第二百七十三話 深夜の図書室(3)
ヤミは階段を上り、真っ暗闇の空間にしばらく立っていた。
外に出る前に気配を確認する。壁にある小さな窓を塞いでいたフラップを開き、そこから外を覗き見る。人の姿はなかった。もう一度、息を殺して、かすかな気配すら感じないことを確信すると、壁から飛び出た丸い取手のレバーを引いた。ゴゴと音がして本棚が開く。
出てから一瞬、眉を寄せた。
テーブルの上にキャレが忘れていったはずの燭台がない。
あるいは途中で気付いて、取りに来たのだろうか。だとしても、おそらく本棚については気付かなかったはずだ。
大して気にもとめずにヤミは図書室を出て、そこで声をかけられると同時に、燭台を取りに来たのがキャレでないことを悟った。
「トゥリトゥデス卿、深夜に図書室にまで来て読書か?」
背後から響く聞き覚えのある声に振り返ると、ゆらめく蝋燭の灯りの中に、ルーカス・ベントソンの姿があった。
ヤミはすぐに彼が待ち伏せしていたのだとわかった。
「…ベントソン卿こそ、こんな時間にわざわざ?」
内心の動揺を知られぬように、ヤミが微笑をつくって尋ねると、ルーカスは肩をすくめた。
「ちょっとばかし、目が冴えてね。穏やかな眠りを与えてくれる本を探しに来たんだが、邪魔しちゃ悪かろうと思って、待っていたんだ」
意味深な言い方にヤミはかすかに苛立ったが、素知らぬ顔をしていなした。
「邪魔ではありません。私も同じような理由ですから」
「ほぉ? で、いい本は見つかったのか?」
「あいにくと先客にとられました」
「先客?」
「小公爵様の近侍の…キャレ・オルグレンでしたか? あの子に持っていかれました」
「……そんなにその本がよかったのか?」
ルーカスが首をかしげると、ヤミは先程のキャレの姿を思い浮かべ、うっすらと笑む。
「ええ。『ゾール百科事典人体編第三巻雌雄差異考察』という本です。キャレがどうしても必要だと言うので、譲りました」
「事典? 人体の…雌雄? そりゃまた、随分と奇妙な読み物を持っていったものだな。わざわざ深夜に取りに来るような本か?」
「まったくですね。まぁ、あの年頃であれば、男女の性差について、色々と悩みをかかえる時期であるのかもしれませんね」
ルーカスはさっき、キャレに会ったときの危惧を思い出した。フッと視線を落とし、顔が翳る。
「では…」
ヤミはキャレのことでルーカスの気が逸れたと思い、そのまま立ち去りかけたが、相手はやはり公爵の右腕と呼ばれる男だった。そう簡単に逃してはくれない。
「あぁ、そうだトゥリトゥデス卿。明日は小公爵様らの弓稽古があったな」
ヤミは眉間に皺を寄せたが、振り返った顔はいつものごとく、ただ無表情なだけだった。
「申し訳ありませんが、明日の稽古にはつき合えません」
「またか? 最近、忙しいようだが、一応こちらもお前の仕事の一つだぞ」
「……了解はしておりますが、明日はアールリンデンに一度、戻らねばならなくなりました」
「なんだ? ヘンスラーの忘れ物でも取りに行くのか?」
皮肉げに問うてくるルーカスに、ヤミは口の端を歪めた。
「あの男のために? 私が? わざわざ?」
「ハァ…やれやれ。自らの直属の上司に対する言葉ではないな」
「……ベントソン卿」
ヤミはもはや上辺だけの話をするのも面倒になってきて、ルーカスにずばりと言った。
「
「俺が許すと思うのか?」
「許すでしょう。私が誰からの命令で動いているのか、ご存知であるのならば。今、ここでつまらぬ腹の探り合いをするのも、いいかげん滑稽ではありませんか?」
「……とうとう尻尾を出してくれたということか」
ルーカスは乾いた笑いのあとに、ヤミをじっと見つめた。
蝋燭の光が揺らめく青い瞳は、静かにヤミを圧迫している。
「だったら、俺がわざわざお前を小公爵様のそばに配したことの意味は、わかっているのだろうな?」
低く問いかける声にも、抑圧された気迫が込められていた。
だがヤミはとぼけたように小首を傾げ、その白皙の面に艶麗な微笑を浮かべた。
「妙なことを
「小公爵様のご器量次第というわけか?」
「そうですね……」
ヤミはスッと目を細めると、愉しげに言った。
「あえて私を配下にとお望みなら、私を満足させる仕事を与えていただければ、いかようにもお役に立ちましょう。賢明な団長代理であれば、おわかりですね?」
ルーカスは苦虫を噛み潰す。
この男の、姿形にそぐわない嗜好を知っていればこそ、本来であればアドリアンに近づけたくはなかった。
ヤミはルーカスの憮然とした表情に、軽く肩をすくめる。
「最近はつとに平和で、なかなかそうした仕事のお呼びもないので、非常に持て余しております。アールリンデンから戻ったときに、ベントソン卿が用意してくださっておればよろしいのですが」
「馬鹿を言え。そうそうお前を必要とするような事件など起こってたまるか」
ルーカスが吐き捨てるように言うと、ヤミは鬱陶しいほどに美しい微笑を返してきた。
「それでは黒角馬はお借りします」
抜け目なく言って、去っていく。
ルーカスは軽く舌打ちすると、渋い顔でヤミの後ろ姿を見送った。
ヤミ・トゥリトゥデス。
表向きは公爵家騎士団の第五隊に所属する弓の名人であるが、同時に公爵直属の諜報組織『鹿の影』の一人でもある。
『鹿の影』の存在は既に知って久しいが、その実体はほとんどわからなかった。公爵はルーカスにさえも、彼らのことは教えなかったからだ。
だが彼らの去就は、将来におけるアドリアンの地位保全のために黙過できない。先程ヤミも言っていたように、彼らの総意が公爵の地位を約束するものでなくとも、彼らを使役できるかどうかは公爵の器量に関わってくるからだ。
ヤミはようやくルーカスが見つけた『影』の一人だった。
しかしヤミが『影』の一人とわかっても、ルーカスは当初、彼をアドリアン側に引き入れるべきか悩んだ。それは彼の言う「満足する仕事」に関わる彼自身の嗜好が、ルーカスにはあまり好もしくないものであったからだ。
ヤミのもっとも満足する仕事。それは拷問であった。
美麗なる顔に似合わず ―― いや、あるいはその美しさすらも凄絶なる陰惨さを助長するかのように、ヤミは嬉々として拷問する。ルーカスは役職上、その現場を何度となく見たことがあったが、それこそ怖気の走る光景だった。
そんな加虐趣味の性格異常者を
「……早まったか」
ルーカスは軽く後悔したが、いずれ後継争いが本格化したときに、彼のような存在が必要であることは痛感していた。それは現公爵のときもそうであったからだ。
「結局…眠れそうにないな」
ぶつくさとつぶやきながら、ルーカスは磨き上げられた窓越しに、まだ星のまたたく空を見上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます