第二百五十一話 星月夜の笛の音(2)

 森の中を歩くカトリの耳にも、笛の音が聞こえてくる。

 柔らかく穏やかな曲調の中に、どこか哀切な音色を感じて、こらえていた涙がぽろりとこぼれた。


「カトリ…」


 ボフミルが呼びかけてくる。

 さっきから後ろに黙っていてきていたのを知っていた。あえてカトリに声をかけないでいてくれたことも。

 カトリは立ち止まると、涙を拭って振り返った。


「……ごめんなさい」


 深く頭を下げてから、スンと洟をすすって顔を上げると、苦く笑った。


「私のせいね。私が…強くないから。あんな男なのに、殺すのをためらうなんて…まだ私の考えが甘いんだわ、きっと。もっと冷酷非道でなければ、いけないのよね。あの男以上に。あの男を殺しても平然としていられるくらいに…」


 言葉を重ねるほど、陳腐に聞こえてくる。

 ボフミルはゆるゆると首を振った。


「強いとか強くないとかじゃない。俺らは…生きていくだけなんだ。どこであろうと、生きていくしかないんだ。あの野郎もそうだし…お前の弟だって、病気になっても生きようとしてただろう?」


 弟のことを言われ、カトリはまた泣きそうになった顔を伏せた。

 久しぶりに会ったエラルドジェイの変わらぬ姿に、マルコを思い出さずにはいられない。


「そうよ、生きようとしていたわ。もう長く生きられないとわかっていても、懸命に生きようとしていたの。薬がどんなに苦くても、がんばって飲んだの。我慢して飲んで、いつか治るって信じていたのよ」


 話すほどに思い出は次々に溢れ出す。

 エラルドジェイがマルコを殺したことよりも、二人が仲睦まじく笑いあっていた姿が、まだカトリの中で鮮明だった。


「マルコは…ジェイのことが大好きだった。コマ回ししたり、鬼遊びをしたり、雨の日は家の中で積み木取りしたり。でも、マルコが本当に喜んでいたのは、ジェイと話しをすることだったのよ」


 その光景を思い浮かべると、マルコの笑い声までも聞こえてきそうだった。

 カトリはまた泣きそうになって、ごまかそうと饒舌になった。


「子供って、なんの話をしているのか、わからないときがあるでしょう? 伝えたいことが上手に伝えられなくて、聞いてて意味がわからなくて…私なんてよく遮っては、どういうことなのか尋ねてたら、もうマルコはしょげて話す気がなくなっちゃって。……もっと、ゆっくり聞いてあげたらよかった」


 思い出して、またカトリは目を伏せ、沈んだ声になる。しばらく黙って、こみ上げてくる涙を喉奥で抑え込んでから、顔を上げた。


「ジェイは黙って、ずーっと聞いてたの。マルコの話すままに、ずっと聞いてやってたの。私みたいに遮ったりしない、聞き流したりもしない……だから、マルコはジェイと話をするのが大好きだった。本当に…ジェイのことが…大好きだったのよ……」


 自分で言った言葉に、カトリの目からまた涙がこぼれた。


 どうして?

 あんなに仲が良かったのに。あんなに優しくしてくれていたのに。

 どうして、マルコを殺したのか?

 まるで当然かのように。

 なんのためらいもなく。


 そのことがカトリには理解できず、いつまでも苦しいままだ。

 せめてエラルドジェイに少しだけでも後悔が見えれば、カトリの胸に凝り固まった怒りと哀しみの塊は、徐々に溶けていくのだろうに。


 カトリは涙を拭い、またボフミルに頭を下げた。


「ありがとう。力になってくれて」

「俺らは金で雇われただけだ」


 ボフミルは眉間に深い皺を寄せると、あえて冷たく言った。

 それからエラルドジェイに渡された布袋を差し出す。


「この先のことを考えるなら、割り切って受け取れ。金は金だ。なけりゃ困るし、あっても腐らない」


 カトリは睨みつけるように布袋を見ていたが、ホーッと長い溜息をついて受け取った。


「このお金が汚いとか言ってたら…いつまでたっても、あの男に馬鹿にされるだけなのね」


 ボフミルはその言葉に、また首を振ったが、何も言わなかった。

 カトリはまだ、諦めていない。もはや彼女の中では、ジェイを憎むことが生きるために必要不可欠なのだ。


「はい」


 カトリは袋から三枚、金貨を取り出した。「もうここで、別れましょう」


 ボフミルは受け取ったものの、憮然として言った。


「森を抜けるまでは、仕事のうちだ。その先は…俺らで決める」

「でも…」


 カトリが言う前に、ボフミルは先に立って歩き出す。

 逡巡するカトリに、手下の一人が真面目くさった顔で言った。


「夜の森は危険です。一人で来るなんて、無茶しちゃいけません」


 カトリはフッと笑ってしまった。

 ボフミルの手下たちは、皆、なんだかんだで気のいい男たちだ。


 そもそも彼らと知り合ったのも、宿場町でゴロツキたちに襲われそうになっていたカトリを助けてくれたことがきっかけだった。

 女の一人旅であれば、何度か危うい目に遭うこともあったが、彼らと共に行動するようになってからは、平穏だった。彼らが襲ってくる可能性だって考えられないことはなかったが、ボフミル以下、手下たちは依頼人であるカトリを丁重に扱った。



 ――――― 運がいいよ、カトリ。お前…



 さっきのエラルドジェイの言葉が思い浮かぶ。

 カトリは途端にムッと眉根を寄せて、猛然と歩き始めた。

 悔しいが、今の自分はまだエラルドジェイの掌の上だ。彼にいいように転がされている。


「あ…笛の音がやんだ……」


 最後尾にいた手下がつぶやく。

 カトリはふと立ち止まり、振り返った。


 エラルドジェイは笛なんて吹いたことはなかった。音痴なのだ。あんまりにも下手で、マルコと二人、腹を抱えて大笑いしていた光景がまた脳裡に浮かぶ。

 カトリは自分のしみったれた感傷を追い払うように、ブンブンと頭を振った。

 再び歩きだして、エラルドジェイと親しげに話していた少年のことを思い起こす。


 あの少年が吹いているのだろうか…?


 薄紫の瞳の、やもすればエラルドジェイよりも冷たい面差しの少年。

 なんのためらいもなく、カトリの首筋にナイフをあてがって、脅迫してきた。

 はったりなんかではない、本気の殺意。


 カトリは胸をおさえた。

 エラルドジェイがあの底知れない、不気味な少年と一緒にいることが、ひどく不安に思えた。

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