第二百五十八話 グレヴィリウス家の夜会(5)
公爵の短い挨拶が終わると、アドリアンは早々に高座の上から退場した。
そこではこれから本心を見せぬ貴族たちの、美辞麗句を使った化かしあいが行われるのだ。
小さい頃から、アドリアンはこの一種異様な緊張感を持った大人たちの応酬が苦手であった。幼い頃は意味がわからないままに聞いていて、それでも何かしら彼ら ―― 特に父である公爵 ―― の言葉に、押し潰されそうな圧力を感じて、それだけで息が詰まりそうになることもあった。意味が少しずつわかるようになると、それはそれで、やはり疲れた。
以前は青い顔をしたまま黙って耐えていたのだが、去年になってようやく、アドリアンはその場から逃れるということを覚えた。(その行動の変化を及ぼしたのは、レーゲンブルトでの生活であったのは言うまでもない)
内心、いつ怒られるかとハラハラしながらも、短い階段を降りて振り返れば、目の合った父の表情に変化はなかった。
その後になっても注意されなかったので、アドリアンは拍子抜けしたが、おそらく自分があそこに居ようが居まいが、大して意味もないのだと理解した。なので今回は特に気にもせず、高座から降りた。
「小公爵さま」
すぐさま寄ってきたのがマティアスであったので、アドリアンはホッと息をついた。
「マティ、どうしたんだ? 今日は家族と過ごせばいいと言ったろう?」
「はい。いえ、先程まで小公爵さまがその…グルンデン侯爵夫人と何か…その…」
言いにくそうにするマティアスに、アドリアンは微笑んだ。
「心配してくれてありがとう。大丈夫だよ。いつものことだ」
いつものこと ――― そうは言っても、上品な言葉にまぶされた悪意に慣れることはない。
自分に言い聞かせるように言うアドリアンに、マティアスは一瞬、同情の眼差しを向けたが、それこそ小公爵には嬉しくないことだろうと、表情を引き締めた。
「父が小公爵さまにご挨拶をしたいと申しまして、連れて参りました」
言いながら、自分の後ろに立っている男を紹介する。
マティアスと同じターコイズブルーの瞳に、小柄で猫背気味の、丸っこい顔。乳白色の髪は柔らかく癖が強いようで、しきりと頭頂部を押さえつけるようにして撫でていたが、アドリアンに向かってお辞儀したときに、甲斐なくモワンと膨れ上がった。
「あ…」
アドリアンは思わず声が出た。
さっきから頭を触っているものだから、自然と目がいってしまっていたのだ。
マティアスの父はアドリアンの顔を見て、「ハハハ」と気弱そうに笑った。
「すみません。今日は雨が降っていたせいか、どうにも言うことを聞いてくれませんで…」
「だから油をつけて、整えるようにと…母上も
「あれはにおいがキツイ。ワインがおいしく飲めなくなるじゃないか」
「そんなことどうでもいいでしょう! まったく、父上は…」
いつものごとく、マティアスは実の父に対しても口やかましい。しかし息子のお小言にも馴れているのか、マティアス父は飄々としたものだった。
再び胸に手をあてて、恭しくアドリアンに辞儀する。
「お初にお目にかかります。マティアスの父の、アハト・タルモ・ブルッキネンと申します」
「初めまして、ブルッキネン伯爵」
挨拶しながらアドリアンは不思議だった。
帝都に来て、家門の関係者を集めた夜会が開かれるのは恒例行事で、アドリアンはそれこそ乳母に抱っこされていた頃から出席していたが、目の前の伯爵の姿を見た覚えがなかった。伯爵以上は、さすがに数も多くないので、この数年の間であれば一度くらいは顔を合わせていたはずなのだが…?
