第二百四十七話 追ってきた女

 次の日になって、オヅマとハルカが朝の走練を終えて帰ってきても、エラルドジェイは寝ていた。


「別に問題はないさ。おそらくこの数日、まともに寝てなかったんだろう。目の下にクマができていたしね」


 ルミアの言う通り、ぐっすり眠っていて呼吸は穏やかだった。

 オヅマはひとまず胸をなでおろすと、豆猿たちの稽古の前にエラルドジェイを見つけた森の方へと入っていった。

 昨日約束していた胡桃くるみを探すため、かしの木の周辺をキョロキョロと見回す。


「なにを探しているの?」


 女の声に振り返ると、そこにはやや茶味がかった金髪の、化粧の濃い女が立っていた。やたらと胸を強調したような肉感的で、派手な色合いの服を着ていることからしても、村人の類でないことは知れた。山賊の首領が囲っている女か何かだろうか。


「フン。坊やがジロジロと見ることねぇ」


 薄茶の瞳を細め、婀娜あだっぽい口調で言う女を、オヅマは半ば軽蔑の眼差しで見て、無視した。早く稽古に戻りたかったし、そのためにはさっさとエラルドジェイの胡桃を見つけてやらねばならない。


 何も見ず、何も聞こえていなかったように無視するオヅマに、女はギリッと奥歯を噛み締めた。


「坊やが探しているのは、コレじゃないの?」


 凝りもせずにまた声をかけてくる。

 オヅマは鬱陶しそうに振り返って、女の手の中に胡桃を見つけた。


「あっ、それ」


 言いながら手を伸ばすと、女は胡桃を握りしめて自分の胸元に引き寄せる。

 ニィと紅い唇が吊り上がった。


「やっぱりね」


 オヅマは女のつぶやきを怪訝に思いながら、怒鳴りつけた。


「オイ! それ返せよ!!」

「あら、どうして?」

「欲しがってるやつがいるんだ」

「あら、そう」


 女はますます楽しげに笑って、オヅマに問いかけた。


「誰が、欲しがってるの?」


 その悪意を滲ませた微笑みに、オヅマは直感する。


「…………お前か?」


 問いかけながら、ほぼ確信していた。

 エラルドジェイのあの傷。 



 ――――― 昔の知り合いが人質になっちまって……



 たとえ人質がいて、殴られるようなことがあったとしても、あの脇腹の傷はそう簡単に負わせられるものではない。



 ――――― 見事に騙されちまって…

 


 それこそ、騙し討ちにでもあわない限り。


「お前だな? ……ジェイを刺したの」


 女は一気に様相の変化したオヅマに、やや後ずさる。しかし口元には皮肉げな笑みをどうにか浮かべた。


「ふ…ふ……あの男、やっぱり死んでないのね。アンタが助けたの?」

「答える必要があるか?」


 低く答えながら、オヅマは女を睨みつけて一歩、近づく。

 女はまた一歩、あとずさった。


「ちょ…っと、待ちなさいよ。アンタに関係ないでしょ?」


 薄茶の瞳は焦りの色を浮かべながら、必死でオヅマを睨みつける。

 しかしオヅマは冷然と女を見て言った。


「助けた以上、関係ないとは言えない」

「やさしいこと! でも、無駄よ。あんな男に」

「あんな男?」

「ヤツは冷酷な男よ。悪魔よ。お菓子でも貰って、使いっ走りにでもされた? 人当たりは良くても、アイツは最低の男よ。騙されてるのよ、アンタ」


 早口に悪口雑言を並べ立てる女を、オヅマはしげしげと見つめたあとに、ハァーッと溜息をついた。

 髪を掻き上げて、ポリポリと額を掻きながら、あきれたように言う。


「なんだよ…あんた、ジェイに捨てられて、逆恨みしてんの?」

「なっ! 誰がッ!!」


 女は途端に真っ赤になった。「ふざけんじゃないわ!」と、持っていた胡桃を投げつけてくる。

 頭と胸、別々の方向に飛んだ二つの胡桃を、オヅマは難なく掴み取った。


「たいがい女の人って、言い当てられたら真っ赤になって怒り出すって聞いてるよ」

「アイツが言ったの!?」

「いや。…悪い大人から」


 このとき、オヅマの脳裡にいたのはルーカス・ベントソンだったが、当然ながら女はそんなことは知らない。


「子供に何を話してるのかしら! あの馬鹿!!」


 すっかり勘違いして怒り狂う女を、オヅマは白けた目で見ていた。

 本当にこんな間抜けな女にエラルドジェイがやられたのか? と、信じられなくなってくる。今、ここに来ているのも、刺したはいいが、やっぱり気になって探していたのだろう。


