドジェイがプーッと膨れてみせると、ハルカはうっすらと笑った。オヅマは最初の日に思わず笑ったハルカの笑顔を思い出した。そう。こうやって少しずつでも笑ってくれればいい。
夢の中のオヅマは、ハルカの笑顔をほとんど見たことがなかったが、マリーが言っていた。
――――― ハルカちゃん、笑ったらとっても可愛いんだから!
「俺、妹がいるんだ。マリーっていう。いつかハルカにも会わせてやるよ。……きっと、仲良くなるだろうから…」
ハルカは不思議そうに聞いていたが、コクリと頷いた。
オヅマは立ち上がって、ハルカの頭を軽く撫でてやった。
「じゃあ…」
踵を返し数歩進むと、森の中からビュン、と真っ赤な実が飛んできた。難なく掴み取って、森の方へと目を向ける。木々の間から
「ありがとな!」
飛んできた実を持って手を振ると、豆猿たちはヒューイヒューイ、と機嫌のいい鳴き声を響かせた。
「ったく、ここの豆猿どもときたら、妙に頭がいいぜ。
エラルドジェイが肩をすくめて言う。
「そうかもな…」
オヅマは笑って、豆猿が投げてきた実を齧った。それは熟したロンタの実で、ちょうど甘さと酸っぱさの入り混じった果肉が柔らかかった。この状態は一日と持たないので、今朝、獲ってきてくれたのだろう。
「……よかった」
オヅマはつぶやいた。
夢の中では、オヅマは何十頭もの豆猿を殺した。豆猿たちの断末魔の悲鳴は赤子の泣き声そっくりで、修行が終わってベッドに潜り込んでも、いつまでも耳奥で響いた。
今回の修行では、殺さずに済んだ。誰も、何も、傷つけずに終えられた。それがオヅマにとっては一番の収穫だった。
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