第二百七十一話 深夜の図書室(1)

「ヒャアッ!!」


 キャレは驚いて飛び退すさった。

 そのまま体勢を崩して、ぺたんと尻もちをつく。

 目の前に立つ男の端麗な面に、苛立ちがさっと浮かんで、あっという間に消えた。

 キャレはしばらく男をまじまじと見てから「あ!」と、声をあげる。

 弓部隊の一人で、近侍たちに弓を教えてくれている……


 ―――― 誰だったっけ?


 こんなに綺麗な顔をしているのに、どうして名前を忘れてしまったのだろうか。


「あ…あ、あの…すみません。えと…ヤ、ヤ…ヤミ…」


 それでもキャレは、どうにか頭の中から彼のおぼろげな名前をひねくりだした。


「ヤミ…トゥッ……トゥトゥリデス卿」

「トゥリトゥデスだ」


 ヤミは冷静に訂正してから「ヤミでいい」と、素っ気なく言ってくる。


「あ…はい。すみません、ヤミ卿。わた……僕、なかなか人の名前が覚えられなくて」


 キャレは丁寧に謝ったが、ヤミは大して興味もないように、足下に落ちていた本を拾った。


 ここは帝都の公爵家の中にある図書室であったが、夜半に近い時間なので、当然ながら人気ひとけはない。

 キャレは誰もいないと思っていたのに、本を取ってクルリと出口へ向いた途端、そこに亡霊みたいに長細い、白っぽい人が立っていたので、驚いて腰を抜かしてしまったのだ。


「……人の体に興味が?」


 拾った本をキャレに差し出しながら、ヤミが問うてくる。

 キャレは自分が本をいつの間にか落としていたことに気付いた。

 一気に顔が熱くなる。


「あぁっ、すっ、すみませんっ」


 あわてて受け取ろうとしたが、ヤミは取れないように、ツイと本を上げた。


「あ…あの?」


 キャレは戸惑って、おずおずとヤミを見上げた。

 蒼氷色フロスティブルーの瞳が、無表情にキャレを見下ろしている。


「あの……なにか?」


 かろうじてキャレは問いかけたが、蒼の瞳はただ冷たく見つめるばかりで、何を考えているのかわからない。

 さっきまでは恥ずかしさで真っ赤になっていた顔が、徐々に恐怖で冷めていく。


 ヤミは持ち上げていた本をキャレの前に差し出した。

 キャレは少しばかりためらいながらも手を伸ばしたが、急にグイと肩を掴まれると、ヤミの顔が間近に近づいてきた。


「ヒ……」


 悲鳴を上げたかったが、喉を押し潰されたように声が出ない。

 一気に全身が強張ったキャレの耳元に、ヤミの鼻先がかすかに触れた。かと思うと、またグイと押し戻される。キャレは呆然と突っ立っているしかなかった。


 ヤミはまた手に持っている本の表紙を見つめ、それからキャレを見て、スッと目を細めた。

 再び本をキャレに差し出したが、キャレはもはや驚きと恐怖で動けない。

 ヤミはやや苛立たしげに眉を寄せ、無理やりキャレに本を押し付けた。


「もう、そろそろ…といったところか?」


 ボソリと、ヤミがつぶやく。

 キャレは慄然として、息を呑んだ。カチカチと奥歯が鳴る。

 何も言えず固まるキャレに、ヤミは淡々と言った。


「男を乞えば、メスの臭いは強くなる。バレたくなければ、想いは断つことだ」


 すべてを見透かしたかのように言われて、キャレは一気に冷や汗が噴き出た。

 泣きそうになって、うっ、と嗚咽する。

 しかしヤミはそんなキャレの姿に顔をしかめ、一層冷え冷えとした口調で突き放した。


「とっとと去れ。泣き言を聞くつもりはない」


 キャレの目の前でバチンと指を鳴らすと、無情に背を向ける。


 キャレは本を抱きしめると、あわてて走り去った。

 バタン、と図書室の扉を閉める音が響く。


 遠く足音が去っていくのを確認してから、ヤミはまた周囲の気配を探った。誰もいないことを確信してから、キャレの残していった燭台の蝋燭をフッと消す。

 一気に図書室は真っ暗になったが、ヤミはしばらく目を慣らしてから、行動を開始した。


 キャレの取った本が置かれていた本棚の側面にある、隠されたレバーを引くと、本棚がゴゴと動く。壁面を背にしていたはずの本棚の後ろにはぽっかりと開いた空間があった。

 少し進んだところに階段があったが、下へと続くその先はより深い漆黒へと呑み込まれている。

 ヤミが少し屈んで小さな空間に入ると、本棚は再び動いて、ヤミごとその場所を隠した。


 図書室はようやく深夜の静謐を取り戻した。



***



 ルーカス・ベントソンは騎士団での調練に合わせた生活を送っているので、早寝早起きが基本だ。だが今夜は少々、先だっての夜会で知り合った御婦人とのがあって、遅くなってしまった。

