第二百四十五話 ハルカと笛と

 ルミアの課す修行は日暮れまでで、その後に夕食を食べたあと、寝るまでの時間は自由だった。もっとも自由といっても、洗濯や身の回りの掃除などは自分でせねばならないし、ランプの油も節約せねばならないので、やれることは少ない。

 それでもオヅマはほぼ毎日、剣の素振りだけは欠かさなかった。これはもうレーゲンブルト時代から続けてきたことなので、雨であろうが雪であろうが、やらねば気持ち悪いのだ。


 その夜も素振りをしたあとに行水して汗を流し、屋根裏部屋のベッドに寝転がったオヅマに、珍しくハルカが近づいてきた。物言いたげに立っている。


「ん? なんだ?」


 起き上がると、ハルカは若草色の細長い包みを差し出してきた。


「あ……」


 それは、ここに来るときに、ヴァルナルがミーナから預かったと渡してきたものだ。

 昨晩、そろそろ夏物の服が必要かと思い、持ってきた荷物の整理をしたときに、ふくろの底にあったそれを取り出して、そのまましまい忘れていたらしい。


「落ちてた」

「おぅ。すまねぇな」


 受け取ったものの、ハルカはじーっとその包みから目を離さない。


「なんだ?」


 オヅマが尋ねると、ハルカは首を傾げる。

 珍しく興味をもったようだ。普段、滅多と感情を表すことのないハルカの好奇心に、オヅマは少し嬉しくなった。


「中身、見るか?」


 言いながらハルカの返事を待つことなく、オヅマは包みを開く。

 そこにはやはり予想していた通り、笛があった。蔦の浮き彫りが施された象牙色の横笛トラヴェルソ


「…笛?」


 ハルカが小さな声で尋ねる。


「あぁ。母さんが持っとけって…無理やりな」

「母さん…? 形見?」

「違う違う! 生きてるよ。自分には必要ないから、俺に持っとけって」


 オヅマは言ってから、その笛を見つめた。また暗く、懐かしい気持ちがこみ上げる。

 黙り込んだオヅマに、ハルカが尋ねた。


「笛…吹ける? オヅマ」

「え? あ…うーん…どうだろうなぁ」


 オヅマは自信なさげにつぶやいたが、チラとハルカを見れば、その眼差しは期待に満ちあふれていた。普段は腫れぼったく細い目が、いつもの三倍は開いて『聴きたい、聴きたい』と訴えてくる。

 

 オヅマはポリポリと額を掻いた。

 ハルカがお願いすることなど、まずもってないので叶えてやりたいが、果たしてのときのように吹けるのだろうか…?


「家の中だと、婆さんが起きるかもしんねぇから、上に行こう」


 そう言ったのは、の中でも屋根の上で吹いていたからかもしれない。

 ルミアの山小屋の屋根は、隣のロンタの木との間に板を渡してあって、ちょっとした露台が組まれている。そこは普段は主に洗濯物を干す場所だった。

 山の中の木々に囲まれた家とはいえ、見上げると無数の星が瞬いている。


「吹けなかったら、勘弁な」


 オヅマは一応、あらかじめ断っておいた。

 別に吹けなくても、ハルカがあからさまにガッカリするようなことはないだろうが、期待させている分、できない自分にオヅマ自身がガックリきそうだ。


 目を瞑って、思い出す。

 の中で無心に吹いていた自分を。

 両手で柔らかく笛を持ち、そっと唄口に唇を添わせる。


 軽く息を吹きかけると、懐かしい音が鳴った。

 オヅマは古い友達に久しぶりに会えたような気持ちになった。じんわりとした温かさに包まれる。

 ゆっくりと、最初はたどたどしく音を探りながらであったが、音色を奏でるほどに、もはやオヅマは自分で吹くというよりも、ただ指の動くまま、息の紡ぐままに任せた。


 笛を正式に習ったことはない。

 の中で、エラルドジェイと旅する途中で一緒になった旅芸人の楽士に、音の出し方を教わっただけだ。

 曲も、よく聞いていた子守唄しか吹けない。

 いつも同じ曲だったのに、飽きもせずに聞いていた ―――


 不意に訪れた既知感に、オヅマは吹くのをやめる。

 どうしたのかと見つめるハルカと目が合った。



 ――――― 我が主君きみ……



 幻聴と同時に、眼下の森の一隅でガサガサと不自然な音がして、オヅマはビクリと肩を震わせた。


「なんだ…?」


 闇に包まれた森の中に目を凝らす。

 雲に覆われていた月が出てきて、木々の間に光を落とすと、白っぽい布のようなものがちらと見えた。それから地面に何か落ちたか、倒れたような音。


「人…」


 ハルカがつぶやく。

 オヅマは頷くと、笛をハルカに預けた。


「俺が見てくる。戻ってこなかったら、婆さんに知らせろ」


 オヅマは囁くように言ってから、屋根の上からヒョイと飛び降りた。

 布の見えた場所に向かって早足で、しかし音をたてぬように細心の注意を払って近づく。

 また月は雲に隠れたのか、辺りは暗かった。

 枯葉が堆積してできた柔らかい土の上を踏みしめていくと、樫の根本に何かの塊のような影が見えた。


 そっと近づくと、「う…」とかすかなうめき声が聞こえ、塊がもぞもぞと動く。

 どうやらそれは人で、起き上がろうとしているようだ。


 オヅマは足を止め、低く身構えた。

 いつも腰にかけているナイフの柄に手を伸ばす。


 しかし人影はどうにか身を起こしても、立ち上がることはできなかったらしい。そのまま樫の幹に凭れるようにして、仰向けに倒れ込んだ。


 オヅマは再びゆっくりと近づく。

 ゆっくり、ゆっくり……そうしてやがて、白い月光がまた射して、樫の木の根本に身を投げだした男の姿を見た途端、オヅマは息をのんだ。


「エラルドジェイ…?」


 呆然とつぶやく。


 まるで、あのが繰り返されるかのように。

 薄汚れた衣服、すっかり解けた頭の巻布ターバンから伸びた紺の髪。手から転がった胡桃。


「……よぉ」


 小さく呼びかけられる。

 うっすらとエラルドジェイの夜空を宿したような濃紺の瞳が開いて、オヅマを見ていた。


「笛の音に惹かれて来てみたら……あのときの坊やか…」


 きれぎれに言って、フッと笑う。

 気が抜けたのか、グラリと体がかしいだ。


「エラルドジェイ!」


 オヅマは叫ぶと、あわてて駆け寄った。

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