第二百五十九話 グレヴィリウス家の夜会(6)

「お久しゅうございますなー! 小公爵様!!」


 あたりを憚らぬ大音声が響いた。

 周囲の耳目が自分に集まるのにも臆する様子もなく、大股に近づいてくるなり、ガハハと笑ってポンポンとやや強めにアドリアンの両肩を叩く。


「いやぁ、大きくなられた! この分ですと公爵閣下も超すのではありませんかな? ハッハッハッ」


 恰幅のいい大きな体を揺らして笑う老人は、テリィの祖父であるグレーゲル・アートス・テルン子爵。フサフサとした癖の強い白髪頭には、テリィと同じ柑子こうじ色の髪が混じっている。


 アドリアンは元気な老人のやや痛い挨拶に苦笑した。

 嫌われ者の小公爵に対し、形ばかりの挨拶で去っていく貴族が多い中で、テルン子爵はアドリアンがまだもっと小さい頃から唯一、気さくに声をかけてくれる気のいい老爺だった。ただ、この大声と、力加減を間違えた挨拶には、いつも閉口させられる。


「久しいな、テルン子爵。身体からだはもうよくなったのか?」

「うん? からだ? 吾輩は至って健康にございますぞ。四年後も余裕で一旬節いちじゅんせつを迎えるでありましょう!」


 一旬節を迎える…とは、八つの色と八種類の鳥からなる年の組み合わせが一巡して、自分の生まれ年が再び訪れたことを言う。六十四歳を迎えた老人は皆、この区切りを祝い、自慢するのだ。

 近隣諸国に比べて帝国の医療水準は高いものの、それでも赤子や幼児の死亡は多く、平均寿命は低い。成長して大人になったとしても、数年前にまだ南部の戦役などもあったことから、長生きできる者は少なかった。


 アドリアンは相変わらず壮健な老子爵を頼もしそうに見てから、ようやっと姿を現したテリィにあきれた眼差しを向けた。やはりこの前、一時休暇をもらうために、祖父の世話云々と言っていたのは、適当な方便だったようだ。


 隣に立っていた老子爵はフンと鼻息も荒く、大声で孫を呼ばわった。


「チャリステリオ! なにをしておる!! 早く来んか!」


 テリィは息がきれたのか、途中で一度立ち止まって荒い呼吸を整えていたが、祖父にまた怒鳴られると、あわてて小走りにやって来た。何かを食べている途中だったのか、口がモゴモゴ動いている。


「チャリステリオ。食べながら走るなど、みっともないぞ」


 マティアスは本当は怒鳴りつけたいくらいであったが、周辺で聞き耳をたてているであろう貴族連中の前で面罵するのはさすがに控えた。また泣かれでもして、これ以上の耳目を集めるのは面倒と考えたからだ。


「だって…だって…お祖父じいさまが、きゅ、急に小公爵さまに挨拶したいとか言って、行かれるから…」


 テリィの言い訳を遮って、テルン子爵がまた大きな声で、今度はマティアスの肩をバンバンと叩いて誉め称えた。


「いや、さすがはブルッキネン伯爵のご子息! 母上に似て、しっかりしておられる。ウチの凡愚な孫とは比べ物にならん! 伯爵夫人もさぞお喜びでありましょう。小公爵様はもう彼女には会われましたかな?」


 老子爵の問いかけにアドリアンが首を振ると、マティアスは妙に落ち着かぬ様子で、早口に説明した。 


「母は来ておりません。領地にて馬車の事故に遭い、療養しておりまして」

「なんと! それは大変ですな…ご夫君はあまり頼りにもできぬでしょうに」

「一応、怪我が治るまで、外に出ることはできませんが、決裁などの座ってできる仕事はしておりますので」

「おぉ…さすがさすが。さすがは公爵夫人の…」

「テルン子爵!」


 マティアスはあわてた様子で、子爵の言葉を遮ると、アドリアンに向き直った。


「小公爵さま、空腹ではございませんか? ベランダのほうに食事の用意が…」

「マティアス…」


 アドリアンはさすがに不自然なマティアスの言動に、怪訝な顔で問いかける。


「何を隠そうとしている?」

「何も…隠してなどは…」


 アドリアンはしばらく押し黙ってから、老子爵に問いかけた。


「テルン子爵、さっき言いかけていたのは、どういうこと? 公爵夫人というのは、僕の母上のことか?」


 老子爵はやや緊張を帯びた雰囲気に、目をパチクリさせながら、アドリアンの問いかけに頷いた。


「左様でございます。ブルッキネン伯爵夫人は昔、公爵夫人の侍女でありました。とても有能で、公爵閣下にとってのベントソン卿同様、ブラジェナ嬢は公爵夫人の右腕と呼ばれておりました。あの頃は才気煥発な公爵夫人の打ち出す施策に、我らは振り回されつつも、何とも充実した…楽しい日々にございました」