 実家に帰ることもできたが、この時期は婚家で暮らす姉達も帰省しているので、何かとつつき回されるよりは、多少面倒でも顔の利く門番に開けてもらって公爵邸の自室に戻るのが一番という結論に至った。


 そんなわけで広い公爵邸内を深夜一人歩いている途中で、湿っぽい子供のすすり泣く声が聞こえてきたときには、正直、その手のことはまったく信じていないルーカスであっても、一瞬、肝が冷えた。

 声に近づくにつれ、それが本当に子供で、しかも小公爵の近侍の一人キャレ・オルグレンとわかると、ルーカスはホッとすると同時にあきれたように声をかけた。


「おいおい。どうした、キャレ・オルグレン。深夜にこんなところを歩き回って、迷ったのか?」


 キャレは響いた声にビクリと震え、一瞬、泣くのをやめたが、燭台を持ったルーカスに気付くと、途端にホッとしたように呼びかけながら、大粒の涙を流した。


「ベ…ベントソン卿…ッ」

「おいおい。本当に迷子になったのか?」

「す、す…すみません」


 キャレはひどく心許なげにしょんぼりと謝る。

 その姿にルーカスは少しだけ危惧を抱いた。


 近侍の中ではキャレは正直、出来の悪い部類だった。

 剣術や体術といった武芸全般もそうであったが、聞くところによると勉学の方でもあまり振るわないらしい。はっきり言って劣等生ではあったが、アドリアンからはそれなりに気に入られているようだ。

 ただ、気に入られ方、にも色々とある。


 キャレの容色は悪くない。

 いつも自信なげにしている姿はひ弱でもあったが、反面、守られるべき存在としては、ある種、男にとって庇護欲をかきたてるものがあるだろう。


 近侍と主の間の疑似恋愛は、正直なところ古くからあって、結婚前の貴族の若君が女のことで問題を起こさぬための防波堤として、認められてもいる。

 ただキャレを見ていると、妙な危うさを感じる。

 悲愴感というか、何か切羽詰まったものを感じさせるのだ。

 それがアドリアンに対して、何かしらの不都合を生じせしめるのではないか…と危惧させる。


「なんだって、こんな時間にこんなところにいるんだ?」


 問いかけながら、キャレが胸に抱く本が目に入った。えらく分厚い本だった。


「なんだ? 図書室にでも行ってたのか?」

「は…はい。すみません」

「なんでまた? 明日にでも来ればいいだろうに」

「ちょっと…急に調べたいことがあって……すみません」

「謝らなくてもいいが、燭台も持たずに歩き回って……だから迷ったんだろう?」

「え…? あっ、燭台」


 ルーカスはあきれた。

 どうやら燭台を図書室に置き忘れてきたらしい。


「おいおい。危ないな。本の置いてある部屋に火器を持ち込んで忘れるなんて。もし、火事にでもなったら、お前が一生働いても返せないかもしれんぞ」

「す、すみませんっ」


 あわてて踵を返そうとするキャレに、ルーカスは「待て、待て」と呼びかけた。


「いいから、お前はもう部屋に戻りなさい。これを貸してやるから」


 燭台をキャレに渡し、ルーカスは図書室へと向かうことにした。どうせ目が冴えているので、眠気を呼び込むための本を数冊借りていくつもりだった。


 キャレは受け取ってから、何か言いたげにルーカスを見つめる。


「どうした?」

「あ、あの…さっき、図書室で人に会って…」

「は? この時間に?」

「はい。僕もびっくりしたんですけど、さっき、あの…弓の…あの人……綺麗な顔をした方です」


 キャレは言いながら、どうして名前が出てこないのか不思議だった。しかも綺麗な顔と言いつつも、その印象すらもまたぼやけてきているのだ。


 だがルーカスはそのキャレの言葉と態度で、すぐさま彼の名前を言い当てた。


「ヤミ・トゥリトゥデス卿か」

「あ、はい。そうです」


 キャレが頷くと、ルーカスはニヤリと笑った。

 キャレは訳がわからなかったが、理由を聞いても言ってくれない気がした。


「それじゃ…ありがとうございます、ベントソン卿」

「おう。子供は夜更かしせずに寝ろよ」


 ルーカスは暗い廊下を去っていくキャレを見送ったあと、図書室へと足早に向かった。

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