第二百七十話 エラルドジェイの稽古(2)

 賭け(?)に負けたエラルドジェイは、とうとう手抜きなしで修行につき合う羽目になったが、そうなると今度、音を上げたのはオヅマのほうだった。


 エラルドジェイはルミアと同じで、何かを手取り足取り教えることはしない。

 稽古の種類もただ一つ、実戦を模した剣撃だ。

 ひたすらオヅマがエラルドジェイ相手に打ち込んでいき、確実な打撃 ―― 本物の剣であれば、行動不能となり得るような攻撃 ―― を与えるまで続けられた。


 早くて二刻(*二時間)、長くなると三、四刻近く、ぶっ通しだ。休憩なんてもちろん与えられない。少しでも隙を見せれば、容赦なく打ち込まれる。

 精巧に作られたとはいえ擬似剣なので、むろん斬られるようなことはないが、打ち身やちょっとした切創は日常茶飯事だった。


 しかも騎士団と大きな違いは、稽古の場所。

 エラルドジェイの気まぐれで決まるその場所は、おおよそ稽古場としてはそぐわないところばかりだ。

 豆猿まめざるたちが去った後の林立する木立の間、川に点在する不安定な岩場の上、天井の低い洞窟の中なんてこともあった。およそ平地の開けた場所なんてことはまずもってない。

 時間も雲雀ひばりが鳴き始める早い朝のときもあれば、午後のうだるような暑さの中で開始されることもあったし、曇り空で星も出ていない新月の闇夜なんてこともあった。むろん、この時期のズァーデン地方では珍しい雨が降った日も関係ない。


 今日の訓練は一つ山を越えたところにある鍾乳洞の中だった。

 狭くはないが、松明たいまつで照らされている場所以外は暗く、あちこちに身を潜ませるのにちょうどいい穴があった。しかも水が一滴落ちるだけでもかなり反響し、隠れられると位置が掴みづらい。

 エラルドジェイはその特性をしっかりと活かして、わざと石を壁にぶつけたりしてくるから、本当に厄介だった。


「……あんたもこういう修行させられたの?」


 稽古が終わったあと、オヅマは尋ねた。

 エラルドジェイは岩の間から流れ出る岩清水をゴクゴクと飲んでから、口を拭いながら少し上を向いて思案する。


「まぁ、そうかな」


 エラルドジェイにこうした稽古をつけてくれたのはニーロだった。

 いかつい外見からは意外に思われがちだったが、わりと細かい性格で、理屈っぽかった。稽古を始める前には目的と理由を教えてくれたし、終わったときには改善点も指摘してくれていた。

 もっとも、それをエラルドジェイが理解していたかといえば……


「なんかごちゃごちゃ言ってたけど、一応、教えてもらってたんだろうな」


という、故人が聞けばガックリ肩を落とす結果ではあるが。


「へぇ。ルミアはあんたがシューホーヤの体術を身につけてるんだろう、って言ってたけど、そういうの?」

「うーん? よくわかんねぇ…」


 続くオヅマの質問にもエラルドジェイは首を傾げるしかない。

 シューホーヤは西にある山岳一帯を根城とする民族で、彼らの中でも戦士と呼ばれる者たちは並外れた運動能力を持つ。柔軟性をいかした独特の体術が伝わっており、そのためシューホーヤの戦士は、ある国では要人警護、ある国では傭兵部隊、また別では暗殺者として重宝されている。


「でも、シューホーヤの人間じゃなかったな。見てくれからすると」


 黒い艶のある肌と、橙色の瞳、縮れた金髪を数十本近く細かい三つ編みにして、巻布ターバンの中に纏めているのが、多くのシューホーヤの民の姿だ。赤毛の典型的な帝国人顔のニーロには当てはまらない。


「まぁ、ヤツがシューホーヤの人間に教えてもらったりはしてたかもしれねぇけど」 

「ふぅん。じゃあ、あんたのお師匠さんて元戦士か何かだったの?」

「……随分、興味津々だな」

「そりゃ、そうだろ。聞いたことないんだから」


 オヅマは言いながらでのことを思い出していた。

 一緒に旅したときも含めて、エラルドジェイの強さに脱帽しながらも、彼がいったいそれをどうやって身につけたのか、など訊いたことはなかった。仕事をこなす中で、自然と強くなっていったんだろうと、勝手に思っていたから。