「お姉さん、ジェイに会いたいの?」

「そんなわけないでしょ!」


 反射的に言ってから、女はハッとした顔になって唇を噛み締める。

 しばらく黙りこくっていたが、オヅマを暗い目でめ上げながら、ボソリと言った。


「あの男は…人殺しよ」


 オヅマは無表情に聞いていた。

 そんなこと、とうの昔に知っている。


 エラルドジェイは闇ギルドの人間だ。

 脅迫でも、窃盗でも、それこそ誘拐、殺人ですらも、金で請け負うような商売をしている。

 だからといって、エラルドジェイを責めても問題は解決しない。

 雇う側の人間がいる限り、エラルドジェイがいなくなっても、別の誰かがエラルドジェイの稼業を引き受けるだけだ。


「病気の子供だって……平気で殺すようなヒトデナシよ!」


 女は叫んだ。

 悲痛な声が森の中に響く。


 オヅマはしばらく黙っていたが、やがて冷たく言い放った。


「それがどうした。俺だって人を殺した」


 どんよりと曇ったオヅマの瞳は、感情を失くしていた。

 女は呆気にとられたように立ち尽くす。


 オヅマはゴクリと、苦い記憶と一緒に唾を飲み下した。


 あの日。

 倉庫の中で首を斬った男。

 たとえマリーを助けるためだと言い訳しても、あのときじかに触れて断ち斬った命を、無視することはできない。

 それはであっても同じだ。

 の中で、無造作に殺されていった子供たち。

 オヅマ自身が手を下した者も、そうでない者も、彼らの死はオヅマによってもたらされた。

 なまぐさい血の匂い、死の慟哭どうこく、喪われた魂の重さ。

 すべてが生々しい。


「あの男に…命令されたの?」

「違う! ジェイがそんなことさせるはずないだろ!!」


 オヅマは即座に反論してから、もう一度女を観察した。


 最初見たときには、娼婦崩れか何かかと思ったのだが、やたらと厚ぼったく似合ってない化粧といい、パサパサの油っけのない髪といい、どこか素人臭い。


 今はどうだか知らないが、きっとこの女はな世界で、に生きてきたのだろう。そこで暮らす人間は善良で、秩序正しく、優しく生きられる。

 それは間違ってない。

 きっとそれが世の中の正しい有りようだ。

 そうした日常こそが、『


 だけど ―――


 オヅマは受け取った胡桃を、エラルドジェイのようにゴリゴリと手の中で擦り合わせながら、女に言った。


「あいつはお姉さんと違って、命の値段が安い場所で生きてきた。人を殺す分、自分の命もすり減って軽くなる。理解できないだろうけど……そういう人間は、存在るんだよ」

「………」


 女はまじまじとオヅマを見つめていた。

 白粉おしろいの浮いた顔に困惑を滲ませながら、震える声でつぶやく。


「なによ……私だって…私だって……殺すんだから…アイツを……殺すんだから」


 オヅマの薄紫の瞳はまた、スウッと表情を失くした。


「そう」


 一言いってから、ゆらりと動く。

 次の瞬間にはいつの間にか取り出していた小さなナイフを、女の首に触れるか触れないかでピタリと構えていた。


 女はオヅマが一瞬で自分の近くに来ていたことに驚き、次には首に冷たいナイフの刃を感じて、ヒッと息を呑んだまま微動だに出来なかった。


「お姉さんがどうしようが勝手だけど、俺の目の前でジェイを殺すなら、俺がためらうことはない。今、ここで殺さないのは、ジェイがあんたをからだ。あの男が本気で報復するなら、あの程度の傷で逃げるわけがないんだからな」


 また低い声で言ってから、オヅマはゆっくりと後ろにさがった。そのときにはもうナイフは手の中にない。


「命拾いしたのがどっちなのか、わかっておいた方がいいよ」


 女は無表情に話すオヅマを、蒼ざめた顔で見つめた。

 よろけるように後ずさって、地面から突き出した木の根に足をとられて転ぶ。そのままあわてて立ち上がると、ガクガク震える足で、森の中を逃げていった。


「おい」


 オヅマが呼びかけると、ガサリとわざとらしく草を揺らす音がして、のんびりとした声が響いた。


「やれやれ…おっかないガキだなぁ」


 オヅマは軽く溜息をついてから、持っていた胡桃をエラルドジェイに投げた。


「見てたんなら、出てこいよ」

「いやぁ。また刺されても嫌だし」


 まったくもって緊張感のないエラルドジェイに、オヅマは腹が立った。

 なんだって、あんな女に付け狙われるようなことをしたんだろうか。

 では、エラルドジェイのつき合う女といえば、たいがい娼妓しょうぎの類だったはずなのに。


「フン。言ってろ、色男」

「色男!? 俺が?」

「女に追っかけ回されるようなのを色男って言うんだろ?」

「誰だよ、そんなの言ったの?」

「悪い大人だよ」


 当然ながら、これもまたルーカス・ベントソンの言語録にる。 


 エラルドジェイは頭をかかえて深い溜息をついてから、気を取り直したように顔を上げるとニカッと笑った。


「ま、どうせお前もそのうち色男になるんだろうよ」

「言ってろ、馬鹿。くだらねぇ」


 オヅマは言い捨てると、足早にルミアの家へと戻っていった。

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