第二百四十四話 アドリアンからの手紙

 緑清りょくせいの月に入ると、季節は一気に暑さを帯びた。

 比較的過ごしやすいとされるここ東北部のズァーデン地方であっても、確実に夏の気配が草いきれに混じって匂い立つ。


 あれからもオヅマの日常はそう変わりなかった。

 早朝から二山越えての走練と薪拾い、豆猿たちからのも続いていた。


 一月近く、この修業をしている間に、オヅマはハルカの言っていた『なれ』の意味が徐々にわかりはじめていた。

 要は『馴れろ』ということだ。

 頭で考えるよりも馴れて、体を順応させていく。


 確かに最初の頃に比べると、豆猿たちからのぶつけられる実の数も格段に減った。それはある意味、目が馴れた、といえる。

 豆猿たちが投げてくる実が、さほど速く感じなくなってきたのだ。目だけでなく、投げた実の迫ってくる音や、豆猿の気配といった感覚も、以前に比べるとひときわ鋭敏になった気がする。

 走練においても、今ではハルカを追い越すまでになったが、これにはまた別の事情もあった。


「さて。稀能きのうをやるなら、というヤツを教えようか」


 ルミアは勿体ぶって言い出したが、実際にそれは稀能修得の鍵となるものだった。


 呼吸による集中。

 これができなければ、稀能を発現することは不可能と言ってもいい。


 そのために学ぶのが呼吸法なのだが、多くの修行者たちにとって、呼吸という普段からやり馴れているはずのこの動作、あるいは極めて必然的な生命維持活動は、いざ『技能』として行うと、最も難度の高い、修得に時間のかかる代物だった。

 しかしオヅマはルミアの手本を真似ただけで、なんの造作もなく出来てしまった。むしろ最初から集中が深すぎて、鼻血が止まらなくなり、ルミアが急遽止めに入ったくらいだ。


 呼吸による集中は神経を研ぎ澄まし、尋常でない力を引き出すが、身体にも影響を及ぼす。その副作用を減らすためにも、体を鍛える必要があるのだ。


 ルミアはオヅマの持つ特異な才能に驚きつつも、やはり疑問がぶり返した。

 これは才能なのか、あるいは既にのではないか…?

 しかしオヅマに尋ねることはなかった。聞いたところで、また「知らない」と言うのが目に見えている。


 話を元に戻すと。


 オヅマはこの呼吸法を利用することによって、心肺能力も飛躍的に向上し、走練においてはハルカを追い抜いた。もっとも、これまでハルカが凄すぎたのであって、これでようやく年の差分になっただけだと、オヅマは思っている。


 ルミアは時々、オヅマの剣撃の相手もしてくれたが、わざと隙をつくって、オヅマに存分に打ち込ませるだけだった。


「ちゃんと攻撃しろよ! 稽古になんねーだろ!!」


 まったく向かってこないルミアにオヅマが怒って言うと、しゃあしゃあと返してくる。


は、アンタ次第だね」

「こンの…クソ婆ッ」


 悪態をつくが、ルミアはカラカラ笑って相手しない。

 オヅマは口ではルミアに文句を言いながらも、そろそろ気付き始めていた。



 ――――― 訓練をのと、は違うんだよ 



 おそらくここでは騎士団のように、与えられた訓練をこなすだけでは駄目なのだ。自分にとって何が必要なのか、何を学ぶべきなのかを、自ら見出していかねばならない。


 だが『澄眼ちょうがん』という稀能を修得するために来て、オヅマはまだ何一つとして理解できていない。

 与えられた課題の中で、いったい何が必要なのか、自分がいったい何を学べばいいのか。

 今のところは、ただというだけ。

 成長できているのかもわからない。


 しかし修行について悩むところはあっても、オヅマはここでの生活をある意味満喫していた。

 早朝から日暮れまで、自分のおまんまを調達することも含めて、ほぼ走り回っているような毎日ではあったが、公爵邸での堅苦しい日々に比べると、ずっと気楽だ。

 ルミアは師匠で、偉そうではあったが、礼儀作法に厳しいわけでもない。(「クソ婆」と言われても笑っていたくらいだ)

 ハルカも相変わらず愛想はなかったが、オヅマが困っていると無言で手助けしてくれたし、最近では剣撃稽古の相手もしてくれる。


 そんなわけで、すっかりこちらでの生活に馴染んでいたオヅマに、アドリアンからの手紙が届いたのは、緑清の月半ばの、雨の日のことだった。



***


萌芽ほうがの月 末日


 新年の上参訪詣クリュ・トルムレスタンの前日、晩春の夜に書き記す。


 いよいよ明日には帝都へと出発する。

 元気かい? たぶん元気だろうと思ってる。

 何かあれば公爵邸にしらせが来る、ってベントソン卿が言っていたから、何も来ないということは無事なんだろう。


 君が手紙なんて書くはずもないしね。


 君のことだから、師匠という人の厳しい稽古にも、ついていってるのだろうね。公爵邸よりもそちらでの暮らしの方が、案外楽しかったりするのじゃないかい?

