第二百四十三話 修行開始
ルミアの問いに、オヅマはしばらく答えられなかった。
知っている、と言ってもそれは夢の話で、現実においてオヅマはリヴァ=デルゼを知らない。
会ったこともない。
たとえ今、このときも夢の中のリヴァ=デルゼの
「知りません」
静かに答えると、オヅマはギュッと唇を引き結んだ。
何を聞かれようと、そうとしか答えることはできない。
夢のことを思い出すのも、話すのも嫌だったし、信じてもらえるはずもないのだ。
ルミアは深刻な顔で黙すオヅマを、しばらく見つめていた。
大きなセピアの瞳がじっと見てくる。
それはリヴァ=デルゼのように威嚇するものではない。問い詰めるものでもない。だが、穏やかでありながら透徹とした光が、オヅマを貫くように見ていた。
ちょっとした嘘程度なら、この目の前で洗いざらい白状しただろう。
だがオヅマのそれは嘘ではなく、夢物語でしかないのだ。本気で話し始めたら、気が狂ったと思われる。
剣術の試合で対峙するかのように、オヅマは必死でルミアの目に耐えた。
にらみ合いは思ったほど長く続かず、先に目を伏せたのは、ルミアのほうだった。
「あぁ、そうかい。じゃ、いいや」
軽い溜息とともに、あっさりと自らの疑問を放り出す。
オヅマは面食らった。
「へ?」
「なんだい、拍子抜けみたいな顔して」
ルミアのセピアの瞳がジロリとオヅマを見たが、そこには特に疑心暗鬼な様子もない。ふたたび
「私は面倒くさがりでね。当人が言わないことを、いちいち聞いて厄介事をかかえるのも御免蒙りたいし…ま、アンタが娘を知っていたところで、私がアンタに教える内容が変わるわけでもない」
オヅマはゴクリと唾を飲んだ。
反射的に体が強張ったのは、リヴァ=デルゼから受けた修練を勝手に記憶しているからかもしれない。
「あの…修練の内容って、どんなものですか?」
思い切って尋ねると、ルミアはクッと片頬に笑みを浮かべた。
「とりあえずは、スジュの実を当てられないように、川まで辿り着くことだ」
「え?」
「しばらくは、あの豆猿共がアンタの師匠になる」
ルミアの言葉通り、翌日からオヅマはほぼ毎日、豆猿たちに稽古をつけてもらうことになった。
***
「だーッ!! テメーらッ!」
怒鳴りつけながら逃げ回るオヅマの背に、またスジュの実が一つ当たる。
すばしこい豆猿たちは、木の上からだけでなく、地上にまで降りてきて足元から投げてくることもあり、それこそ全方位からオヅマに襲いかかってくる。
いや、正確には彼らはオヅマを襲っているというより、オヅマで遊んでいた。
ルミアはこの一帯を縄張りとしている豆猿グループを餌付けして、彼らに修行にやってきた人間の稽古をつけてもらっているらしい。
多くの修行者達がルミアの元を早々に去っていくのも、この屈辱的な稽古についていけない…という理由もあった。
確かに貴族や、騎士として代々家門を継いできた誇り高い者であれば、猿ごときに馬鹿にされているかのようなこの修行を、耐え忍ぶのは難しかったろう。
しかもルミアからは猿に手出しをすることは、重く禁じられている。
もし、猿に対して攻撃を行った場合には、修行の一切を停止され、主君には「恥知らずの不埒者」と通告された。
これはもはやその家門で騎士としての職を奪われるに等しい。
騎士でなくとも、ルミアは近隣の傭兵組織にも顔がきくので、もし『
どちらにしても、猿への暴行が明らかになった時点で、ルミアの鉄拳制裁は覚悟せねばならない。
オヅマは豆猿たちの稽古を屈辱とは感じなかった。
そもそも容赦なく投げてくる実を避けるのに必死で、そんなつまらないことを考える暇もなかった。
最初に魚を取りに行ったときと同じように、シャツをほぼ真っ黒にしては、洗濯草で洗う日々が続いた。
「あんなの、どうやってよけろってんだ…」
ボヤくオヅマの横には、まったく汚れていないハルカがいる。
「お前、どうやってよけてるんだ?」
と、オヅマが聞いても、ハルカは表情を変えずに目を瞬きするだけだった。
「まだまだだねぇ」
ルミアは今日も洗濯するオヅマを見て笑った。
「無理ですよ。一個よけても、次には後と横から来るんだから」
オヅマがぶつぶつと文句を言うと、ルミアはフンと鼻をならす。
「そうかい。ヴァルナルなら、全部よけてるだろうがね」
「………」
ヴァルナルの名前を出されてはグウの音も出ない。
確かに『
「アンタはまだまだ限界が早いね」
