第二百七十二話 深夜の図書室(2)

 ヤミが階段を降りた先には、小さな扉があった。

 かなり屈んで入らねばならないその部屋の中へと足を踏み入れると、フワリと染み付いた葉巻の香りに包まれる。

 薄暗い小部屋の中には、その場をほぼ占めるテーブルと椅子が二脚あるだけだった。だが絨毯も含めて年代物の重厚な雰囲気を醸し出している。


 ヤミは奥の暗がりにある椅子に座った人物 ――― 公爵エリアスに一礼すると、前置きもなく話し始めた。


「ガルデンティア(*大公家居城)からの連絡はありません。使用人の女に探ってみましたが、殺されてはいないようです。うまく夫人に取り入ることはできたものの、少々、難儀な御方らしく、執着がひどくて、今は部屋から外に出ることも許されない状況です」

「………」


 カチリ、と葉巻を切る音がして、ややあってシダーの香りが揺らめく。


「それで?」

「使用人はこの十年でそっくり入れ替わったようです。当時のことを知る人間はほぼおりません。エレオノーレ様が女主人であったことすら知らぬ者がほとんどです」

「……きれいに抹消されたということか」


 抑揚のないエリアスの声が響く。

 ヤミは頷いた。


「予想通りだな。そちらは」


 ボソリとつぶやき、エリアスはハーッと長く煙を吐いた。

 蝋燭のかすかな光に煙がたゆたい、影へと消えていく。


 オヅマの出生に、姉であったエレオノーレの恥辱に満ちた死が絡んでいると考えたエリアスは、直属の諜報組織に再調査を指示した。

 十三年前の前回においては、直接姉の死に関連することを探っていた中で、ガルデンティアに送り込んだ間者がすべて戻ってこなかったので、調査は終了せざるを得なかった。

 しかし今回は当時を知る、あるいは当事者とも言うべきミーナという切り札を持っている。別角度から切り込み、姉の冤罪を晴らすことができれば、ダイヤモンド鉱山のある、今は南東の海の要衝となりつつあるエン=グラウザ島を取り戻すきっかけとなる。


 エリアス個人としては、正直なところ姉の汚名返上にも、エン=グラウザ島の領有にも、さほどに関心と熱意があるわけではなかった。

 むしろ個人的な心情の点でいうなら、十三年前の未熟な自分を嘲笑ったであろう大公家に対して、矜持が傷つけられた…という部分が大きい。

 また個人的な感情とは別に、公爵家が本来持っているべきものは取り戻すべき、という義務感は、強くエリアスにのしかかっていた。長くグレヴィリウス公爵として過ごす中で、彼の矜持はグレヴィリウス公爵家のそれとほぼ同等になってしまっていたのだ。


「以前に言ったクランツ男爵夫人の身柄を保護した従僕については?」


 大公本人には一切告げないことを約束しながらも、エリアスは当時の状況についてミーナから聞き取るようにルーカスに命じていた。当然、こちらの思惑に気付かせないように。

 ミーナは言い渋ったが、最終的には「恩人の消息を知りたいとは思いませんか?」という、情に訴えるやり方で情報を引き出したらしい。もっとも尋ねた時点で、その恩人が死亡している確率は高かったが。


「川にて死体が発見されております。十三年前の報告書に記載がありました」


 案の定、ヤミの報告は無情だった。


 ミーナは大公家から出て行ったのち、本来であれば天涯孤独で、しかも身重であったので、すぐにも行き倒れることは目に見えていた。しかし彼女の不遇に同情した従僕の一人が、秘密裡に彼女を保護して、知り合いの商人にその身柄を託したのだ。

 ミーナはその商人の伝手によって、ルッテア(*帝都郊外の都市の一つ)の商家の住み込み女中となり、オヅマを産んでいる。


「従僕が行方不明になった当時の日時から勘案するに、大公が男爵夫人ミーナの失踪を知る前に、既に消されたようです。これは、おそらくエレオノーレ様のご指示かと」

「……もあろう…」


 エリアスは驚かずに首肯する。

 姉の驕慢な気質からしても、自分の命令に逆らって、追い出した娘に手を貸した男を許すわけがない。しかもその従僕が大公に告げ口などして、自分の罪が明らかとなった上、追い出した娘まで取り戻されでもしては、無駄骨どころか自分だけが傷を負う羽目になりかねない。


 こうしてミーナの行方について一切不明となったまま、大公の知るところとなったあとには、関わった者たちへの苛烈な処罰が下されたのだろう。

 家令や執事をはじめとする相当数の召使いが解雇となっているが、それが果たして文字通りのものであるのか、あやしいものだ。彼らのその後を調べても、事故死や、自死、あるいはいまだに行方不明の者がほとんどなのだから。


「ただ、その死んだ従僕から男爵夫人を託された商人を突き止めることができました。行商人でしたので、なかなか足取りを追うのが難しかったのですが、幸いにも今はアールリンデンにて陶器工房のオーナーになっています。彼から当時の状況について聞くことはできるかもしれません」


 エリアスはクスリと笑った。


「存外と世の中は狭いものだな。我が領内にて、数奇なる運命に巻き込まれた者が三人も共存しているとは」

「………」


 ヤミの返答はなく、エリアスの下知を待っている。

 エリアスは再び葉巻を吸って、煙を吐いてから命令を下した。


「即刻、向かうがよかろう」


 ヤミはまた一礼すると、すぐさま踵を返して部屋を出た。

 バタリと閉められた扉を陰鬱に眺めて、エリアスはつぶやいた。


が為の忠誠か………ヤミ・トゥリトゥデス」

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