第二百六十四話 グレヴィリウス家の夜会(11)
キャレは部屋に入るなり、自分が注目されていることに気付いた。しかもひどく間の悪いことに、目の前には驚いた顔で固まっているアドリアンがいる。
「あ……」
冷水を浴びせられたかのように、キャレは我に返った。
一気に血の気が引く。
だが、もっと困ったのはアドリアンの顔を見た途端に、涙が出てきてしまったことだった。
「…何があった?」
アドリアンが尋ねると、エーリクはアドリアンの前に進み出て、深々と頭を下げた。
「お騒がせして、申し訳ございません。その…」
エーリクは迷ったが、結局は頑なに拒んだキャレの意思を汲んだ。だが、適当な言い訳も思い浮かばない。
「特に、何もありません」
何の説明にもなってない答えに、マティアスは眉を寄せたが、アドリアンはすぐに頷いた。
「あぁ、そう。じゃあ、いい。……それでテリィ、おいしいのはどれって?」
何事もなかったかのように、クルリとキャレ達に背を向けて、テーブル近くにいたテリィに声をかける。
テリィは緊迫した状況に目を丸くしていたが、アドリアンに朗らかに尋ねられて、ハッと我に返った。
「あ、あの…ハイ、これです」
「じゃあ、食べよう。エーリクと、キャレも。お腹が空いていると、気が短くなってしまうっていうからね」
言っている間にも、ベランダ側のテーブルにはなかった料理を目指し、チラホラと食いしん坊貴族たちが部屋に入ってくる。
アドリアンは皿に手早く数品を盛って、キャレのほうへと向かった。
「え…?」
キャレはどこか気まずくて、皆から離れた壁際に立っていたのだが、近づいてくるアドリアンに困惑しておどおどと目を泳がせた。
アドリアンはキャレの前に立つと、手に持っていた皿を「はい」と差し出す。キャレは目をしばたかせ、アドリアンをぼんやりと見つめた。
「キャレの好物のさくらんぼのタルトもあったよ。その海老と何かのムースのパイ包みはテリィのオススメだ。何か、がどんなものかは食べて確認するしかないけど」
アドリアンは少しおどけたように言って、朗らかに笑う。
キャレはますます目が離せなかった。優しい光を宿した
「あれ? 違ったっけ? さくらんぼのタルト、好きだと思ったんだけど」
「いえ…」
キャレはさっと指で零れそうになった涙を拭うと、皿を受け取り、さくらんぼのタルトを一口食べた。
「……美味しいです」
ようやくキャレは笑えた。
アドリアンも微笑む。
タルトを食べながら、キャレは初めて兄に感謝していた。
兄の思惑がどうあれ、こうしてアドリアンに出会えたこと。それがキャレにとって、何よりの喜びだ。
***
一方、他の近侍たち ――― マティアス、エーリク、テリィの三人は、微妙な表情でキャレとアドリアンの様子を窺っていた。
「なにがあったんだ? 結局は」
マティアスが怪訝にエーリクに尋ねたが、やはりエーリクはうまく言い繕えなかった。
「ちょっと……」
「なにその気になる言い方」
テリィは肩をすくめると、大口を開けて海老と何かのムースのパイ包みにパクつく。今日はこれで五つは食べている。このパイ包みは人気のようで、もうあと三つほどしか残っていなかった。
「あ、先にあと一つもらっておこう…」
まだ手元の皿に一つ残っているというのに、テリィはまたそのパイ包みを取ろうとして、トングに手を伸ばした瞬間に、横から掠め取られた。
「おい!」
ムッとなって叫んだのは、そのトングを取ったのが自分よりも小さな女の子だったからだ。
「ぼっ、僕が先に取ろうとしていたんだぞ!」
しかし女の子の方は、そんなテリィをジロリと見て、吐き捨てるように言う。
「先に取られたのは、あなたが鈍臭いからでしょ」
「な、なにっ?」
「なぁに? こんなところで大声出して。みっともなーい」
いかにも憎らしげな口調で言いながら、女の子はトングを素早く動かして、残っていたパイ包みをすべて取ってしまった。
「あっ! オイ! かっ、勝手に全部取るな!」
「どうしてよ? 私は自分の分以外に、お兄様の分も取ってあげてるんだからね」
「そっ、そんなの知るか! 僕が一切れ取ろうとしてたんだ!」
「あなた、もう皿に一つ乗っているじゃないの!」