 僕は明日から長旅だ。帝都に着いたあとのことを考えても、憂鬱になるばかりだよ。


 この前、ヴァルナルに剣術の稽古を受けているときに、僕もズァーデンに行って修行を受けたいと言ったら、皆に反対された。

「大貴族の若君には必要ございません」だってさ。

 誰が言ったのかは、想像できるよね?

 大公殿下だって稀能者なんだから、僕だっていいじゃないかと言ったけど、「大公殿下は別格でございます」だってさ。

 本当にマティの石頭にはかなわないよ。


 そういえば黒角馬くろつのうまが、とうとう公爵家の騎士団にも入った。

 僕も黒角馬と普通の馬とのあいの子を一頭、もらえたよ。白葦毛あしげの、まだ角も短いけど、とてもおとなしくて利口なだ。

 どうせなら騎乗して帝都まで行きたかったけど、それも禁止された。

 帰ってくるまではおあずけだってさ。


 エーリクも特別にヴァルナルの厚意でもらえたんだけど、彼は帝都まで騎乗して行くことを認められて、もう嬉しくてたまらないみたいだ。

 普段は固まってる顔が、馬のことを考えていると、緩んじゃうんだろうな。

 馬具の手入れをしながらにやけてるエーリクを見て、キャレが「エーリクさんは、何か悪いものでも食べたのでしょうか?」って、真面目に尋ねてきたよ。久々に大笑いしたな、あれは。


 僕らが帝都から戻る頃には、君も帰ってきているだろう、ってヴァルナルが言っていた。

 修行って、何年もかかるのかと思って、君がそうだったらどうしようかと思っていたけど、ヴァルナル曰く「半年でモノにできないなら、もうそれは才能がないということです」だってさ。

 厳しいね。

 それに稀能を修得できてからも、鍛錬は必要なんだって。だからヴァルナルは、騎士団の訓練以外でも、自分だけの時間をつくっては、鍛錬しているらしい。

 君もヴァルナルのようになっていくなら、ますます差が開く一方だ。

 剣術においては君と互角でありたかったのに。


 いずれにせよ、僕はものすごく憂鬱だってことだ。

 嬉々として修行に行ってる君と違って。

 まさか本当にあの日のうちに出発するなんて思わなかったよ。聞きたいこともあったけど…まぁ、また帰ってきてからにしておく。


 アールリンデンに戻ったら、しばらくはみっちり補講を受けてもらうよ。再来年の紫鴇しほうの年には、アカデミーに入ることになってるからね。

 そのつもりで!


 年神様サザロンの加護あらんことを。


 アドリアン・オルヴォ・エンデン・グレヴィリウス』 


***



「…………」


 オヅマはそのままそっと畳んで、読まなかったことにしようかと思ったが、そうもいかない。


 アドリアンはおそらくヴァルナルからここでの情報を得たのだろう。その上で、オヅマがここの生活に順応しきって、羽根を伸ばしていると予想した。

 間違ってない。さすがだ。

 しかし ―――


「俺に当たるなよ、俺に。愚痴を書いてくるか、わざわざ」


 自然と溜息がもれる。


 おそらくこの手紙で一番言いたかったのは、ロクに説明もせずに早々にズァーデンに旅立ったオヅマへの文句だ。

 普段、物分かりのいい、よく出来た小公爵様然としている分、反動がオヅマに来る。他の近侍にもこんな愚痴が言えればいいのだが、最初から小公爵として対面しているせいか、なかなか難しいのだろう。


「……っとに、困った小公爵サマだ」


 言いながら、手紙をまたざっと読み返す。

 途中にある一文に顔が曇った。

 喉にこみあげてくる苦味を無理に飲み下し、深呼吸する。

 脳裡に浮かび上がってきそうなその影を打ち消して、仕方なくペンを手に取った。



『緑清の月 某日


 前略 嫌味たらしい小公爵さま …………』

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