第二百六十三話 グレヴィリウス家の夜会(10)
キャレはしばらく目をつむったままだった。
すぐにも兄に頬を
どうしたんだろう?
キャレがそろそろと目を開けると、なぜかそこにはエーリクがいた。しかもセオドアが振り上げた手を、しっかと掴んでいる。
「この子は小公爵さまの近侍ですよ。おわかりですか?」
低く、剣呑としたエーリクの声を、キャレは初めて聞いた。
日頃は無口で無愛想ながらも、基本的にエーリクは穏やかな人だ。声を荒げることもしないし、苛立たしく舌打ちするなんてこともない。
だが今は、小さい
セオドアはいきなり現れた闖入者に苛立ちをみせたが、すぐにそれがキャレと同じ近侍の一人と気付くと、ヘラっと笑った。
「いや…誤解をなさっているようだ。私はこの子の兄でしてね」
「兄?」
「とりあえず手を離していただこうか?」
セオドアはエーリクの手を振り払うと、ジロリと睨み上げる。
「失礼だが、貴殿は? 弟と同じ近侍の方とお見受けするが」
エーリクはキャレのぐしゃぐしゃになった髪を見て、眉を寄せた。同時に目の前の男が同じ髪色であることを確認する。
「エーリク・イェガと申します」
硬い声で答えると、セオドアは軽く驚いたようにうめいた。
「おぉ…イェガ男爵家の。存じております。確かハヴェル様と婚約された…」
「婚約したのは妹です」
セオドアの差し出した話の接ぎ穂を、エーリクは頓着することなく切り捨てる。セオドアはやや鼻白んだ顔になったが、無理に笑顔を貼りつかせた。
「ハハッ! それは勿論そうです。イェガ男爵家の方々とは懇意にしたいと思っておりましたので、こうして知遇を得ることができて嬉しい限り」
セオドアは上機嫌で言ったものの、エーリクの表情は変わらなかった。
「なぜキャレの頭を掴んでいたのです?」
硬い声で問いかけると、セオドアは侮蔑も露わにキャレを見て、半笑いで言った。
「おやさしいことですな、エーリク公子。しかし生意気な弟を正す責務が兄にはございましてね。エーリク公子も、兄君たちに幾度となく叱責されたことはおありだと思いますが…?」
「叱責? キャレが何かしたのですか?」
エーリクが真面目くさって尋ねると、セオドアは苛立ちを眉に浮かべた。
「無礼を無礼とも弁えぬ者です。ほかの方々にご迷惑をかける前に矯正しておくのが、オルグレン家の長子である私の責務です」
セオドアは傲然と言い放って、またキャレをジロリと見据える。
キャレが身を竦ませると、エーリクはキャレを庇うようにセオドアの前に立ち塞がった。
「おや? 他家の事情に口出しなさると?」
セオドアは腕を組み軽い口調で言ったが、エーリクをじっとりと見つめる瞳は、蛇のそれであった。
キャレはエーリクの後ろから二人の様子を怖々と窺っていたが、ふと見れば、エーリクの手は少し震えていた。
大柄なエーリクは、セオドアの背を超えてはいたが、それでもまだ子供だ。大人相手に意見するなど、相当の勇気が必要だろう。まして相手が悪意しかないならば、特に。
それでも顔だけは、いつものように平静だった。あるいはこうしたときに動揺を悟られぬために、普段から無愛想にしているのだろうか…?