テリィよりも明らかに年下 ―― おそらく十歳前後 ―― であろうが、女の子は口達者だった。
気の強そうな青い瞳と、今日の日のためにとキツく編み込み、結い上げた
二人の小さな喧嘩に大人たちは少々あきれ顔ながらも、どこかしらほのぼのと見ていたが、一人ゲンナリした顔になったのはエーリクだった。
「どうした?」
マティアスが尋ねると、エーリクは「いや…」と軽く首を振ってから、
「すまないが、ちょっと、これ持っててもらえるか?」
と、皿を預けた。
「なんだ?」
首を傾げるマティアスを置いて、エーリクはテリィと言い争いをしている少女のほうへと歩いて行く。
「ルイース」
いきなり背後から野太い声で呼びかけられて、女の子はビクリと震えた。皿に乗ったパイ包みが跳ね上がる。もう少しで落ちるところで、女の子は上から蓋するように手で押さえつけた。
「ちょっと! エーリク兄さん。いきなり声かけないでよ。びっくりするじゃない!」
「兄さん?」
テリィが驚いたように、エーリクを見上げる。
「なに? 君の妹?」
「あぁ。ルイース、こちらは俺と同じく近侍のチャリステリオ・テルンだ。ちゃんと挨拶しろ」
「あらまぁ」
ルイースは驚いたように言ってから、目の前で皿の上のパイ包みをパクリと食べた。
「おい! なっ…なんで食べるんだ!」
「私の皿にあるものを食べて何が悪いのよ」
「なっ…なんて口の利き方だ! ぼ、ぼ、僕は…っ、てっ、テルン子爵家の嫡子だぞ!」
慣れない人間に対して、テリィはどうしてもどもってしまう。その上、怒っているので、ますます症状がひどくなった。
そんなテリィにルイースは小馬鹿にしたように、それでも一応兄の顔を立てて挨拶した。
「まぁ、そうでしたの。気付きませんでした。ルイース・イェガと申します、テルン公子。それにしても、ずいぶんと口が震えておいでのようですわね。そんなことでは、せっかくのおいしいパイが口の端からボロボロとこぼれてしまうんじゃないかしら?」
ルイースの辛辣な指摘に、テリィは自分でも気にしていたから尚の事、恥ずかしさと怒りで、もう首まで真っ赤になった。
妹の背後で苦い顔のエーリクに、半泣きで抗議する。
「おい! エーリク! ちょっとひどいんじゃないのか、君の妹」
「………すまん」
「謝る必要なんてないわよ、エーリク兄さん。この人、ベランダ側のテーブルでも、このパイ包みをたらふく食べていたんだから。それで、こっちに残ってるかと思ってきたら、こっちでも漁ってるなんて……さもしいったらないわ!」
「なっ! なっ!」
テリィは怒りすぎて、もはや言葉も出なかった。茹でられたように真っ赤になるテリィを見て、ルイースはあきれたように笑った。
「まぁ! 嫌だ。子爵家の跡継ぎになる人が、年端もゆかない女の子相手にプリプリ怒るなんて…品位はどこに置いてこられました?」
「いい加減にしろ」
あまりに嫌味な妹の物言いに、エーリクが軽くその頭を小突くと、挿してあった髪飾りが落ちた。
「きゃあッ! ひどい!! 何するのよ!?」
ルイースは金切り声で兄を怒鳴りつけた。
エーリクはますます面倒になったと、苦虫を噛み潰したような顔になる。
「……悪い」
ボソリと謝ったが、ルイースの怒りは収まらない。
皿を荒々しくテーブルに置くと、エーリクに詰め寄った。
「この髪を結い上げるのにどれだけ時間がかかったかわかってるの? 今日は朝早くから湯浴みして、マーサとロッティとエッカたち三人がかりで髪を洗って乾かして、朝ごはんをつまみながらドレスを着て…」
噛みつかんばかりの剣幕で言い立てる妹に、エーリクは閉口した。
こうなると怒るだけ怒って、疲れて鎮火するまで何もできない。
しかし、その噴火した火山みたいになっているルイースの肩を、そっと叩く人がいる。
エーリクはハッとしたが、止める間もなかった。
「なにっ?」
ルイースは怒りのままに振り返り ――― 固まった。
「これ。落ちたままだと踏まれるから」
穏やかに言ってルイースの髪飾りを差し出したのは、アドリアンだった。
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