第二百五十三話 新年間近の帝都にて

 この時期に帝都に来る貴族の過ごし方は、帝都郭内に屋敷を持っているか否かで、まず分かれた。

 郭内に屋敷のある人間は、そこで過ごす。

 アドリアンも帝都において一、二を争う宏壮な公爵邸において、これから五ヶ月近く滞在することになる。


 郭内に屋敷を持たない人間には、またいくつかの選択肢がある。

 一つは郭内でこの新年の時期だけ家を借りるもの。

 この家の規模は様々で、一家族だけで住むためのこじんまりとしたものから、一族全員で滞在するための大規模な屋敷を借りる者もいた。こうした家々は普段であれば貸家専門業者、あるいは大商家によって管理され、多くの場合は何代にも渡って関係性を築き、その伝手によって借りることが多かった。


 最近ではこうした貸家業から発展して、大規模邸宅を貴賓客専用の宿にする例も増えてきていた。

 商人からすれば、一つの家族に貸し出すよりは複数人を相手にしたほうがより実入りがいいのは言うまでもなかったし、貴族側でも夫婦二人だけや単身者などは、家一つを借りて召使いなどを引き連れて帝都に来るよりも、身軽かつ費用を抑えられるという需要もあったのだ。


 ただ、一部の古い考え方の貴族などからは、この新たな業態は敬遠された。

 彼らは自分たちの部屋の隣に見知らぬ誰か、あるいは自分よりも格下の貴族がいるなどという状況そのものが有り得ないことだった。

 それに部屋を一歩出れば、貴族同士顔を突き合わせるのであれば、そこは社交場であり、当然ながら身なりにも気をつけねばならず、疲れてしまうという声もあった。


 最後の手段は懇意の貴族や、主として仕える大貴族の邸宅に居候するという形だ。

 費用の点でいえば、これは一番安上がりであった。

 だが体面を重んじる貴族にとって、こうしたいわゆる『間借り』とも呼ぶべき状況は恥ずべきものとされ、多くは敬遠された。

 もっとも元々貴族でもなかったヴァルナルなどは、どうせ公爵邸に日参するのだから、いっそ一緒にいた方が楽だとばかりに、毎年公爵邸に滞在していた。今年においてもそれは変わらない。


 騎士たちも、帝都やその近隣に家族のいる者などは、しばらくの帰省が許された。

 それ以外の者は警護や、治安維持といった仕事に従事することになるが、これも交代制で、多くの独身の騎士たちは、間近に控えた帝都結縁祭ヤーヴェ・リアンドンの準備で気もそぞろだった。

 それを当て込んだ商人たちも、プレゼントになるような品をこぞって仕入れし、特に花屋などは女性に送るための凝った花冠のサンプルなどを店先に並べて、周辺の同業者と競って声を張り上げていた。


 その他にも、新年の暦譜カレンダーを売る露天商、帝都名物と銘打った揚げ菓子屋、夏に向けた薄物の布織物や、来年の年神となるフィエンの木彫り像を売る店、一年で最も多種の果物を並べた果実商では、圧搾機で搾った即席ジュースなども売っていたし、最近になって庶民にまで出回りだした珈琲も、露店で売られるようになっていた。当初は物珍しかったが、次第にその独特の味わいを好む者は増えてきているようだ。

 大釜で荒く挽いた豆を煮ていると、濃厚な香りに誘われた人々がチラホラとやって来る。上澄みを掬って供されるので、中に挽いた豆が混ざっていることもあったが、飲めば疲れがとれる…と、一種の薬湯やくとうとして飲用する人間も多かった。


 なにせ、この新年を控えた帝都の雰囲気というのは、気温の上昇とともに、一種独特の熱気をはらみ、一年の中で最高潮に盛り上がる時期であった。

 人々は楽しそうでありながらも、とにかく忙しい。

 運河をゆく小舟すらも渋滞するほどだ。


 こうした帝都の華やかさに一役買うのが、各貴族家で催される夜会や園遊会、婦人方を中心とした小規模な茶話会、詩の朗詠会などであった。

 誰が誰に招待状を送った、送っていないと、貴族社会においては、かしましく噂されるのが常であったが、グレヴィリウス公爵家の若君であるアドリアンなどは、毎日のように届くこうした宴への招待状や手紙の山を見るだけで、憂鬱だった。


「こちらは宰相公……ダーゼ公爵主催の園遊会の招待ですよ。返事を出さなくてよろしいのですか?」


 マティアスら近侍は、揃ってアドリアンに来た手紙の山を開封しては中身を確認し『不要』『保留』『返事必須』に、分類していた。オヅマがこの作業を任されていたら、きっと早々にやる気をなくし、途中から適当にやって、マティアスといつものごとく口喧嘩が始まったことだろう。