「限界が早い?」
「最初の十個までは、まぁまぁよけられる。でも、走っていくほどに、当てられる数が増える。粘り強さが足りない。途中でへたばっちまうのさ」
「………」
オヅマはムっとなった。
レーゲンブルトにおいても、公爵家の騎士団での訓練においても、オヅマはそこそこ体力のあるほうだとされていた。カールのような華麗な剣技は無理だとしても、
ルミアは明らかにふてくされたオヅマを見て、片頬を上げて笑う。
「不本意、と言いたげだね」
「……正直、騎士団の走練だって、俺は一番最後まで残ってます」
騎士団で行われる走練は、速さを競うものよりも、長く走っていられることのほうが重要視される。オヅマは持ち前の負けず嫌いもあって、終了を言い渡されるまで走っていることが多かった。
しかしルミアはヒラヒラと手を振った。
「あんなの、チンタラ走ってるだけじゃないか。足を動かしてるってだけだよ。ま、自信があるなら……」
次の日から、ルミアは早朝の走練を課した。
しかも
「ふん。余裕だ」
「そうかい? あの子にどこまでついていけるかねェ?」
言ってるそばからハルカは黙々と準備して、さっさと出発する。
「馬鹿にすんなよ、婆さん」
気安い口調で言って、オヅマは走り出した。
走ることは、オヅマの得意分野であった。昨日も言ったが、レーゲンブルトにいた頃でも、走練では騎士団の誰にも負けたことはない。そもそもヴァルナルに目をかけられたのも、ラディケ村からレーゲンブルトまでの距離を、とんでもない速さで走ってきたことが発端だと、のちにカールから聞いている。
豆猿たちからの稽古ではハルカに遅れをとっても、山を走るだけならば負けることはないだろう…。
オヅマは余裕綽々と走り出した、が。
***
「情けないねぇ。いつまで座りこんでるんだい。とっとと飯食って、豆猿たちのところに行きな!」
ようやく帰ってきたものの、薪の入った背負子をドサリと降ろしたと同時に、オヅマはその籠に寄りかかるように座り込んで動けなかった。
目の前では、ハルカが自分が運んできた薪を薪小屋に置いていっている。その顔は同じ距離を走ってきたとは思えぬほど平然としていた。
「化物かよ、お前は…」
何気なくつぶやくと、ハルカが暗い目でジッと見てくる。すぐにオヅマは訂正した。
「違う。お前がスゴイ奴ってことだ」
「ハハッ! レーゲンブルト育ちの騎士見習いも兜を脱いだかい」
ルミアに笑われても、オヅマはもはや何も言えなかった。
実際、自分が未熟であることは、今回の山走りで痛感した。
豆猿たちからの稽古は慣れないものであったから仕方ない、と誤魔化せたが、走る訓練はレーゲンブルト騎士団にいた頃からやってきたことだった。それもオヅマには自信があったのだ。
しかし、ハルカの脚力はオヅマの想像を遥かに超えていた。
小川を軽く飛び越え、坂道を駆け上り、険しく足場の悪い獣道でも、一向に速度が落ちることはない。ほとんど壁のようになっている岩場もあったが、這い登るのも降りるのも、それこそ猿のように速かった。
それに健脚であるという以上に、身体をそこまで酷使しても、ハルカが息を乱すことはほぼなかった。
心肺機能の鍛え方が違うのだ。しかし ――――
「これって……『澄眼』に関係あるんですか?」
オヅマが尋ねると、ルミアはフフンと笑った。
「訓練をこなすのと、修行は違うんだよ。何のためかは、自分で考えな」
言い捨てて、ルミアはオヅマに背を向ける。
「…クソ…っ」
オヅマは自分がみっともなくて、苛立った。
ルミアはオヅマが迷っていることに気付いているのだ。
豆猿たちからの稽古にしろ、この走練にしろ、いったい何のためにやっているのかわからない。
その上、その与えられた課題を、何一つ満足にこなせていない自分…。
黙念と地面に座り込んでいるオヅマの前に、いつの間にかハルカが立っていた。
顔を上げると、やっぱり表情のない一重の瞳が、オヅマをじっと見つめていた。
「なんだ…?」
問いかけると、ボソリとハルカが言う。
「……なれ」
「なれ?」
問い返すオヅマにハルカは頷いた。
もう一度言う。
「なれ。なれる」
「なれる…?」
ハルカは頷くと、オヅマの
オヅマもノロノロと立ち上がると、薪を運びながらつぶやいた。
「なれ…なれ…なれる…馴れる…?」
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