「私であれば、小公爵様にお声がけすることも許されるだろうと、妻から厳命されまして。息子が近侍としてお仕えしているのに、親が挨拶もできぬでは申し訳ないと…」
伯爵の言葉にアドリアンは小首をかしげる。隣のマティアスが渋面になって、父親を小突いた。
「父上。挨拶だけでいいですから」
「あぁ、わかってるよ」
伯爵は鷹揚に頷きながらも、まだ話し足りないのか、やきもきする息子を脇に置いて話を続ける。
「小公爵様、いずれは我が領地にもいらして下さいませ。小さな領地ですが、シュテルムドルソンの金物細工は、帝都でも有名でして」
「あぁ、知ってるよ。マティから
近侍として公爵家に来た際に、マティアスは自らの領地の名物である金物工芸を紹介する意味もこめて、近侍ら全員とアドリアンに
「あぁ、あれは妻が職人にやかましく言って作らせたものでして。気に入っていただけたのならば何より。妻もさぞ喜ぶことでしょう」
「…ち! …ち! …う! …え!」
マティアスは囁きながら怒鳴るという、なかなかない芸当を発揮しながら、父親のおしゃべりを制止した。
「余計なことは言わなくていいんです! ご挨拶が済んだら、もうあちらで好きなだけワイン飲んでて下さい。でも、飲みすぎないで下さいよ!」
「どっちなんだい、それは…」
伯爵は困ったように言いながらも、息子に対してニコニコとした笑みを崩さない。その笑みは貴族特有の表面的なものではなく、いかにも温和な人柄を窺わせた。
「このように口やかましい息子でございますが、忠誠心は間違いようもないので、どうぞ引き立ててやって下さいませ。お元気であらせられて、何よりでした。妻も安堵することでしょう」
「はぁ…?」
最後にまた妻のことを持ち出す伯爵に、アドリアンは疑問を感じつつも、軽く会釈して、彼を見送った。
「申し訳ございません、小公爵さま。我が親ながら、ずっと学問に夢中で、どうにも浮世離れしたところがありまして…」
「伯爵は学者でいらっしゃるのかい?」
「学者というほど、立派な肩書もないのです。アカデミーで学を修めたわけでもありませんし。自分の好きなことをひたすら研究している…ただの
「あぁ…」
アドリアンは得心した。
おそらくブルッキネン伯爵は、こうした夜会などに出ることを忌避し、代わりに妻である伯爵夫人が出席し、夫の名代としての役割を果たしていたのだろう。しかし当然ながら伯爵夫人が伯爵の仕事を代行はできても、伯爵自身として認められることはない。そのために小公爵であるアドリアンに対して、表立って挨拶に来ることはなかったということだ。ただ ―――
――――― 私であれば、小公爵様にお声がけすることも許されるだろうと…
あれはどういうことだろうか?
高座の上などで貴賓に対し、身分の下の者が勝手に口をきくことは許されない。しかし高座下の、今いるような場所であれば、声をかけることなどは別段、気を遣う必要はない。最低限の礼儀さえ守っていれば、非公式の挨拶をするのは自由だ。
実際さっきも、公爵が姿を見せるまでのアドリアンは、そうした挨拶を受けていたのだから。
だが先程の伯爵の口ぶりからすると、伯爵夫人はそうした挨拶ですらも許されなかったようだった。アドリアンにはそれが少し奇妙に思えた。
「マティ、伯爵夫人は今回は来られなかったようだけど、昨年まではおいでだったんだよね? じゃあ、一度くらいは僕、会っているのかな?」
何気なく尋ねると、マティアスの顔は曇った。何を言うべきか、思案しているようだ。
「…何度か、お見かけしたことはあります。私もそばにおりましたので」
ひどく持って回った言い方にアドリアンは釈然としなかったが、あえて軽い調子で続けた。
「そうなんだ。じゃあ、声をかけてくれれば良かったのに」
「それは…許されておりませんので」
「許されない…って、ただ声をかけることが? どうして?」
「その…母は女でございますので…」
「別に伯爵夫人が女だからといって、僕に声をかけることが不敬だなんて、誰も思わないだろう?」
女性に対してより優位なのが男であるというだけで、女性を蔑むことはしない、というのが、基本的な貴族の考え方だ。まして伯爵としての仕事を取り仕切ってきた実績のある女性であれば、それなりに丁重に扱われる。小公爵と話すことぐらい、女だからと目くじら立てられるようなことでもないだろう。
そこまで考えてから、アドリアンはマティアスの言葉を反芻した。
許されていない ――― ?
「許さないって…誰が…」
言いながらも、アドリアンにもそんな命令ができるのは、ここで唯一人しかいないことに思い至る。
急にマティアスと同じように口が重くなった。
父である公爵がそう命じたのであれば、誰が抗えようか。
だが、どうしてそんなことをするのだろう?
公爵は基本的にアドリアンに関心がない。誰と付き合おうが、何をしようが、公爵家の名に傷をつけるようなことでない限り、放任だ。公爵にとってアドリアンは跡継ぎというだけの存在で、実体のあるものとして自分の目の前に立つことすらも鬱陶しいのだ。
アドリアンはそれ以上、考えることはやめた。どういう意図なのかは知らないが、公爵がアドリアンとブルッキネン伯爵夫人に話してほしくないと考えている以上、従うしかない。
強張った顔で沈黙する二人に、今度声をかけてきたのは、テリィ ―― ではなく、彼の祖父だった。
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