 わざわざ尋ねてくるマティアスに、アドリアンはうんざりしたように言った。


「断りの返事なんて出したって仕方ないだろう」

「いえ。行かれてもいいんじゃないかと…」

「えぇ? どうして?」

「いえ、別にまだいいとは思いますが…」


 言葉を濁すマティアスに、アドリアンは首をかしげる。するとテリィが得意げに言葉を継いだ。


「ダーゼ公爵閣下の息女は確か来年で十一歳ですよ。小公爵さまよりも、一つ年下」


 テリィの意図をいち早く察したキャレの手が止まった。チラとアドリアンを横目で見れば、当のアドリアンは鈍い目でテリィを見ていた。意味がわからず、問いかける。


「だから、なに?」

「将来のことを見据えて、送ってこられた…ということも考えられます」


 マティアスが再び口を開く。


「将来?」


 アドリアンはまた聞き返し、近侍らの興味深げな顔を見回してから、しばし考え込む。やがて答えに行き着くと、一気に顔を赤くした。


「何言ってるんだ! そんなのまだまだ、まだまだ先のことだろ!!」


 テリィはようやく意図を飲み込んだアドリアンを見て、ニヤニヤ笑いながら話した。


「そりゃ結婚なんてまだまだ先でしょうけど、グレヴィリウス公爵家の若様であれば、もう婚約という話が出てきたって、おかしくはないですよ。ダーゼ公爵に限らず、ご令嬢方はきっと今か今かと手ぐすね引いて待っておられることでしょう」


 アドリアンは思いきり渋面になると、まだその招待状を持っていたマティアスから取り上げて、『不要』の箱に放り込んだ。「あぁー」と、テリィがもったいなさそうに声を上げる。


「いいんですかぁ? ダーゼ公爵の一人娘といえば、噂では相当な美少女らしいですよ。母方が北方の異民族の血を引いていたとかで、珍しい髪色らしくて。小公爵さまとお似合いかもしれません」

「くだらない! ただでさえ明後日の夜には、ここで夜会が開かれるんだぞ。それだって嫌だっていうのに、どうして他所よその集まりにまで顔を出さないといけないんだよ」


 吐き捨てるようにいうアドリアンに、マティアスがまた鹿爪らしく申し述べた。 


「そうも言ってはおられません。不本意でしょうが、こうした集まりにおいて顔を見せて知遇を得ることは、将来的にも必要なことだと…先生方も仰言おっしゃっておられました。まして婚約は重大事です。自らの目で候補となるご令嬢方を確認しておくことも必要です」


 アドリアンは唇を噛み締めて押し黙ったあとに、吐き捨てるようにつぶやいた。


「どうでもいいよ。どうせ公爵様がお決めになるだろうから」


 背後で聞いていたサビエルも、近侍達も、その投げやりな態度に少しばかり違和感を持った。

 誰も言わないが、アドリアンの母親である亡き公爵夫人は、本来の婚約者ではなかったものの、公爵閣下からの熱烈な求愛によって結ばれた。当然、その息子であるアドリアンもまた、両親のような恋愛結婚を望んでいるだろうと、皆が予想していたのだ。

 しかしアドリアンは自分の将来の伴侶について、どこか忌避していた。なんであれば、結婚なんてしたくもなかった。


「小公爵さまは、どのような方が相手であっても、公爵様のご命令に従うということですか?」


 少し震える声で尋ねたのは、意外にもキャレだった。

 近侍たちは目を丸くして、やや紅潮した顔で、問いかけるキャレを不思議そうに見た。

 しかし、アドリアンは普段は無口なキャレまでもが、こうした話題になると俄然口を開くことにも、多少苛立った。


「そうだよ」

「それでよろしいのですか?」


 キャレが重ねて問うてくるので、アドリアンはますます不機嫌になった。


「それでいい。なんの文句がある? 公爵様が…いやどうせルンビック子爵かザウナール補佐官あたりが、公爵家に見合った、然るべき令嬢ひとを選ぶだろうさ」

「小公爵さまのお相手ですよ? どうしてそんなに他人事のようにおっしゃるのです? 公爵閣下のように、ただ一人の愛する人と結ばれたいとは思われないのですか?」


 その日のキャレは、まったくもって理解不能だった。

 いつもなら、ここまではっきりと不快感を表すアドリアンを目の前にしたら、ビクビクしながら口を噤むものなのに、キャレは自身にも自分がどうしてこんなにムキになって言い立てるのかわからなかった。

 アドリアンはダン! と机を叩くと、とうとう立ち上がった。

 キャレはアドリアンが机を叩いた音にビクリと震えて、身を固くする。だが、スタスタと扉のほうへと歩いていくアドリアンをあわてて呼び止めた。


「お待ちください、小公爵さま!」


 その甲高い鋭い声にアドリアンの足が止まる。しかし振り向くことはなかった。

 キャレはギュッと自分のシャツを鷲掴みしながら、ゴクリと唾をのみこんだ。自分でもどうしてこんな勇気が出てくるのかわからない。けれど止められなかった。

 アドリアンの拒絶の背を見つめながら、たどたどしく言葉を紡ぐ。


「私は…庶子です。望まれぬ子でした。父は母を妻とも認めませんでした。だから…公爵閣下と奥方様のご関係は、とても…その……いいものだと、思います」


 最後は重くなっていく空気に押しつぶされるように小さい声になったが、キャレは言い切った。

 アドリアンは佇立したまましばらく黙していたが、やがてまた低くつぶやいた。


「僕は父上とは違う。僕は…誰か一人を特別に思うなんてことはしない」


 静かな声音には、断固とした意志があった。

 キャレはアドリアンの冷たい面に、心臓が凍りついて、ミシリと罅割れた気がした。


 アドリアンの姿が扉の向こうに消えても、キャレは固まったまま、閉じられた扉を見続けた。

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