 エラルドジェイはオヅマの言い方にかすかな違和感を覚えつつも、ポリポリと耳裏を掻いて思い出す。


「戦士…とは聞いてないな。どっかの貴族の隠密組織にいたって話は、聞いた気がするけど」

「隠密組織?」

「そ。弱小貴族なんかはさすがに無理だけど、そこそこの政治的影響力のある貴族なんかは、私的な諜報組織みたいなの? そういうのをんだよ。どこの貴族だったとかは忘れたけど、最終的には代替わりしたときに新しい主人が合わなくて、そのまま抜けた…みたいなこと言ってたな。ま、酒入ってたから、どこまで本当かわかんないけど」


 ニーロが貴族からの仕事にあまり乗り気でなかったのは、おそらくそこでの経験もあるのだろう。手痛い裏切りでもあったのか、あるいは単純に金払いが悪かったのか。

 いずれにせよ、そこそこ義理堅い男を失望させる何かがあったのは確かだ。今となっては、もう訊くことなどできないが。


「それって、グレヴィリウスにもあるのかな?」


 オヅマは少しばかり考え込む。

 そんなものがあるとは、ルーカスからもヴァルナルからも聞いたことがない。

 しかしエラルドジェイはヒラヒラと手を振った。


「そりゃ、大グレヴィリウス公爵家にないわけないだろうぜ~」

「でも、俺、会ったことないぞ」


 真面目くさって言うオヅマにエラルドジェイは大笑いした。


「ハハハハッ! 堂々と俺は影の組織の一員ですって、名札つけて歩いているわけじゃないからな。普段は普通に仕事してるんだろうよ。従僕とか、庭師とか、あとは馴染みの商人だったりすることもあるし……騎士の中にだっているだろう」

「騎士に?」

「そういう可能性もあるって話」


 オヅマは神妙な顔になって、黙り込む。

 もし、そういう組織がグレヴィリウスにあるとして、おそらく彼らは公爵直属なのだろう。だとすれば将来的にはアドリアンにも関わってくる話だ。いずれハヴェルとの後継争いは本格化する。そのとき、彼らを手中に収めておかねばならない。あちらにつくようなことになったら…。


 そんなオヅマの心中を読んだのか、エラルドジェイがニヤリと笑った。


「そういう奴らの特徴、教えてやろうか?」

「……え?」

「日常でも音をたてない」

「音をたてない?」

「足音がしない、とか。スープを飲むときも、啜る音はもちろん、スプーンが皿にこすれる音もしない。なにせ音をたてないことが自然になっちゃってるような奴は、けっこうな割合で、そういう部類の人間である可能性が高いんだよな。癖だな。もう職業病ってやつ? だから、気配がないんだよ」

「……いきなり背後に立たれて、びっくりしちゃったりして?」

「そうそう。あと、印象が薄い。会ったら思い出すのに、なぜか記憶に留まりにくいヤツ。知らない間に軽く暗示でもかけてんのかねぇ、アレ。たぶん諜報活動のときに、痕跡が残らないようにするためだろうな」


 オヅマは記憶をって、探す。

 使用人も含めて、オヅマが思い出せる限りの公爵家と関わりのある人間を、ゆっくりと丹念に思い返す。


「あ……」

「お、いたか?」

「いた…一人、それらしいのが…」


 騎士としての訓練を受けて、そこそこ気配に敏感なオヅマをもってしても、いつの間にか背後に立たれて何度か驚かされた人間。

 何度も訓練につき合ってもらい、そこそこ面識があるはずなのに、会う度に「こんな顔してたっけ?」と、なぜか見とれてしまう男。今の今まで、しっかりと記憶を手繰たぐってこないと、その姿も顔も、まったく。あんなに目立つ容貌をしておきながら。

 もしがそうであるなら、今更ではあるが、ルーカスの意図もわかる。


「そうか…そういうことか……」


 オヅマはボソリと独りちた。

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