第二百七十四話 澄眼習得(1)

 オヅマは帝都から遠く離れた場所で、ヤミ・トゥリトゥデスが公爵直属の諜報組織の一員だと気付いたものの、だからといって今、なにをするということもなかった。

 わざわざアドリアンに知らせるようなことでもないし、ルーカスに答案用紙よろしく「アンタが引き入れろ、って言ったのは、ヤミが公爵の諜報員だからだろ?」なんてことを手紙で書き送るなんて、馬鹿馬鹿しすぎる。


 とりあえずは自分のやるべきことをするだけだ。

 オヅマはヤミについては、また公爵家に戻ってから考えることにして、目下は修行に専念することにした。


 浄闇じょうあんの月に入って早半月が過ぎ、季節は夏本番を迎えている。


 まだ朝の涼しい風が吹く中、ハルカと共に走りに行こうとしたオヅマを、ルミアが呼び止めた。


「待ちな。今日は走りはナシだ。オヅマ、お前さんはあの酔っぱらいを起こしてきな。ハルカ、アンタは足輪を外しな」


 オヅマもハルカもキョトンとして目を見合わせたが、それぞれ言う通りに動いた。

 ハルカがその場に座りこんで足輪を取っている間に、オヅマは家に戻って、屋根裏部屋へと向かった。隅っこにしつらえたハンモックを揺らすと、中でいびきをかいて寝込んでいるエラルドジェイが、ひどく渋い顔で呻くようにつぶやく。


「勘弁してくれ……夜通しだったんだぞ……」


 オヅマはあきれてため息をついた。

 エラルドジェイはここでオヅマの修行につき合うようになり、時々村のほうにも出向くようになった。余所者よそものにはなかなか心を開かない村人も、ルミアの客人であることを含め、気さくでざっくばらんなエラルドジェイの人柄に、すぐに打ち解けた者が多かったようだ。

 そのせいか、度々村に一軒だけの酒場を訪れては、夜遅くまで飲んでいた。


「朝まで飲んでんじゃねー」


 オヅマがゲシゲシと下から蹴り上げながら、小言めいて言うと、エラルドジェイはかすれた声で訂正した。


「飲んでない……飲む暇なんかあるか」

「なにやってたんだよ、夜通しで」

「そりゃ、お前……」


 言いかけて、エラルドジェイは目をつむったまま、ムフフといやらしく笑う。

 オヅマは呆れ返った眼差しで、ニヤケ顔のエラルドジェイを見た。


「寝たまま笑うな。気色悪い」


 冷たくオヅマが言うと、エラルドジェイはパチリと目を開いた。

 ぼんやりとオヅマを見つめて、パチパチ目をしばたかせると、ムクリと体を起こす。


「やべぇ、やべぇ。お子様相手にくっちゃべっちまうところだ」

「はぁ? どうでもいいから起きろよ。婆さんが呼んでるんだ」

「あーあ」


 エラルドジェイはため息をついてから、ヒョイとハンモックから飛び降りた。うーんと背伸びしながらぼやく。


「あーあ、本当に。カトリどもが来る前にとっとと逃げておきゃよかった」

「よく言うぜ。すっかり馴染んでるくせして」

「そりゃ、どうせ休むんなら満喫しないとな。まぁ、いっても開店休業みたいな状態だったけど」


 エラルドジェイの言葉に、オヅマは首をかしげた。


「そういや、アンタ。そもそもなんでこんなところに来てたんだ? まさか帝都であいつらに捕まって、わざわざこっちにまで連れてこられたわけじゃないだろ?」

「まーね」


 エラルドジェイは否定しなかったものの、それ以上のことは言わなかった。どうやら仕事らしい。こういう口堅さも、相変わらずだ。これ以上は訊いても、教えてくれないだろう。

 オヅマは早々に追及をあきらめ(そもそもそんなに興味もない)、エラルドジェイを促した。


「ほら、行くぞ」


 外に出ると、ルミアとハルカは並んで立っていた。


「おまたせ~」


 エラルドジェイが、さっきまでの眠そうな様子とは打って変わって、上機嫌でルミア達に挨拶すると、ジロリとルミアが睨んだ。


「…酔っ払ってたわけじゃないようだね。腰は? 傷めてないだろうね?」

「ご覧の通り」


 エラルドジェイが澄まして言うと、ルミアはフンと鼻を鳴らしてからオヅマに説明した。


「いいだろう。じゃあオヅマ、今からここで、この二人を相手にしてもらうよ。相手といっても、アンタはけるだけだ。手を出すのは禁止。ハルカには短剣をもたせてある。木でできたものだから大丈夫だろうが、よぉく削ってあるから下手すりゃ怪我するよ。アンタはこれ」


 ルミアは自分が持っていた木剣をエラルドジェイに渡した。

 通常の剣と同程度の長さだ。

 エラルドジェイはブンブン振り回してから、微妙に柔らかくしなるその剣に、クスッと笑った。


岩柳レントゥーンで作った木剣とはねぇ。なかなか扱いづらいものを渡してくるじゃないの」


 岩柳レントゥーンは、帝都以南でよく見られる枝垂柳と違って、幹が岩のように固い。枝も枝垂柳に比べると太くて固いが、同じようにダラリと垂れ下がっており、吹きすさぶ暴風の中にあってもそうそう折れない。

 細い枝は鞭になり、太い枝は今回のような木剣になったりした。ただ、枝によってしなり具合に差があり、扱いづらいとして、騎士団で練習用に使うことはない。


「さて、始め」


 朝の挨拶をするぐらいの適当な調子で、ルミアは開始を宣言する。


 オヅマが文句を言う間もなく、ハルカが向かってきた。

 高く跳躍して真上から狙ってくる。

 オヅマは瞬時に飛び退すさって、大きく息を吸った。

 呼吸による集中を始める。

 その間にも、足輪を取ったハルカは異様なほどのはやさでオヅマを追い詰めてくる。


 ハルカばかりに気を取られてもいられない。

 手数はハルカよりも少ないものの、ハルカが一瞬息を整える間を埋めるように、エラルドジェイがオヅマに容赦なく攻撃してくる。

 しなりのある木剣は、ギリギリで避けても、思いもよらぬ角度でオヅマの鼻先をかすめた。

 ピュッと肌を切り裂いて血が飛ぶ。


「おいおい、澄眼ちょうがんとやらはそんなモンか?」


 エラルドジェイが嘲るように言うと、オヅマは冷たく見据えながら、呼吸を深めた。

 二人からの攻撃をかわしながら、どんどん集中を増していく。

 途中から耳鳴りがしてきて、オヅマは少しずつ、自分がある一定の境地に近づきつつあることを自覚した。

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