 テルン子爵は先代の公爵の時代から引退するまでの間、公爵家領内で主に土木・営繕などを管轄する工部の任にあった。当時のことを懐かしく語る老子爵の顔は、どこか誇らしげでもあった。


 一方でマティアスは軽く溜息をついて、眉を寄せる。


「公爵閣下から、そのことについては申し上げることのないようにと、厳命されているのに…」

「ホッ、そのようなこと。こうして貴君が小公爵様の近侍となるを認められたのです。公爵閣下もお許しあってのこと。もはや気にする必要なぞない」

「そうでしょうか……?」


 マティアスは心細げにつぶやき、チラリと高座の上の公爵を窺った。

 アドリアンも同じように見やる。


 老子爵の大声が聞こえてはいたのだろう。

 接見しつつも肘掛けに頬杖をついて、鳶色とびいろの瞳がどんよりとこちらを見ていた。背後に控えるルーカスが、やや困ったような苦笑いを浮かべている。

 老子爵もまた体をひねって公爵を見ると、茶褐色のどんぐり眼を大きく開いて下唇を突き出し、まるでフナのようなトボけた顔をしてみせた。

 公爵が軽く眉を寄せ、視線を逸らす。

 老子爵は肩をすくめ、クルリとアドリアンに向き直った。


「ふむ…されど公爵閣下におかれては、やはり面白くござらぬようですな。老人の昔話はここまでにしておきましょう。優美にして剛毅なる鹿(*グレヴィリウス公爵の意)の不興を買って、我が孫が小公爵様の近侍から外されるようなことがあっては、元も子もない。では、失礼」


 来たときと同様に、老子爵は唐突に去っていった。


 どうやらテルン子爵はこれまでも、公爵の機嫌を見極めてアドリアンと接触してきていたらしい。(理由はわからないが)マティアスの母であるブルッキネン伯爵夫人のように、公爵に目をつけられて、アドリアンから遠ざけられないように。

 その匙加減がわかるのは、やはり長年に亘って公爵家で勤めてきたからだろうか。


「ただの声の大きいお爺さんと思っていたけど、やっぱり一筋縄ではいかないな」


 アドリアンは子爵の大きな背中を見送りながら独り言ちた。


「小公爵さま…」


 心配そうに呼びかけてくるマティアスに、アドリアンはそれ以上、詳しく聞こうとは思わなかった。訊いてもマティアスにはきっと答えられないのだ。


「確かにお腹が空いてきたし、軽く食べに行こうか。テリィ、何がおいしかった?」


 祖父に置いていかれて、どうすればいいのかと目を泳がせるテリィに声をかける。


「あ…そ、それならやっぱり海老と何かのムースのパイ包みか、もっとしっかり食べたいなら、か、軽くローストした鴨でなにかを巻いた…」

「『なにか』ばっかりじゃないか」


 マティアスがあきれたように言う。

 アドリアンは笑って二人を促した。


「じゃあ、食べに行こう」

「あっ、それならベランダ側のテーブルよりも、東の小部屋のほうが人も少ないんで、まだ残ってると思います」

「お前、テーブルを見回っていたのか…」

「あらかじめ偵察していてくれて助かるね」


 いつものような会話になりながら、テリィの案内で東にあるパーティションで区切られただけの小部屋に入ると、確かに広間の中心から少し離れた場所にあるせいか、人気はほぼなかった。従僕が数人、控えているだけだ。


「あ、これこれ。これがおいしかったんです~」


 テリィがお目当ての料理を見つけて、足早に近づこうとしたとき、バルコニーのある窓のカーテンが荒々しく揺れ動いた。


「放っておいてくれって、言ってるでしょう!!」


 ひどく苛立たしげな甲高い声。アドリアンを始めとしたその場にいた人間が、驚いて声のしたほうに目を向ける。


 大きく揺れるカーテンの間から姿を現したのは、キャレとエーリクだった。

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