二人はしばらく睨み合っていたが、やがて開いた窓から聞こえていた楽曲が変わると、セオドアは肩をすくめて言った。
「公爵閣下がおみえになるようだ。これにて失礼するとしよう。キャレ、わかったな? くれぐれも目立つことのないように」
最後に『隅に引っ込んでいろ』と念押しして、セオドアは立ち去った。
エーリクはフゥと深呼吸すると、キャレに向き直った。
「お前、本当に兄なのか? あの…人は」
キャレはしばらく黙り込んでいた。
一応、礼を言うべきなのだろう。エーリクのお陰で兄に殴られずに済んだのだから。
けれど、正直なところ余計なお世話だった。
殴られることなどいつものことでキャレは慣れていたし、人目を気にする兄であれば、夜会という場において、怪我になるような酷い目に遭わせることはなかったろうから。
それに何より、兄に虐げられている自分を見られることのほうが、よっぽどキャレには恥ずかしかった。いっそ見て見ぬふりしておいてほしいくらいだ。
「聞いた通りです。兄に生意気なことを言ったんです。それで叱られていただけです」
すげなく言うキャレに、エーリクはムッと眉を寄せる。
「俺だって兄がいるし、生意気だって、拳骨を食らうことだってある。だが、あの人は…まるで、お前を一方的に虐めてるみたいだ」
キャレはギリッと唇を噛み締めた。
兄の理不尽な言葉や暴力よりも、エーリクの同情がキャレを惨めにさせる。
そのことに気づかないエーリクに、それこそ理不尽な怒りが沸き立ってくる。
「わ……僕は、ちゃんとした子供じゃないですから」
キャレが自分を嘲るように言うと、エーリクの表情に戸惑いが浮かんだ。
「嫡出の子じゃないから、理不尽な扱いを受けても当然だって言うのか?」
「そうですよ!」
キャレは噛みつくように叫んだ。
エーリクの考える『正しさ』が、キャレを一層追い詰める。だがファルミナにおいては、その『正しさ』は間違っていた。
時々、キャレたちの扱いについて、父やセオドアに物申す人もいた。けれど、そうした人々は皆、口にした次の日にはいなくなった。
あそこでは父やセオドアだけが『正しい』のだ。
「なんですか、今頃になって。僕が庶子だってことも、オルグレン家から見放されてるってことも、知っていたでしょう? この服だって、どうして小公爵さまからの頂き物を着ているのか…。今まで何も言ってこなかったくせに、どうして今、そんなことを言うんですか?」
エーリクは急に饒舌になって、舌鋒鋭く詰め寄るキャレに、圧倒されていた。
なんだか妹に怒られているような気分になってくる。
昔、妹のお気に入りの人形の足を引き千切ってしまって、凄まじく怒鳴りつけられて泣き喚かれたときと似ている…。
「それは…その……よくわかってなかったっていうか…」
弁解するようにボソボソと言うと、キャレはますますいきり立った。
「わかってないんじゃなくて、興味なんかなかったんでしょう? エーリクさんが興味があるのはイクセル(*エーリクの馬)のことと、剣術のことぐらい。その次に小公爵さまがいて、私のことなんて、ずっとずっと…ずーっと先の先の、いるのかいないのかわからないぐらいで……だったら、そのまま放っておけばいいじゃないですか!」
エーリクは呆然としつつ、激昂するキャレを見つめていた。
キャレの言う通りだった。
今までエーリクにとって、キャレは近侍の一人というだけの存在だった。
エーリクと並んで無口な上、引っ込み思案で、騎士の訓練でも勉強でも、とにかく不器用で、正直、見劣りする存在だ。
だからきっと無意識に、エーリクはキャレという子に価値を見出していなかった。小公爵様を守る盾としての役割を、キャレには期待していなかった。存在があることをわかっていながら、無視していたのだ。
エーリクは途端に自分がものすごく悪いことをしていた気がした。もしかすると、さっきキャレに対してひどいことを言っていたあの男よりも、自分はもっと冷たかったかもしれない。
「その…すまなかった」
エーリクは反省してすぐに謝ったが、キャレは受け入れなかった。
「謝ってもらう必要はありません。私…僕も、放っておいてもらいたかったから。これまでと同じように接してもらえばいいです」
あまりに頑ななキャレに、エーリクは閉口した。とはいえ、この状況を放っておくことはできない。ここで放り出したら、今度こそエーリクは故意に無視したことになってしまう。
そのまま横を通り過ぎようとしたキャレの腕を、あわてて掴んだ。
「待て。もし困ってるなら、一度、小公爵さまにも相談して ―――」
あまりにも能天気なエーリクの提案に、キャレの怒りが飽和した。
荒々しくエーリクの手を振り払うと、さっさと小部屋に入る窓へと向かう。中に入る把手に手をかけたときに、また肩を掴まれ、キャレは心底苛ついてエーリクに怒鳴りつけた。
「放っておいてくれって、言ってるでしょう!!」
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